始まりの音
澄み渡っているのにもかかわらず、朝焼けの空では微妙な太陽の光の濃淡により雲が強調される。陽光は刻一刻と変化し、作り出される光と陰のせめぎ合いも変化していき、見る物に様々な事物を連想させる。西暦世界、写真家はこの複雑な自然美が訪れる時間を『マッジック・タイム』と呼んだ。
美しい空を背景に、トーラの甲高い声が響き渡っていた。トーラは春を呼ぶ鳥として知られていたが、地域によっては、その声の響きから、喪礼の笛の音を想像させるため、人の魂をあの世に送り出す凶鳥と考えられていた。まるで幕多羅のための鎮魂曲のように、トーラの声の余韻が村全体を包み込んでいた。
その時地上では、房軍平坂師団第一大隊全軍約8000人が緊張し、その音を待っていた。辺りの空気は彼らの沈黙によって凍りつき、否応無しに一種の高揚感を創り上げていた。その静寂をニミツの号令が引き裂いた。
「時は満ちた!闘いの音を!」
信号手は『竹ぼら』を構えると高らかに吹き鳴らした。虫呼ではなく『竹ボラ』を使うのは矢織の趣味だった。司令部で吹かれた竹ぼらは各所で呼応するように吹き鳴らされ、幕多羅全体を覆うように低く響いた。そしてその音に共鳴するように、幕多羅の周囲に爆発音が響きわたり、黒い煙が無数に立ち上り始めた。背後の丘からは打ち上げ花火のようなやや甲高い音を立てて、焼玉が規則正しく発射された。
菊池がキネリの忠告を無視して村へと戻ろうとしていた時、大地が震え、鼓膜が大きくわななくのを感じた。まるで地震だ。
「きた!」
キネリは掴んでいた菊池の腕を引っ張ると、御宮の床下陣地に引っ張りこみ、彼の頭を抱きかかえるようにうずくまった。爆音とともに大地が揺れ、御宮の床が悲鳴をあげながら、二人に破片を撒き散らした。キネリの胸の中で、彼は両耳を塞いで震えていたが、爆音は骨を通して容赦なく彼の鼓膜を震わせた。
「うわあー!」
菊池は初めて襲われる恐怖に我を忘れかけたが、柔らかな乳房と彼女の落ち着いた鼓動が、彼のパニックを和らげてくれた。爆音が和らぐと菊池は面を上げて村を見た。その光景は、まるで映画の1シーンのようだった。
「何てことを・・・」
村は燃えていた。黒煙が辺りを埋め尽くし、煙は真赤な炎を照り返していた。規則正しい砲声が北側から聞こえ、村人達の阿鼻叫喚が伝わってきた。菊池は急いで床下から這い出ると、広場に繫がる道に向かった。村は炎に飲まれていたが、広場までの道はまだ炎が回っていなかったからだ。
「菊池!危険だ!早く逃げなくては!」
「いいから、君は逃げろ!僕はみんなを誘導してくる」
彼は言うが早いか、そのまま姿勢を低くしながら村に走っていった。
「本当に世話の焼ける男」
キネリはため息をつくと、呆れ顔で菊池の後に続いた。
村は地獄の中にあった。村人達は泣き、叫び、倒れ、三々五々、走って逃げ回っていた。道には丸焦げになった死体が散乱し、炎を纏った人間が、まるで火の妖精のように彷徨っていた。
「早く!こっちだ!」
彼らは大声で移動できる村人達を御宮に誘導して回った。
「川に沿って避難して!」
菊池は負傷者を助けながら、皆を誘導していった。
ワツミは議事堂の仮眠室で地響きで飛び起きた。
「な、なんだ!地震か?」
彼は仮眠室のドアを蹴破るように開けると廊下の窓から村を見た。
「こ、これは・・・」
彼は口を開けたまま氷ついていた。村のあちこちで煙が上がり、炎が立ち上っていた。その時大きな爆発音が轟き、再び建物が大きく震えた。彼は裸足のまま外へ飛び出すと、住宅街へ走り出した。辺りは刺激臭が満ちていて、煙が眼と鼻腔を刺した。
「ま、まさか・・・。なぜこんな・・・」
走りながら女渦動師の言っていた言葉を思い出した。
『奴らはやる気だぞ』
更にこうも言っていた。
