唯一の希望
レイヨの母のトヨキは、悪夢から目覚めた。そこは誰もいない回療所だった。
「レイヨ・・・あなた・・・」
彼女は痛む頭を触りながら周囲を見回した。しかし、ここが何処なのか、自分はどうしていたのか、まるで覚えていなかった。
「私・・・なんでこんな所に?」
ふらつく身体に鞭を打ってようやく立ち上がると、彼女は廊下へ出て行った。外には長い廊下があり、反対側には窓が並んでいた。彼女にはこの建物に見憶えがあった。
「そうか、ここは学校ね」
新しい校舎が村内に出来たので、村外にあるこの建物は、もう10年以上前に使われなくなっていた。房軍は旧校舎を回療所や倉庫などに利用していた。窓は村とは反対の山側を向いていたため、村の状況を目視することはできなかった。ただ、この時の彼女が正常であれば、校舎中にまとわりつく焼け焦げた臭いに気がついたはずである。
「懐かしい・・・」
彼女は病室の隣の教室に入った。中は房軍の倉庫になっているらしく、箱が所狭しと置かれ、まるで迷路のようになっていた。荷物は天井ギリギリまで積まれているため、部屋の中は薄暗かった。積み重ねられた箱の隙間からわずかに覗いている黒板に気がつくと、彼女はゆっくりと近づいた。指先で黒板を撫でてみる。埃と白いチョークのかすが指先に付いた。
ワツミとは同級生だった。彼は優等生だったが、彼女は真ん中ぐらいの成績だった。彼は運動はそれ程得意ではなかったが、彼女はかけっこは一番だった。よく彼に勉強を教えてもらった。そして村若を卒業した19歳の時に彼と結婚したのだった。そしてレイヨを授かった。
そうだ、レイヨ、レイヨはどこ?
「奥さん、勝手に動き回られては困ります」
教室の入り口に、房軍の制服を着た男が立っていた。
「すみません。主人と娘を知りませんか?」
トヨキは眼の前の房軍の男に尋ねた。男は柔やかに笑いながら近づいてきた。
「そうですか・・・ご存知ないのですね。お二人とも亡くなりました。とても残念なことです」
菊池は身体中の疼きで眼を覚ました。彼は地面にうつ伏せで倒れていた。
「生きてる?」
ゆっくりと頭を起こした。頭の中にセミでも放たれたような耳鳴りがしていた。
「いたた」
起き上がろうとした菊池の全身に激痛が走った。特に左肩がうずいた。肩を調べると、半ば折れた矢が背中に突き刺さっていた。彼は肩を庇いながら、ゆっくりと起き上がって周囲を見回した。
「これは・・・」
火炎地獄。
見渡せる範囲は全て、赤橙色の火炎に覆われていた。少し先に御宮が見えたが、屋根が炎に包まれていた。森の木々はことごとく火の葉を携えていて、周囲を満たす灰色の煙が彼をむせこませた。傍には両眼窩から眼が半ば飛び出し、ヘルメットごと頭が潰れている兵士の亡骸が炎で燻っていた。菊池は肩に矢を受けて動けなくなっていた時に、爆発で吹き飛ばされたことを思い出した。
「そうだ、キネリは?」
しかし周囲の景色は一変していてオリエンテーションがつかず、キネリはどこにも見当たらなかった。急いで探さなければならないが、まずこの矢を抜かなくてはならない。矢尻は筋肉内に食い込んでいたが、幸い骨は避けていた。矢じりはかぎ状になっているので引き抜くことはできない。押し出して抜くしかない。彼は倒れている兵士から剣を奪うと、自分の服を破って包帯を作った。そして口に落木をくわえ、生唾を飲み込みこんだ。そして彼は意を決すると、背中から勢いよく地面に倒れこんだ。
「ぐあっ!」
折れた箆(矢のシャフト)に体重がかかり、メキメキと音を立てながら、矢尻が筋肉や皮膚を突き破って肩から突き出した。傷口から血液が大量に流れ出した。
「グググ」
菊池は呻きながらも、前から飛び出した矢を引っ張り抜いた。口にくわえた枝に力が入り、メキッと折れる音がした。痛みで失神しそうになったが、何とか正気を保つと、しばらく圧迫してから包帯で傷口を縛って止血を行った。
「ふう」
彼の左肩は血液で朱に染まっていた。失血で少しめまいがしたが、休んでいる暇はなかった。菊池は急いでキネリのいただろう方角に向かったが、炎が行く手を阻み、近づいただけで熱風が顔を照り返した。炎の壁を迂回しながら、彼は進んでいった。
「キネリ!キネリ!」
だが轟々と炎がいななくばかりで、彼女からの返答はなかった。
「グオオー!」
いきなり死角から大男が一人飛び出してくると、菊池につかみかかってきた。男の顔半分は火傷で爛れ、半眼は半ば塞がっていた。身体にも火傷痕が多数認められたが、動作には影響を与えてはいないようで、男は恐ろしい力で菊池に挑みかかってきた。二人はもつれながら倒れたが、男は菊池を殴った後、上にまたがりマウントポジションをとった。
「菊池か!へへへ。こりゃついてるぜ!」
男は垂涎しながら、再び菊池の顔を殴りつけた。背後には炎が暴れ狂っており、まるで男の狂気が乗り移ったようだった。
「ぐふふ。おーい、ここだー!菊池がいたぞ!俺が捕まえたんだ!」
