家族の信頼
キネリは帰り支度を終えると菊池の元を訪れた。彼は軟禁されていたが、房軍の制服を着たキネリを見ると、兵士は扉を開けてくれた。
「菊池・・・元気か?」
菊池は何もやることがなく、居間で横になっていた。土間に佇んでいるキネリを見ると、中に招き入れた。彼女は靴を脱ぐと、菊池の前に座った。
「ああ。何もやることがないけどね。君も元気そうで良かったよ。心配していたんだ。そうか、君は常世に帰るのか?」
「そうだ。私の任務は終わったからな」
彼女はやや俯き加減に答えた。
「そうだな。気をつけて帰れよ。黄持さんに宜しく伝えてくれ。そうだ、一つだけ頼まれてくれないか?帰る前にレイヨの様子を覗いて来て欲しいんだ。もし彼女に何かあるなら、何とか助けてやって欲しい」
キネリは右手を膝の上で強く握ると、思いつめた顔を彼に向けた。
「そんなにレイヨが心配なのか?」
「そりゃあ心配だよ」
「何故?」
「何故って友達だからね。当たり前だろ?君のことだって心配していたんだ」
「私のことを?」
「君と僕とは友達だろ?違うかい?」
「友達?私達が?あなたは、もしかしたら間も無く死ぬかもしれない。それなのに、なんでそんなに他人の心配ばかりしているの?私とあなたは、今は敵同士なのよ?」
菊池は頭をかきながらキネリを見つめた。
「弱ったな。まあ、性分なんだよ。でも僕は君を友達だと思っているよ。だから心配して当たり前だ。頼むからレイヨを助けてあげてくれ」
「・・・わかった」
そういうと彼女は菊池の家を出て行った。眼には薄っすらと涙が滲んでいた。このことは彼女自身にとっても意外だった。
自分はどうしてしまったのだ?
何故こんなにも、彼のことが気になるのか?
何故自分は幕多羅を離れたくないのか?
今までに経験したことのない感情が渦巻き、彼女を押し潰そうとしているのを感じた。一番近い感覚・・・そう、焦りに近い。何を焦っているのだろう?
下着姿にされたレイヨはのしかかってくる男に必死に身体をよじって抵抗していた。しかし両手足を他の男達に押さえつけられると、身動きすらてきなくなってしまった。
「おら、動くんじゃねえ、この裏切り者の娘が!」
男はレイヨの頬を殴りつけた。彼女の頬が赤く腫れ上がった。叫び声を上げることもできず、彼女の意識はぼうっとしてきた。
「お前たち、何をしている!」
人々は一斉に声のした方を見つめた。そこにはキネリが立っていた。彼女の眼は怒りに震えており、両の拳は硬く握られていた。レイヨを囲んでいた5人の男達は、何事が起きたのか解らず狼狽えていた。キネリは周囲の人々を掻き分けて接近すると、レイヨの上になっていた男の顔面に蹴りを入れた。男の鼻骨は折れ、前歯を飛ばしなから後ろに倒れた。間髪を入れずに、レイヨを押さえつけていた他の男達に回し蹴りや手刀を入れた。男達はそれぞれ別の方向に飛ばされて動かなくなった。
「大丈夫か、レイヨ!」
キネリは猿轡を外し、自分の上着を脱ぐと、レイヨに掛けてやった。人々の輪は崩れ、散り散りに逃げて行った。
「キネリさん・・・。お母さんは?」
レイヨは母親の方を見た。トヨキは仰向けに倒れ、額から出血しており、意識はないようだった。キネリは直ぐにトヨキに駆け寄ると脈をとった。
「大丈夫。生きてる。急いで医術師の所に行こう」
ワツミはレイヨ達が襲われたと聞き、急いで房軍の臨時回療所にやってきた。
「レイヨ!トヨキ!大丈夫か?」
レイヨは治療を終え、母親の眠るベッドの傍に座っていた。頬には湿布をされ、両手に包帯を巻いて痛々しいが、しっかりと母親の手を握っていた。
