神人夜襲
レイヨは母と共に家で父親の帰りを待っていた。
「お父さん、遅いね」
彼女は何気無く壁の時計をみたが、父親が議会に出かけて既に3時間以上は経っていた。房軍が幕多羅を包囲し、菊池の引き渡しを要求していることは、彼女も聞き知っていた。父はその話し合いに出かけているのだ。父なら何とかしてくれる。タカヨシを房に差し出すなんて、きっと断ってくれる。彼女は祈る気持ちで父の帰りを、議会の決定を待っていた。もしタカヨシが房の国に連れて行かれるなら、私も一緒にいこう、彼女がそう心に決めていた時、父親は帰ってきた。
「あ、お父さん、おかえ・・・」
レイヨは自分の父親の顔を見て、事の切迫さをあらためて認識した。父親の顔面は死人のように蒼白だった。
その夜、包囲軍の陣中はお祭騒ぎだった。適応者の村民が相手なのだ。戦になるはずがないのである。それに占領すれば『おこぼれ』に預かれる。戦わずに旨い汁が吸えるのだから、兵士達が浮き足立ってしまうのもやむを得ない。戦意維持のため、房軍では敵からの略奪はある程度は大目にみていた。共生者と違い、適応者の村では女の楽しみが無いのが玉に瑕だが、幕多羅は金持ちな村だ。貧しい農民が多い兵士達にはそれで十分だった。
リツモを含む神人の精鋭メンバー5人は、夜陰に紛れて房軍の陣に忍び込んだが、彼らの気合いが抜けるほどに陣の中は乱れていた。まともに張り番をしている兵士はおらず、至る所で酒盛りを開き、酔い潰れていた。
「こっちだ」
5人は2人と3人に別れた。3人の男は陽動を行い、その間にリツモを含む2人が大将を襲う計画だった。もし失敗しても、必殺の奥の手も用意していた。
「しかし、そんな計画も無意味かもな」
黒装束のリツモは暗闇に同化し、闇から闇に跳躍しながら考えていた。この作戦は必ず成功する。問題なのは暗殺の後だ。
その頃、矢織は酔って寝ていた。隣には都から連れてきたのか、裸の女が床を供にしていた。彼の天蓋は士官用の豪華なもので、中はさながらホテルのスウィートルームの如きだった。天蓋の入口には歩哨が一人立っていた。
「ふあーっ」
歩哨は欠伸を噛み殺した。
あと1時間で終わる。こんな日に歩哨番とは運が悪い。だが、終われば後は酔っ払って寝るだけだ。まだ酒は残っているだろうな?ああ、俺は本当に運が悪い。
確かに彼は運が悪かった。しかし彼には、己の真の不運を理解する機会は永遠に訪れなかったのである。背後の闇から黒い腕がゆっくりと伸びてきた。そしてその腕に握られた細いアイスピックのような道具が、歩哨の後頸部に突き立てられた。刃は延髄を綺麗に貫き、瞬く間に生命活動に必要な命令系統が奪われた。
リツモが闇から滲み出るように現れた。彼は死体を目立たないように隠し、仲間を外に残すと、天蓋に音も立てずに入り込んだ。中は燭台の灯りのみで薄暗かったが、リツモには十分だった。テーブルと椅子、執務机、衣装入れが置かれ、一番奥に大きなベッドがあった。そこに将軍がいた。彼は執務机の影に隠れて時を待った。
陽動の3人は矢織の天蓋から離れた場所に散った。無防備な内陣には天蓋や油壺など燃えそうな物が沢山存在した。見張りの兵士は酔っ払っており、彼等を見咎める者など誰もいなかった。風上に回った3人は其々懐から油と種火を用意した。
時間だ。
リツモはピックを握ると静かにベッドに向かった。矢織は仰向けで胸まで布団をかけて姿勢良く、鼾をかきながら寝ており、その身体に絡みつくように女が寝ていた。リツモは矢織の傍らに立ち、首にピックを当てがった。完璧な体勢を作り上げた。この男の命は彼の思うがままになった。
「おい、起きろでかぶつ!」
リツモはピックを将軍の首に押し付けた。矢織は直ぐに眼を覚まし、ピックを構えているリツモを凝視した。状況を一瞬で理解したようだった。
「動くなよ。動くと痛いぞ」
リツモは矢織を威嚇しながらピックを更に押し付けた。ピックの先端は皮膚に食い込み、血液が滲みでてきた。しかし矢織は怒るでも恐るるでもなく、ニヤニヤと笑いながらリツモを見つめていた。
「おいおい 、幕多羅の者か?お前、こんなことして大丈夫か?塩土の命令とも思えんが、奴は知っているんだろうな?もしここで俺を仕留め損なったら、お前は当然としても、幕多羅も終いだぞ?」
その時女が眼を覚まして悲鳴を上げたが、リツモは女には眼もくれず、ピックを矢織の首から離すと、左胸に布団の上から押し付けた。
「この距離でしくじるはずはない!」
長く伸びる女の悲鳴が終わる前に、リツモはいつものように獲物の眼を見つめながら、ピックを獲物の胸に突き刺していった。リツモの顔に恍惚とした表情が浮かんだ。
陽動の3人は、陣中に火を付けて回った。
「火事だー!」
人々は右往左往し、馬は嘶く。篝火が焚かれてはいたが薄暗かった陣が、火災のために突然明るくなった。酔っ払いが多かった兵士達は、まともな消火活動に入る前にパニックに陥っていた。
「攻撃だ!匙軍が攻めてきたぞ!」
「逃げろ!大軍だ!」
「包囲されているぞ!」
放火犯達は情報撹乱をして回った。周囲を冷静に観察すれば、包囲されていないことは直ぐに分かる。しかしパニックに陥っていた兵士達にとって、この偽計は大きな破壊力を持っていた。そして被害は拡大の一途をたどっていった。
リツモのピックは真っ直ぐに矢織の胸に刺さった。更に体重をかけていく。
「へっへへ」
リツモの表情は快感に震え、矢織の眼を見つめていた。獲物の表情が苦痛に歪む、その瞬間を見逃すまいとしていたのだ。ピックが刺さった瞬間、獲物は想像を絶した痛みに驚愕し、泣き叫ぶ。そして助けを請うのだ。その時の優位性。圧倒的な力の差。神人の仕事は共生者の暗殺が多いので、殆どの標的は社会的、軍事的または身体能力的にリツモよりも優っていた。だが自分のピックが刺さった瞬間、そいつらは自分よりも遙か下の立場に落ちていくのだ。自らに全知全能の神が宿る瞬間でもあった。だから大物の暗殺は一撃では殺さない。心臓ならば、共生者は即死はしない。左肋間からピックが進入する。心臓を形作る心筋細胞は部位ごとに異なる収縮リズムを持っており、なにもしなければバラバラに収縮運動を行ってしまう。それらを右心房にあるペースメーカー細胞が統率することで、まるで袋から絞り出すように、効率的に血液を駆出する収縮運動を行っている。左心室をピックが貫通すると、心臓は出血と供に効率的な運動を障害され、ポンプ機能を失ってしまう。アエルは生命維持のために、止血と供に心臓が担っていたポンプ機能を全身の血管に肩代わりさせる。まるでウネるミミズのように、動静脈が蠕動するのである。しかし心拍出量をおぎなえるわけもなく、組織壊死はまぬがれるが、低酸素のために身体を動かすことはできない。パクパクと魚の様に喘ぎながら、眼だけはリツモを睨む。そしてゆっくりと始末する。これが彼のやり方だった。
「心臓はいただいたよ」