奮戦
日本の神社周囲には昔から鎮守の杜が必ずあった。社叢とも呼ばれ、現世と常世の境界を示していると言われる。目に見えぬ神が降臨し、目に見える形に変わる神聖な場所である。深い森の中の古木や巨石は崇拝の対象として礼拝された。今、ご神体は、まるで身体に巣食う寄生虫のような人間の阿鼻叫喚に侵されていた。
総兵士長が叫んだ。
「散開!渦動師がいるぞ!弓兵前へ!」
小隊の最後尾にいたメキソは、総兵士長の命令を聞き、慌てて地ベタに寝転んだ。
「て、敵?ルキソは?」
彼の位置からは何も状況がわからなかった。ルキソを心配した彼は、ゆっくりと前衛へと這い進んで行った。
「馬鹿な奴め!」
キネリは罵った。右腕を渦動でもぎ取られた斥候が、自身の体を使って導火線の火を揉み消したのだ。
渦動波は物質を瞬時に粒子状に分解するが、破壊面は物質の粒子化により粘土のような一様な状態に変化する。そのため、切断部位からの出血は多くはない。この兵士は右肩を消滅させられたが、出血量が大したことがなったために動くことができたのだ。要は、キネリの攻撃は中途半端だったのだ。しかしキネリを責めることは、この場合はコクというものだ。彼女は一人で一個小隊と対峙しており、余裕などない。更にこの兵士の行為は、共生者らしからぬ行為であり、想定することは難しかったのだから。彼ら共生者はとても論理的に、利害関係に重点をおいて判断・行動する。そのため軍など規律が重視される団体では、軍規違反は死罪を含めた重罪を適用している。したがって、上からの命令にはよく服従するのだが、いざ自分の意思で行動する場合は、利己的考えに終始することが多い。今回の兵士の行動は、明らかに自己犠牲と呼べる行為であり、共生者が選ぶ選択肢とは考えにくい。余計なことをしなければ、戦闘力のない彼をキネリは放っておいただろう。
右肩を失った兵士はキネリを見ながら笑っていた。右肩を左手で押さえ、苦悶の表情に顔を歪めながら、彼は笑っていたのだった。キネリは敵からの攻撃に注意しながら、ルキソの傍に移動すると、魚の頭を落とすように、ルキソの頸を切断した。血飛沫が彼女の顔にはね、ルキソの顔は笑みを蓄えたまま身体から分離され転がっていった。そして彼女は血液に注意しながら、ルキソの遺体を裏返して導火線を確認した。導火線はルキソの背中で揉み消されてしまっていた。火をつけたくても火打石は菊池が持っている。
「!」
彼女は危険を察知して小隊の方を見ると、数名の弓兵がこちらを狙っていた。
「シュッ」
矢が彼女に向かって放たれた。キネリは咄嗟に首と肩のない死体を起こして楯にした。
「トントントン」
弓が死体に刺さる。彼女は次の矢が来る前に菊池のいる所まで退却した。
「こっちだ!」
御宮の下から菊池が声をかけた。キネリは土嚢を軽く飛び越え、床下に潜む菊池の脇に滑り込んだ。そして血液が付いた顔を拭うと渦動口を閉め、一息ついた。
「まずいわよ。火が消えた。オマケに弓兵まで。火打石は?」
菊池は火打石をキネリに渡しながら言った。
「ここから出るとヤバイよ。渦動波で火を付けられないのか?」
「ムチャ言わないでよ」
実際、炎を使う渦動師も存在する。いわゆる渦動転移だが、彼女は得意ではなかった。この戦いは長丁場になる。アエルは有限なのだ。上手くできるかわからない変換効率の悪い技を使って、アエルを浪費するのは愚の骨頂だ。幸い相手はまだ油壺の存在には気づいてはいないようだが、それも時間の問題だろう。その時、キネリの六感に直接何かが響いてきた。
「虫呼だ!まずい!」
キネリは耳をそばだてた。耳で聞くわけではないが、彼女には何と無くその方が良く聞こえる様な気がした。
「何?」
菊池が尋ねたが、彼女は静かにする様に形の良い唇に指を当てがった。小隊が本部に向けて連絡しているが内容は意味不明、つまり『符合』が付けられているのだ。
「聞こえた?符号が付いている。多分私の事がバレたわ。直ぐに敵が詰めかけてくる」
「虫呼?なんだいそれ?何か聞こえるのか?」
菊池は辺りをキョロキョロした。
「え?聞こえないの?だって、貴方・・・」
菊池は共生者だ。渦動口が開かなくても、虫呼ぐらいは聞こえるものだ。
「本当に聞こえないの?」
菊池は大きく頷いた。その顔には狐につままれたような表情があった。キネリは思わず吹き出しただ。
「ふふふ。貴方って本当に変なヒトね」
そう言うと、彼女はいきなり菊池に口付けをした。汗に濡れた彼女の身体からは、成熟した女の体臭が醸し出され、菊池の脳を刺激したが、彼は驚いてただ硬直しているだけだった。数秒にも数分にも感じた口づけは、始めた時と同じように、彼女から終わらせた。彼女は唇を愛おしそうに離すと、菊池を横目で見つめながら床下から走り出した。
「キネリ!」
キネリは渦動口を開くと、こちらに弓を引き絞っている弓兵の一人に向かって渦動波を放った。同時に彼女に向けて複数の矢が放たれた。矢は空気を切り裂きながら彼女に向かって直進した。渦動波と矢の1本が交差し、矢が白煙を上げて消滅した。僅かに体積を減じた渦動波は、そのまま弓兵に向かって行った。
「ふん、そんな距離から当たるかよ!」
弓兵は少し傍に動くだけで、難なく渦動波を避けると、次の弓をつがえた。しかし避けた渦動波は、キネリの狙い通り、弓兵の後ろの木に当たり、弓兵の上に倒れかかってきた。木はそれ程の大きさではないから死ぬことはないが、少しの間攻撃はできない。キネリに向かってきた複数の矢は、渦動を放った直後に彼女に降り注いだ。彼女はバレリーナのピルエットのように回転をしてかわしたが、一本は頭をかすめた。髪を結っていた紙縒が切れ、結われていた長い黒髪が回転に合わせて広がった。
「キネリ!」
菊池は周囲を見渡した。床板が確か外れたはずだ。菊池は床板を剥がしにかかった。
長髪をなびかせながら、キネリは全く躊躇せずに、姿勢を低くして導火線に向かって走った。こんな時『障壁』を造れれば良いのだが、彼女はアタッカーで、『障壁』は苦手だった。作ったとしても、どうせ長く維持は出来ないし、攻撃に移るまでタイムラグがあり逆に危険だ。その時、再び数本の矢が彼女の元に飛来した。彼女は地面に伏せて逃れようとしたが、1本が命中コースに入っていた。
「まずい、避け切れない!」
彼女はせめて急所は避けようと、腕で頭部をカバーした。
トン!