『民のために必要なことをなすのが議長の役目だろう?まず女子供を安全な所に避難させ、そして房軍に確認すべきではないのか?』
ワツミは我に返った。そうだ。みんなを避難させるんだ。彼は煙の中に駆け込んでいった。
レイヨは大きな音に眼を覚ました。彼女は臨時回療所の母親の面会にきて、母のベッドにもたれて寝込んでしまったのだ。音と共に地響きがする。
「地震?」
彼女は母親を見たが、寝ているようで異常はなかった。僅かだが、煙のすえた臭いが辺りに満ちていた。彼女は病室の窓についている厚手のカーテンをめくった。
「な・・・!」
レイヨは絶句した。窓外では、幕多羅が炎と煙に包まれていた。下に見える村は紅蓮に染まり、至る所から爆音がこだましていた。渦を巻く火炎は、まるで熾天使が、炎の翼を羽ばたかせているようだった。オレンジ色の光が端正な彼女の顔を照らし、蛇がのたうつ様な立体的な陰を形作っていた。元々色素の薄い光彩は、炎光を反射して白く輝き、強膜との境が消えたため、まるで眼全体が真っ白な光を放っているようであった。金縛りにあったように、レイヨは瞬きすら出来ず、それも彼女の放心状態を強調していた。
「・・・お父さん・・・タカヨシ!」
間も無く、内からの光を取り戻した瞳に生気が宿った。彼女は母親が静かに寝ているのを確認すると、カーテンを閉め、急いで病室を出た。そして村に向かって疾走していった。
ワツミは家々を巡りながら避難を呼びかけていた。
「急いで逃げなさい!」
「何?ワツミさん、何の騒ぎ?」
「いいから早く逃げるんだ!」
ワツミは走りながら大声で叫び続けた。
「早く逃げろ!」
彼は一軒一軒の家の扉を開けて怒鳴った。
「早く逃げるんだ!」
彼が見た家の中には、4人の家族が居間で固まって震えていた。突然天井が砕け、何かが居間の真ん中に飛び込んできた。真っ赤に熱せられた焼玉である。焼玉が床に食い込むと、周囲は直ぐに燻り始め、火が上がり始めた。
「さあ、早くするんだ!」
ワツミは家族を急かし避難させた。
「ワツミさん!」
背後で声がした。
「菊池くん!」
菊池は負傷者に肩を貸しながら歩いていた。ワツミは菊池に走って近づいてくると、負傷者を担ぐのを手伝った。
「済まない。私はなんと・・・」
「いいですか、そんなこと、今言ってる場合じゃありませんよ。それよりも、一人でも多くの人達を御宮から川に向かって避難させて下さい。あそこは安全です。この人をお願いします」
そういうと、菊池は道端に倒れこんだ老女に駆け寄った。
「あ、ああ、わかった」
そうだ。彼の言う通りだ。今はみんなを助けることが最優先だ。自分の罪は、その後にみんなに委ねれば良い。ワツミは負傷者を担ぐと御宮に向かって村民を誘導していった。
レイヨは村を封鎖する兵士達には目もくれず、その間を走り抜けた。兵士達は、いきなり後ろから燃え盛る村に向かって走る女性を、呆気にとられて見送るだけだった。村の封鎖を厳命されていたが、村に入っていく村民の指示は受けていなかったのだ。村は油壺による炎のリングに囲まれ、既に火炎地獄と化していた。この中に入っていくことは、即ち死を意味していたのだ。
レイヨは菊池の家に向かった。家々や木々は燃え盛り、周囲は煙が立ち込めていた。熱気が、彼女の立ち入りを拒むかのような圧力として感じられ、パキパキという音を立てて火の粉が肌を焼いた。しかし彼女はその中を走り抜けていった。
「大変!」
菊池の家は既に火が回っていた。藁葺きの屋根は巨大な白煙を上げ、所々に火の手が見えていた。彼女は扉を開けて中に入ったが、煙が充満していて全く見通せない状態だった。
「タカヨシ!」
煙に咳き込みながら中を探したが無人で、菊池は避難した後のようだった。彼女は外に出ると、父のいる我が家を目指して村の中心に向かった。