二士邂逅
初出:00/11/26
はじめて明確なキャラを立ててみた作品でした。
むかーしむかし、PBW「瀬之浦高校」で使っていたキャラを登場させました。
夜。
雨が降っている。
激しくはないが、冷たい。
その中を走る影。。
「しくじったなァ、まったく……」
影が愚痴をもらす。
声はまだ若い。少年といってもいいだろう。
服装は紺色の道着と袴。その腰には大刀も差してある。
雨が滴り落ちるその目許には、少年が生来持っているのであろう豪胆さとそして誠実さが見える。
どうやら雨をしのぐ場所を探しているらしい。
「! しめた!」
雨に煙る少年の視界に、朽ちかけた寺が映る。
ぼろぼろになってはいるものの、しばらくの間雨露をしのぐことはできるだろう。
少年は足早にその軒下に駆け込んだ。
「ふぅぅ……」
ゆっくりと息をつく。
前髪から雫が垂れる。
一滴、また一滴と滴る雫をなんとはなしに見つめる。
霧雨に煙る竹林が歪んで映り、そして落ちていく。
と……。
「!」
少年の鋭敏な感覚が、寺の中、半壊した扉の向こうにいる何者かの気配を感じ取った。
感じ取ったその瞬間には既に左手の親指が鯉口を切っている。
「誰だッ?」
短く、しかし刃の鋭さを以って、誰何する。
「人間ですよ」
扉の向こうからどこか気の抜けたとぼけた返事が返ってくる。
どうやら物の怪ではないらしい。
わずかに安心した少年は、所々穴のあいた床板を気にしながら半分壊れた扉をくぐる。
「こんばんは」
さっきと同じとぼけたような声。
中にいたのは、舶来の品であろう眼鏡を掛けた彼と同年代と思しき少年だった。
愛刀であろう刀を傍らに置き、床に座り込んでいる。
眼鏡の奥の細い目が人懐っこく微笑んでいる。
「は……。何がいるかと思ってびっくりしたよ」
「こちらも助かりました、いきなり斬りつけるような人じゃなくてよかったですよ。……名前、お聞かせ願えますか?」
邪気のない相手の態度に、雨に濡れた顔を拭いながら少年も微笑む。
「ああ、失礼……。僕は島津。島津悠貴だ」
「狭間勇真。お見知り置きを」
雨に濡れてきた少年―島津悠貴は、先客―狭間勇真と同じように床に腰を下ろす。
「ここに来たっていうことは……貴方も賞金目当てですか?」
「え? 賞金……って?」
「あれ? 違うんですか?」
「いや、僕はただ雨宿りに……」
「あはは……。いやいや、とんだところに雨宿りしに来ちまいましたねぇ」
「???」
勇真が言うには、十日前ほどに、都の往来に物の怪退治のお触れが出ていたらしい。
何でもたった一匹の物の怪相手に、都の陰陽連の半分近くが胃の腑に収まったと、
号外配りも大騒ぎしていたとか。
彼は賞金目当てでここに三日前から様子を見に来ていると言った。
「結構人が集まってたと思うんですが……気が付きませんでした?」
「ああ、その頃は都から離れていたからね。見てないよ。ところで……他には誰も来てないのかい?」
悠貴の言葉どおり、薄暗く湿った空気を湛えた堂内には彼ら二人しかいない。
「これから来るんじゃないですか?物の怪が現れるのも夜中らしいですしね」
じゃあどうして君はこんなに早くに?と悠貴が尋ねると、勇真はまたとぼけた調子で
「せっかちなもので」と答えた。
(結構変わった人だな……)
目を細めながらとぼけた口調で話す少年に対して悠貴が持った印象がそれだった。
やがて二人は、取り留めのない会話を始めた。
雨はまだ、止まない。
「で、貴方はどうします?」
「さて、どうしようか……?」
「お急ぎでないなら、付き合っていただけませんかねぇ? どうやら誰も来ないようなので」
目を細めて、寂しがりなんですよ、僕は、と付け加える。
「そう……だねぇ……」
しばし思案する悠貴。
「よし、付き合うよ。……あまり大きな声じゃ言えないが、懐が寂しいんでね」
苦笑しながら答える。
「心配しなくても、賞金は山分けですよ」
悪戯っぽく笑う。
「あはは……」
すっかり険の消えた顔、まるで無邪気な子供のような顔で、悠貴は笑った。
勇真も、細い目をさらに細めて笑った。
雨露が斜めに飛び始める。風が出てきたようだ。
……ォォォォォォォォオオオオオ……。
微かに、ほんの微かに、風の音に絡みつくように獣の唸り声のような音が聞こえてきた。
「これ……か!」
「そのようですね……」
二人はそれが、何を意味するのか瞬時に悟った。
音は、殺気と血なまぐさい風を伴って近づいてくる。
オオオオオオオ……!