「お父さん!」
レイヨはワツミに走り寄ると抱きついた。
「どうしたんだ?何があった?」
「暴徒に襲われたようだ」
少し離れた所で、腕を組んで壁に寄りかかっていたキネリが答えた。
「暴徒に?まさか」
「本当よ!お父さん!何が起こっているの?一体お父さんは何をしているの?みんなが私達を『裏切り者』と言いながら襲ってきたのよ!何で?何で私達が裏切り者なの?」
ワツミはなだめるように娘を椅子に座らせると、トヨキの顔を覗きこんだ。頭に包帯を巻き眠っていた。
「お母さんの容態はどうだ?」
「ただの脳震盪だそうだ。じきに眼を覚ます」
レイヨに変わってキネリが答えた。ワツミはトヨキの頬をそっと撫でた。その時病室の扉がノックされ、
「入ります」
と言うと音もなく扉は開けられた。そこにはニミツが立っており、大きな花束を抱えていた。キネリは起立すると、胸の前での凧型を作って礼を示した。
「御加減はいかがですか、お嬢さん。本当に災難でしたね。これをお母さまに」
彼はレイヨに花束を渡した。ワツミは下を向き彼と視線を合わせないようにしていた。
「あなたは?」
ニミツは大袈裟な素振りでレイヨを見ると、胸の前での手を上げて挨拶をした。
「これはこれは、お嬢さん。失礼いたしました。私は房軍平坂師団副官のニミツと申します。今は房軍幕多羅治安維持軍司令として、お父さまと一緒に働いております」
「お父さんと?何で?何でお父さんが房軍と一緒に働いているの?何で?」
父は何も答えなかった。
「ははは。お嬢さん。お父さまを責めてはいけません。誰かがやらねばならない仕事です。お父さまもお辛いのですよ。まるで同胞を売るような仕事ばかりですから」
レイヨは父にすがりついてその身体を両手で揺すった。
「何で?何でお父さんがそんな仕事をしなくちゃいけないの?皆が『裏切り者』と言ったのはそのせいなの?何で?何で!」
しかしワツミはレイヨと眼を合わせることはせず、何も答えなかった。
「お嬢さん、さぞかしや怖い思いをなされたでしょう。何もわかっちゃいない愚かな暴徒どもの事など、気にかけることはありません。以後は私の部下があなた方をしっかり警護しますよ。安心して下さい。貴方のお父さまは房の国の臣民になられたのですから、貴方がたも同様です。これもお父さまとの契約の一環ですから心配しないでお任せ下さい」
「何で、何でよぅ!私はそんなのいらない!皆と一緒でいい!何でそんな事を・・・何で・・・」
レイヨは眼から大粒の涙を流して父を責めた。
「・・・レイヨ・・・」
その時、ベッドから声がした。トヨキが眼を覚ましたのだった。
「お母さん!大丈夫?」
トヨキはゆっくりと手を伸ばした。レイヨは走り寄るとその手を掴んだ。
「いい、レイヨ・・・お父さまを信頼しなさい・・・あなたのお父さまは立派な方です。あなたはただ信じればいいのです・・・」
「トヨキ!」
「お母さん!」
ワツミは握り合う二人の手の上に手を添え、家族は泣きあっていた。キネリは扉の側で起立の姿勢を崩さずに見つめていた。
ワツミの働きのお陰で大した混乱もなく戦争犯罪人の収監は完了した。ワツミは取り敢えず安堵の溜息をついた。後は幕多羅が、今まで通り『放生の地』としての立場を維持できるかどうかである。
しかしこの少し前、都ではある問題が発生していた。それは幕多羅を巻き込む大事件となり、無数の命を散らせることになるのだが、ワツミもキネリも菊池も、彼等の運命に立ち込める暗雲を予想すら出来なかった。