男は以前に小隊があった場所、そこは今は踊り狂う炎が鎮座していたが、に向かって叫んだ。口元から涎が糸を引いて垂れ、菊池の頬をぬらした。しかし不思議と菊池は恐怖を感じなかった。彼は表情一つ変えず、男の顔を見つめていた。ヘーゼルの瞳が炎に照らされ、緑と朱の光が揺らいでいた。
「おい、なんだ?おかしな目で俺の顔をみるな!」
男は三度菊池の横面を殴打したが、菊池は微動だにもせず、男の顔、特に瞳を凝視していた。男の身体の影になり、菊池の顔はその相貌を隠されていたが、彼の眼だけは淡い橙色に光っていた。眼が徐々にわななき始めた男は、落ち着きを失ってきた。
「な、なんだー!お前は何を・・・」
総兵士長は菊池の頸を絞めようと手をかけたが、力を入れようとした差中、気まぐれな炎が映し出した菊池の顔が母親の顔となっていた。
「か、母さん。なんでこんな所に・・・。いや、母さんは死んだんだ。母さんは!」
菊池の上から飛びのくと、彼は尻餅をつきながら逃げるように後ずさった。その眼には、まるで化物を見るような恐怖が現れていた。
「お、俺は悪くない、俺は・・・」
男は頭を抱えながら泣き始めた。菊池はゆっくりと立ち上がると、彼の前に起立した。菊池の背後には燃え上がる樹木が林立していて、総兵士長には炎をまとった巨人達が、彼に付き従っているように見えていた。菊池は不思議な感覚に囚われていた。自分を恐れている眼前の男の態度に違和感はなく、自分がこれから行うべきことに確信を持っていた。
「いいか、お前は罪を受けるんだ。無垢な人々への罪を。あそこに爆破し損ねた油壺がある。仲間が助けにきたら、油壺に火を投げ込め。いいか、仲間を巻き添えにするんだ。贖罪のために、自分の正義のために、母のために」
菊池の眼は薄くオレンジ色に光り、薄笑いを浮かべていた。まるでヒトに在らざる生物、例えば爬虫類や昆虫など、ヒトとは決して意思の疎通が図れぬ生物に通じる異質さがあった。しかし自分が行なっている行為に違和感は感じず、まるで呼吸をしているのと同じくらいの、記憶にさえ残らない生理現象ぐらいにしか捉えてはいなかった。菊池は軽い頭痛を覚えたが、それは今の彼にとっては、取るに足らない感覚だった。
「亡くなった?まさか・・・。だって、今朝だって朝御飯を食べて・・・」
トヨキはその場に茫然と立ちすくんだ。
「そうですか。お気の毒に。貴女は混乱されているようですね。貴女の御家族だけでなく、村中の人が亡くなったのです。貴女以外は・・・」
男は微笑みを崩さずに言った。
「なんでそんなことを・・・そんな嘘を言うの?そんな筈があるわけ・・・」
男はゆっくりと彼女に近づいてきた。
「ニミツです。お忘れですか?」
彼女は狼狽えて辺りを見た。
「そんな、そんな・・・」
「いいですか、奥さん。貴女の御家族は死んだのです。私は幕多羅の浄化を命令されております。わかりますか?一人も生かしておくわけにはいかないのです」
彼女は彼の顔を見て恐怖を抱いた。彼は微笑みを全く崩してはいなかったが、その瞳の奥に凶悪な光を宿していたからだった。彼女は彼から離れるように、荷物が造り上げた迷路に走って逃げ込んだ。
「あれ?どうしたんですか?何を恐れているんですか?嫌だなあ。私は貴女のためを思っているんですよ?」
ニミツは腰の剣を抜くと、剣先をカチカチと床に打ちつけながら、ゆっくりと迷路に入っていった。
「奥さん。私も忙しいんです。こんな嫌な任務は早く片付けたいんです。お願いします。協力してくださいよ」
彼女は迷路の奥に進むと、物陰に隠れて震えていた。ニミツは周囲に音のしそうな物を見つけては、剣先で叩いてキンキンと音を立てた。金属音がする度に、トヨヒの身体がビクビクと反応した。眼をつぶり、頭を抱えて震えるしかできなかった。
あなた、助けて!
「さて、早く貴女の始末をつけて、次は娘さんの方に行かなくてはなりません。早く出てきなさい。楽にしてあげますよ」
ニミツは独り言のように、しかしトヨヒに聞こえるように話していたが、彼のこの言葉に、彼女は眼を開けて頭を上げた。
レイヨ!そうか、レイヨはまだ無事なのだ。良かった。でも、こいつをレイヨの所に行かせるわけにはいかない。自分がここで何とかしなくてはならない。
彼女は周囲を見渡した。比較的しっかりした作りの、大小さまざまな箱が、あちこちに壁のように林立していた。箱にはラベルが付いていて、服や食料など日用品が入っているようだ。見た限り武器になりそうな物はなかった。彼女は懸命に周囲を探った。そして半ば開かれた『調理』と書かれた箱を見つけ、慌てて中を開けると数本の包丁を見つけることができた。彼女は包丁を取り出すと、柄を両手で握りしめて胸の前で構えた。いつも使っている包丁と大差はないはずだったが、ずっしりと重く感じた。剣を持った軍人に、中年の女が包丁1本で太刀打ちができるはずはなかった。包丁の先端が細かく震えた。
その時、彼女は箱の奥に何かを見つけた。
「これは・・・」
それは彼女にとって唯一の希望だった。