森の言葉
いつものように森に入った少年は、直ぐに異変を察知した。
ぐるりと森を見渡したが、何かがおかしい。
森が話さないのだ。
常に森は彼に話しかけてくれる。獲物の居場所から木の実の多くなっている場所まで。
今日の森は彼に何も伝えてはくれなかった。
昔、父と初めて森へ狩りに来た時のことを思い出した。
森に入って間も無く、やや開けた場所にたどり着いた。丈の低い草が、まるで緑の絨毯のように生え揃い、その周囲を高木が覆い被さるように密生していて、まるで円筒形の建物の内部のようだった。そして二人は部屋の中央で仰向けに横たわった。
「いいか、ここは完全な共生が成立している。草も木も動物も、そして太陽や風さえも。そして我々人間もだ。全ての感覚を使って森を、世界を感じるんだ」
頭上をつがいの鳥が絡み合いながら横切っていった。
葉がこすれあう音。
風の匂い。
背後の大地からは、突き上げるような力を感じた。
「感じるか?森は多弁だ。何でも教えてくれる。人間が正しく耳を傾ければ、お節介なお喋り女のようだ。母さんのようにな」
父は軽く微笑んだ。そして直ぐに真顔になった。
「だが、何も伝えようとしない時もある 。森の伝え手は弱き者たちだ。彼らが怯える時、森はその囁きを止める」
そう、正に今がその時だ。森は危険を伝えようとしているのだ。
彼は本能に従い、森から離れることにした。
トヒセは、スモニが瞬殺された直後は硬直して動けずにいたが、直ぐに我に帰ると適応者の方に向かって走り出した。
獣は腕に刺さっていたスモニだったモノを振り落とすと、ゆっくりとトヒセを追い始めた。
「誰か!助けて!」
誰か出てきて。
あと少し。
勢子の所に逃げ込めば、『的』は私だけじゃなくなる。
あと少し。
目の前の茂みの先には囮がいる。
その時、左肩に激痛が走り、彼女は地面に串刺しになった。
「ぐぶっ!」
ジャンプしてきた獣の右手の鎌が、彼女の左肩を背後から刺し貫いたのだ。
トヒセは吐血した。
鎌は左肩甲骨と肋骨を砕き、左肺を突き破っていた。
即座に、彼女のアエルは生命維持に必要な対応を行った。脳内麻薬の分泌、損傷部位を含めた抹消血管の収縮、自律神経による呼吸と心臓収縮の調整、そして止血機構の亢進。
これらは彼女から痛みを取り除き、循環動態を安定化したため、片肺の半分が潰れた状態でも、直ぐに次の行動に移る機会をもたらした。
彼女は右手で素早く腰に帯びた剣を引き抜くと、うつ伏せのまま背後の獣に突き刺した。不利な体勢での利き手でない手による攻撃だったため、剣は獣の右脇腹の肉をわずかに削っただけだったが、獣は彼女の肩から鎌を抜くと、数歩退いた。
トヒセは急いで振り返ると、上体を起こして獣に対峙したが、左肩が激痛に襲われ、顔を歪めて剣を落としてしまった。肺の損傷で呼吸が苦しく、渦動口を開くこともできない。
墮人鬼はゆっくりと右手の鎌を持ち上げた。
もう駄目だ。殺される。
父さん、母さん。
彼女は、せめて一瞬の苦痛で済むように、眼を閉じた。