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共生世界  作者: 舞平 旭
占領
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三文字割腹

このリツモ達による暗殺未遂事件は直ぐに塩土の所まで伝わってきた。


「愚かなことを・・・うら若い命を無駄にしおって」


老人は憔悴した顔に涙を浮かべた。リツモ達のことは、小さな頃からよく知っていた。人一倍気の小さな小僧だった。たしか奴は10歳の時に寝小便をしてたな・・・。これも全てが自分の責任である。この尻拭いは自分の最期の仕事になる。ラシアを見捨ててから、自分はこのような機会を待っていたような気さえしていた。彼は妻を呼ぶと外出の仕度を手伝わせた。常世に上京する時と新年にしか袖を通さない一張羅を出させた。妻は何も言わなかったが、目頭に涙を蓄えていた。


「すまんの」


彼にはこの一言しか発することはできなかった。仕度を終えると、妻は玄関口で老人を笑顔で送り出した。


「いってらっしゃい」



塩土は急いで房軍の陣まで出向くと、回術加療中の矢織の前に引き立てられてきた。彼は陣内の回療所のベッドに座り、回術を受けていた。既に座位を保持出来るまでに回復していたのは、共生者としても驚くべき早さである。


「どうした老いぼれ。今更何の用向きだ?間も無く我が軍は幕多羅を攻撃するぞ」


老人は片膝をつくと、平頭し、首をさらした。


「将軍、どうか、どうか御怒りをお鎮め下さい。昨夜の愚かな行為は若者の勇み足で、幕多羅の総意ではございません。我が村の民は、房の国に忠誠を誓う者ばかりです。どうか、どうか村民の命だけは御守り下さい」


矢織は回療中のベッドを叩いた。


「ふざけるな!昨夜、何人死んだと思う?50人だぞ、50人!怪我人はその3倍だ!我が軍に刃向かう者は、誰であろうと容赦はせん!」


塩土は顔を上げると、矢織を見つめた。


「そのお怒りは十分に理解しております。そこを、そこをなんとか!房の国もこの聖なる地を流血で汚して、得るところはありますまい。その代償は私が償います。どうか、どうかこの老いぼれの命で剣を収めていただけませんか」


「ふざけるな!我が臣民と『アエルなし』の老いぼれで、どうやったら釣り合いが取れるんだ?」


矢織は笑い出し、周囲の部下達もそれに習った。渦巻く嘲笑の中で、老人は、先程までの必死の形相から、一種ふっきれた様な落ち着き払った容貌に変わった。


「私の死に様を見て頂き、何とか民だけは助けてください。お願い致します」


そういうと、塩土は懐から小刀を取り出した。周囲の者達はざわめき、取り押さえようとしたが、矢織はそれを止めた。塩土は上半身裸になると正座し、刃の根元を服で巻きながら右手で掴むと、刃を己の方に向けた。


「必ず、必ずお頼みします。民だけは助けて下さい」


そう言うと、彼は自分の左脇腹に刃を沈めた。


「ぐぐぐ」


塩土の顔貌は赤黒く変化した。そのまま自らの腹を横に切り裂いた。傷からは血液が流れ出し、彼が咳き込んだ拍子にはらわたが飛び出してきた。


「ぐぐぐ」


塩土は歯を食いしばり、汗を流しながら刃を抜き、刃を180度回転させると、先程よりも少し上の右脇腹に突き刺した。そして今度は右から左に刃を進めた。刃が左に辿り着いた頃には、既に腹部の切創は大きな穴となっており、腸管の大部分が外に飛び出し、辺りは死臭に満ち初めていた。塩土の意識も虚ろとなり、ショック状態で手は硬直し、ゆっくりと前のめりになった。しかし、彼はギリギリで踏ん張ると最期の力を振り絞り、震える手で左腹部に刃を突き立てた。小刀は血と体脂にまみれ、腹部から弾かれてしまう。だが塩土は、刃を強引にねじりこんだ。