「まっすぐ来ますね。分かりやすくていい」
「……呆れた。こんな時まで軽口を忘れないんだな」
気配がほとんど物理的な圧力となって二人に吹き付ける。そして……
轟!!
巨大な、圧倒的な存在感がが彼らのいる廃屋の屋根を飛び越したのが分かる。
数瞬後、すでにほとんど壊れていた仏像が轟音と共に神細工のように、引き裂かれる。
それは咆哮した。
グオオオオオォォ!!
針金のような体毛に覆われた巨躯。禍々しくぎらつく爪。獲物以外何も見えていない濁った眼。
そして廃屋全体を揺るがす唸り声を上げるその口腔には……
「! これは……!!」
「……なぁるほど。これじゃあ誰も来ないはずだ」
赤、赤、赤。鮮血の赤に肉と骨の白。唸り声と共にそれらが咀嚼される。
賞金目当てで集まった者たちの残骸である。
「牛鬼……か! なかなか厄介な相手だ。」
「のんきにしてる場合じゃないだろ!……来るぞ!」
睨!
牛鬼――小山のような蜘蛛の巨躯に鬼の貌を戴いた物の怪――の両眼が、二人を次の獲物として捕らえた。
同時に前肢を振り上げ、落雷の如き勢いで振り下ろす。知性が無い代わりに躊躇や逡巡もない。
ただでさえ朽ちかけて脆くなっている床板が、降りしきる雨のように注がれる牛鬼の爪に
何の抵抗も無く破砕音と共に削り取られていく。
しかし、飛び散る破片に晒されながらも、二人はその攻撃をかわし続けている。
「……勝機ッ!!」
雨と破片が飛び散る中で、刹那の隙を捉えたのは悠貴だった。
体勢を低くし、切っ先を牛鬼の腹部に定める。
「貫けッ!!!」
曇天を裂く裂帛の気合と共に、疾駆。降り注ぐ爪も疾風と化した悠貴を捕らえるには至らない。
牙ッ!
『島津流剣術・虎殺刃』
牛鬼の爪に勝るとも劣らない鋭い突きが、寸分の狂いも無くその胴体に突き刺さる。
ギィオオオオッ!!
