プロローグ I
そこは小さな沼だった。
この沼は『底無し』との言い伝えがあり、緑青色に濁った水面にはさざ波ひとつ無く、まるで全ての音を吸い込んでしまう魔力があるかのように感じられた。
その沼に、一人の若い女性がやってきた。
彼女は美しく、理知的な容貌の持ち主だった。
沼の周囲をゆっくり歩きながら、目に付いた生物を写真に収めたり、サンプルを採取したりしていた。
彼女がふと沼の中央付近にカメラのファインダーを向けると、何か白いモノが浮いているのを見つけた。
それはまるで突然『そこ』に現れたようだった。
彼女はカメラをズームした。小さな電子音が鳴ると、ぼやけていた像は、AFにより瞬時に鮮明な画像に切り替わった。
白いモノの端には無数の金色の線維が生えており、水面に円形に広がっていた。
それは金の綿毛を蓄えた、巨大なたんぽぽの種子ように見えた。
緑の草原をバックに、懸命に綿毛を伸ばし、少しでも遠くを、少しでも住み易き大地を目指して彷徨っているようだ。しかし彼女には、たんぽぽの種子ではない、別の恐ろしいモノが頭に浮かんだ。
その時、沼中のタンポポがピクリと動いた。
「まさか!大変!」
それはうつ伏せに浮いている金髪の人間だった。
彼女は荷物を投げ捨てると、沼の中に駆け込んでいった。沼は水というよりは泥に近く、重い泥をかき分けながら、白い人型に急いで向かった。
「大丈夫ですか!」
そして彼女は胸まで泥に埋まりながら、うつ伏せの人間を抱えると、その身体を表に返した。
「ひぃ!」
驚愕に顔を歪めた彼女は、腕の中の人型を思わず突き飛ばすと、バランスを崩して沼の中に倒れてしまった。泥の中に沈んだ彼女の口や鼻から、沼のどろりとした青臭い液体が入り込んできた。彼女は四肢をバタつかせながら懸命に立ち上がると、むせこみながらも岸にむかって必死に移動した。底無し沼というだけあり、歩みを進めるたびに泥が足を捉え、彼女を沼の底に飲み込もうとするかのようだった。靴は脱げ、何度も倒れ、その度に泥を飲み込んだ。
這々の体で岸に辿り着いた彼女は、全身が泥まみれになっていた。そして嘔吐した。彼女の端正な顔が苦痛に歪んだ。肩で息をしながら岸に座り込むと、涙を拭いながら恐る恐る沼の死体に眼を向けた。
あれは確かに死体だった。強烈な腐臭を放ち、全身に包帯を巻かれていた。手足は切断されているのか、異常に短かった。顔は半分溶解しており、包帯の隙間から覗いていた皮膚には、無数の穴が空いていた。
そして彼女が見守る中、死体はズブズブと音を立てながらゆっくりと沼に沈んでいき、後には小さな泡が残った。