突然目の前に1メートル程の長さの板が現れ、矢はそこに突き刺さった。
「キネリ、大丈夫か?」
菊池だった。彼は御宮の床板を剥がし、楯代りにして助けに来たのだ。これは使える。
「菊池、いい?あなたは導火線の所に行って。私は北に回りこむから。その間、楯でしっかり身を隠すのよ。そして私が渦動波で攻撃を始めたら、導火線に火を付けるの。いい?余り早いと相手に油壺の場所がバレるわよ。まだ気づいてないみたいだけど、バレたら終わりよ。わかった?」
菊池は生唾を飲み込みながら頷いた。
小隊は大混乱していた。総兵士長は檄を飛ばし、統制の回復を図ろうと必死になっていた。渦動師と小隊との戦いでは、良くて五分、今回の様に強襲された場合は壊滅する危険があった。それも渦動師が一人の場合だ。少なくとも敵は二人いた。二人では話にならない。自分達の負けは確実であり、全滅は必死だった。新米小隊長はパニックを起こしていて使い物にならない。とにかく増援が来るまで敵を威嚇しなくてはならない。
「弓兵!休まずに打ち込め!軽装歩兵!こちらに来い!」
メキソは混乱の中、匍匐しながら隊の中央に向かって進んだ。すると前方の低木の茂みに隠れて震えている小隊長を見つける事ができた。
「隊長!斥候は?ルキソはどこですか?」
真っ青な顔で震えている隊長は、ゆっくりとメキソの顔を見たが、何も答えはしなかった。眼はきょときょとと小刻みに動き、半開きの口からは雫が垂れていた。すると、そばで総兵士長の檄が聞こえた。メキソは総兵士長の所へ向かうと、彼に質問をした。
「総兵士長!斥候はどうなりましたか?」
「メキソ!お前、持ち場を離れるな!斥候は死んだ。お前は・・・」
「死んだ?」
総兵士長は何やらこちらに話していたが、メキソの耳には入らなかった。思考が停止し、世界が歪んだ。
「ルキソが?ルキソが死んだ?まさか・・・ははは。そんな筈・・・」
その時、メキソの頬に総兵士長の平手が飛んだ。
「おい!しっかりしろ!お前は弟の仇をうちたくはないのか?」
突然メキソの意識が現実に引き戻された。
「いいか、お前はこいつらと南に進め。いいか、奴らを半包囲するんだ!」
メキソは言われるがままに、南に向かったが、今、自分がどこで何をしているのかわからなくなっていた。何でこんな所にいるんだ?ルキソはどこだ?帰ろう。ルキソを探して二人で一緒に。
キネリは菊池に火打石を渡すと、新たな矢が板に刺さったタイミングで、姿勢を低くしながら北側に走った。矢はキネリを追うように射られたが、横に走っている目標にはそう簡単に当たらない。キネリは北側参道を越えて、傍の林に飛び込んだ。小隊は彼女の方を危険と判断したようで、そちらに注視した。キネリは低木に隠れながらゆっくりと回り込むと、小隊の左翼にいた弓兵に渦動波を放った。
「練度が低いな」
キネリは自分の渦動波が弓兵の頭を消し去るのを見て呟いた。共生者同士はお互いの存在を認識できる。渦動口を開けたままの渦動師は、特に感知しやすい。だが精神状態が不安定になると、急速に感知能力は低下してしまう。彼女は自分が有利な戦況にあることを確信し、ほくそ笑んだ。
小隊は軽装歩兵をキネリの方に差し向けた。4人の軽装歩兵がキネリに向かって突進してきた。彼女は一人に渦動波を放った。光は男の胸に命中し、大きな穴を形成した。キネリは興奮に頬を紅潮させ、皮膚が粟立つのを感じた。軽く開かれた唇が濡れ、吐息が漏れた。有限力である渦動だが、今ならまだまだ使えそうに感じていた。渦動を放った時の『身体から抜けるような』感覚が、味わいたくて仕方がなかった。
「あ、あと3人!」
渦動衝動が彼女の心を支配し始めていたのだ。
菊池は渦動光を目にすると、盾に隠れながら導火線に火をつけた。数分間後には、油壺から半径数十メートルは火の海になるだろう。菊池の位置もギリギリだが、キネリの場所はアウトだ。だが、余り急いで逃げ出す訳には行かない。大丈夫、彼女は全て理解している。菊池はゆっくりと御宮まで後退した。