胴体から赤黒い体液を迸らせながら苦悶の咆哮を挙上げる牛鬼。
その激痛からか、半狂乱になったように前肢を闇雲に振り回す。
「ひょォ! 硬い剛毛の生えた背中じゃなくて攻撃しづらい腹の方を狙うなんて……」
「背中の方は丈夫そうだったんでね。それにこういう奴は大抵腹の方が弱いっていうのが定石だろ?」
「いやお見事、感服しましたよ」
「油断するな!また致命傷には……!」
悠貴の言葉を裏付けるように、傷つけられた事によって逆上した牛鬼が、憤怒の咆哮を上げながら、床板の破片を書き散らし二人目掛けて突進してきた。
「あーあー、怒らせちまいましたよ?」
「だからどうして君はそんなにのんきに……!」
「大丈夫ですよ。貴方のおかげで動きは鈍ってる。後は……」
目を細める。一瞬、ほんの一瞬だけその眼に怜悧な光りが宿る。
そして跳躍。牛鬼の頭上に位置した時には既に切っ先が脳天を捉えている。
「……上だよ」
水滴のように垂直に落下する切っ先。逆上した牛鬼にはそれを感じ取る術は無い。
貫……ッ。
『狭間流抜刀居合ノ針・岩穿チ』
硬いものを貫く音と共に、切っ先が牛鬼の角の間に吸い込まれる。
ぐるん、と牛鬼の左眼が唐突に裏返り、廃屋を軋ませながらその巨躯を倒れ込ませる。
「……針の一刺しで事は済む」
言いながら刀を抜く勇真。
「お見事」
悠貴もようやく安堵の表情を浮かべる。
「島津さん、こういうのを相手にするのは初めてではありませんね? 初見で牛鬼の腹部を狙えるなど考えられない」
刀にべっとりと付着した赤黒い体液を拭き取りながら勇真が尋ねる。
「買いかぶるのは止してくれ。ただの勘だったんだよ」
「……本当に?」
「うん」
「謙遜すること無いんですよ」
「だから本当に勘だったんだってば」
「……ふぅん?」
「……なんだよその疑念に満ちた眼差しは」
「いやいや、どうぞお気になさらずに」
再び軽口を叩き合い始める二人。
「じゃあ、賞金は山分けってこ……!!」
全く唐突に、勇真の口から、軽口の代わりに鮮血が吐き出される。
その腹部には血に塗れた蜘蛛の肢。
「ぐぅぅあああッ……!!」
苦悶の絶叫が鮮血と共に吐き出される。
「狭間く……ッ!!」
蜘蛛の肢は間断なく襲ってくる。
悠貴はかわす。が、それ以上の行動を起こせない。
「馬鹿なッ! 頭を貫通したはずだッ!」
悠貴の問いに牛鬼、否、数瞬前まで牛鬼の死骸であったものは咆哮で答えた。
左眼だけ白目をむいた鬼の貌が、ぐずぐずと崩れ落ちていく。
爛れた肉片の下に覗くのは、酷薄な笑みを浮かべた白面――。
「……白面冠者……か。まぁた珍しい……」
苦しげな息をつきながら、勇真がいつもの軽口を叩く。
が、その表情はやはりすぐに苦痛に歪む。
「ほう……だ息があるのかえ?」
きゅり・・・と白面の瞳が動き、勇真を見据える。
「よくもまあ人の身でわらわの眠りを妨げてくれたものよの。おかげで牛鬼の殻が剥がれてしまったではないか」
「な……人語を!?」
「ほう、こちらは無傷であったか。よいよい、狩りもまた一興よ。こやつは後で喰ろうてくれよう」
白面に映える毒々しい赤い唇が吊り上る。
白面冠者は勇真を放り投げると悠貴に向き直る。
「おのれッ……!!」
悠貴は動揺するがしかし、その剣閃には聊かの乱れも無い。
頭上から、横から、足元から襲い来る爪を、身を翻し、弾き返す。
(胴体は硬い!やるなら・・・!!)
後ろに跳び退って間合いを取る。
それと同時に四本の前肢が視認できそうなくらい濃厚な殺気を纏って追いすがる。
転瞬、(ここだッ!!)
「食らいやがれ--ッ!!!」
斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬撃!!