「・・・矢織どの、頼みました・・・頼みましたぞ」


塩土の眼球結膜は充血し、拡張しきれなくなった毛細血管の一部が破れて出血していた。血の涙を流している様で、さながら悪鬼の眼だった。彼は矢織を凝視し、身体全体を小刻みに震わせながら、刀をゆっくりと右に進めた。


「ラ・・・ラシ」


そして刀が肋骨に当たり、それ以上は進まなくなった所に達すると、安心したように前のめりに倒れて絶命した。彼の遺体の下からは、おびただしい量の血液が池のように広がり、彼の横顔を鏡のように映した。彼は穏やかな、微笑すら浮かべた死顔だった。



これは三文字割腹の法と呼ばれる切腹法で、慶応元年(1865年)5月11日、土佐勤王党の武市瑞山が唯一行い得たと伝えられる切腹である。腹部が切り裂かれると、ヒトはショツク状態に陥る。血圧が低下し、意識が消失するのだ。これを三度も行うのである。ショック状態となっても更に腹を切り裂くことで、自分の思いの強さ、執念を世に知らしめるのだ。



矢織達は唖然と塩土の切腹を見ていた。そして老人の死後、矢織は慌てて場を取り繕った。


「み、見事な死に様であった。直ぐにこの者の遺体を綺麗に整え、家に送ってやれ。いいか、丁重に扱えよ」



塩土の遺体は間も無く自宅に送られてきた。彼の家には訃報を聞いて多くの人が集まっており、菊池達もその中にいた。


「塩土さま!」


皆、泣き崩れていた。菊池は塩土の死の様子を聞いて驚いていた。まさか、彼が切腹で幕多羅を救いたいと考えていたとは予想だにしなかったからだ。 周囲には切腹自殺を見聞きした人間は聞いたことはなく、なぜ彼が人生の最期に選んだのかはわからなかった。だが古来から日本人の心に、嫌、人の心に訴える自殺・嘆願方法であることは明白である。果たしてこれが共生者の心に訴えることができるのであろうか。しかし塩土の遺体が丁寧に扱われたことは、遺体を見ればわかった。塩土の願いは叶ったのだ。



矢織は三文字割腹に感動していた。あの『痛がり』の適応者が腹を三度もかっさばくなど、到底想像できるものではない。共生者でも不可能だろう。民を思う気持ちがそれ程強いということか。矢織の脳裏には、最期の塩土の充血した眼が焼きついていた。老人の意志を無にする訳にはいかなかった。矢織は総攻撃を待機させ、司令部に早馬を出した。



『我、幕多羅の掌握に成功せり。抵抗は認められず、これ以上の戦は無益なり。至急、行政官の派遣を請う』



果たして共生者が、死に様に感動して攻撃を中止するなどあり得るのだろうか?多くの歴史家は、この時の矢織将軍の行動に疑問を投げかけている。ここで矢織が総攻撃をしていれば、皮肉にも、後の自分の軍の損害をかなり防ぐことができたであろう。矢織は武人であることに誇りを持っており、武士道を尊ぶ人を賞賛する帰来がある。塩土の切腹に対する共生者らしからぬ感動も、『彼の趣味に合致した』ためとの説が多い。しかし『菊池の画策説』や、この時回学所による幕多羅捜査が始まっていたため、『回学所による中止説』などもある。どちらにしても、矢織が総攻撃の中止に同意していたことは事実である。彼の後の運命を見ても明らかなように、塩土の切腹は彼に大きな影響を与えたことになる。更に塩土の切腹により、少なくとも1日稼ぐことが出来たのは幕多羅にとって大きかった。塩土の死の翌日、皇帝から、全軍への即時軍事行動停止、及び弔旗掲揚の勅命が下されたのだ。以後1週間は流血に繋がる行動は出来なくなったため、幕多羅は命拾いをした。この勅命は、幕多羅の運命を僅かに延ばしたに過ぎないが、房軍にとっては被害拡大に繋がる第一歩だったことになる。

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