『島津流居合術奥義・連刃の舞』
吹き荒れる十五条の剣閃。
その全てが襲い掛かってきた四本の前肢を関節の部分から切断し、枯れ枝の様に薙ぎ払う。
が、嵐はまだ終わらない。
噴き出した赤黒い体液の靄を突き抜けて、驚愕の表情を浮かべる白面の眼前に迫る悠貴。
「覚悟ぉッ!!」
と、白面の表情が驚愕から酷薄な笑みへと変わり、
「所詮、人よの」
と言った。
一瞬後、どすっ、と重いものが落ちる音がして、悠貴は半壊した廃屋の床に紅色の線を引きながら転がった。
「糸……だとッ……!」
悠貴の全身を微細な鋼色の線が穿っている。
白面は激突の瞬間、これを口から悠貴に浴びせ掛けたのだ。
糸は悠貴の体を貫通し、床板、そして地面に食い込んでおり、悠貴は身動きが取れない。
「島津さん……ッ!」
「そなたは大人しくしておれ。……ほほ、動けぬであろ? そなたには肢を斬られた恨みができた。よってそなたの両手両足、わらわと同じに刻んでくれよう。喰らうのはそれからじゃ」
糸――ただしそれは鋼の硬度をもっている――が、悠貴の左腕に絡みつく。
「や……めろ……!」
恐怖が全身を暴れまわり、
キリ……
糸が引き絞られる音が嫌になるほど大きく聞こえ、
「島津さんッ!!」
勇真の声がぼんやりと聞こえ、
「ほほほ、その顔よ。餌はその顔が似合いぞ」
つりあがった赤い唇がやけにはっきり見え、
「『気は済んだだろ?やらせてやるのはここまでだ』」
白面冠者の巨躯が手毬のように吹き飛んだ。
「な……何奴ぞ!?」
「『手前ェの知った事か』」
悠貴がゆらりと立ち上がる。しかし……
そこにいるのはは悠貴ではなかった。悠貴ではなくなっていた。
「『他人の住処をよくもまァこんなに荒らしてくれたモンだ……』」
ついさっきまで悠貴であったものが、自分の傷をまるで他人事のように眺めている。
「『なァ?』」
狼狽する白面に眼を向ける。
同時に白面は全身を無数の刃で刻まれる感覚を覚えた。
「ヒ……ッ!」
本能的に体が後退る。妖魔の本能が叫んでいるのだ。
「目の前にいるモノ、アレは魔物だ」と。
目の前の人間が、ついさっきまで自分が浮かべていたのと同種の嘲いをその双眸に刻みながら悠然と間合いを詰めてくるのを、白面はただ呆然と見ているしかなかった。
全身が金縛りにあった様に動かないのだ。
この局面で白面は、最も選択すべきではない選択肢を選んでしまった。
なまじ知性があったために、己のうちにある本能の鳴らす警鐘に従うことをしなかったのである。
「おのれ人如きがァァァァ!!!」
切断面から体液を溢している肢が悠貴を襲う。
爪を失ってはいるが、丸太ほどの太さがあるその肢は、未だ武器としての属性を失ってはいない。
対する悠貴は避けるそぶりすら見せない。ただ悠然と立っているのみ。
「肉塊に成り果てるがいいィィィィァァァァ!!!」
「『手前ェがな。』」
一言だけ呟いたその時には、悠貴の頭上に振り下ろされ、彼を血と肉と骨の染みにするはずの白面の肢は寸断されていた。
撒き散らされる肉片と体液の飛沫の中には悠貴の姿は既に無い。
「ギイイイイイィィィ!!!」
「『そうその顔だ!!餌はその顔が似合いだぜ!!!』」
全身に浴びた返り血と嘲笑の帯を引いて、悠貴は白面の眼前に迫る。
「『斬り刻んでくれるわッ!!』」
斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬撃!!!
『裏・島津流剣術奥義 連刃の舞・改 斬肉戯曲』
無数の剣閃と嘲笑が荒れ狂い、白面冠者の全身が肉片と鮮血をばら撒きながら切り刻まれてゆく。
「ギィオ……ォォ……ォ……」
掠れた断末魔の声を残し、悠貴の予告通り白面冠者は肉塊と化した。
悠貴は口元になおも笑みを浮かべている。
「『フフフ・・・下賎なものを見ていると笑いが止まらんな』」
足元に転がる肉塊、周り中に飛び散った鮮血を満足げに睥睨する。
と、突然悠貴を激しい頭痛が襲う。
否、頭痛というよりは、頭の中で何者かが暴れまわっている感覚だ。
「『ク・・・!目を覚ましたか!衰弱している今ならこのまま完全覚醒できるものを・・・!』」
がくりと膝をつき、頭を押さえる。頭の激痛に加えて、全身の傷が一斉に疼き始めている。
「『くぁ……!ちぃ、ここは退いてやる!!』」
そのまま顔を押さえて地面に倒れこむ。
ようやくの静寂が戦場に訪れる。
ほとんどその形をと止めていない古寺のあちこちに、雨の流れと共に朱色の糸が引かれてゆく。
倒れこんでから数瞬後、悠貴が意識を取り戻した。
「う……つつ……い、きて、る……」
全身を走る激痛をこらえながら、何とか立ち上がる。
そこで悠貴は、自分の体を彩る鮮血が、自分のものだけではないことに気がついた。
「!」
一瞬の戦慄が背筋を走る。悠貴は自分が意識を失っている間に何をしたのか瞬時に理解した。
悠貴の顔が歪む。苦痛からではない。
「またか……またなのか……ッ!」
苦渋の表情がその顔に刻まれている。
と、悠貴はもう一つ重大なことを思い出し、弾かれたように顔を上げる。。
「は、狭間君はッ……!?」
一時とはいえ共に戦った戦友の姿を求めて、四方に視線を巡らせる。
と、床板の破片に半ば埋もれるようにして倒れている勇真の姿が目に入る。
何とか生きてはいるらしく、勇貴の気配を感じ取ったのか、ゆっくりと身を起こす。
「ふぅ、生きてるみたいだね、なんとか」
安堵の息をついて、助け起こしてやろうと悠貴が歩み寄る。
「く……くく……き……は……」
苦しげな呻き声を歯の間から漏らす勇真。
「大丈夫かい? 今、肩を貸すから……」
「くく……ははは……」
「……狭間君……?」
「ぁあははははははぁ!! 素晴らしい! 実に素晴らしい!!!
壮絶な笑みを浮かべて哄笑する勇真。
初めて出会った時とのあまりに違いに、悠貴は身を竦ませる。
「くく……いや失礼。あまりに嬉しかったもので」
そう言ってなおも喉で笑う勇真の双眸に宿るのは、てらてらと漁火のように燃える狂気――。
歓喜に眼鏡の奥の目を細めながら、勇真は続ける。
「意識は朦朧としていましたがね、僕にははっきりと分かりました。そう、感じたんですよ! 貴方が修羅に変じたのを!! 視界はぼやけていましたがそんな事は問題じゃあなかった!! あの牛鬼のそれよりさらに大きく、禍々しい、皮膚を刺す殺気の塊!!
今までこれほど殺気というものをはっきりと、そして歓喜を以って感じ取れたことはなかった!! 驚愕と同時にこの身を引き裂かんばかりの歓喜を僕は感じたんですよ!!」
そして勇真は唐突に沈黙。
悠貴は身じろぎもせず勇真と相対する。
(違う……!これは、自分の目の前にいる男は狭間君とは違う……。そして……)
「そう……島津悠貴、貴方と僕は同じだ……!!」
(僕の内に潜むモノと同じだ!!)
再び静寂。
勇真は笑みを浮かべ、悠貴は相手を凝視している。
静寂は暫く続くかに見えた。
が……。
「ギシャアアアア!!」
静寂を破ったのは、勇真でも悠貴でもなく、ぐずぐずの肉片になったはずの白面冠者であった。
ほとんど半壊した胴体から、執念の成せる業か、白面のみが分断され、奇声と肉片を撒き散らしながら、傷の深い勇真目掛けて
飛び掛ってきた。
「狭間君……ッ!」
悠貴が一瞬遅れて抜刀するが、捉えきれない。
赤い唇の奥に並んだ牙が、勇真の頭を捉える。
ズヴュッ。
硬質のものが柔らかいものを貫く湿った音がした。
勇真の頭部を食いちぎるかに見えた白面は、その眼前で静止していた。
白面の右目に、勇真の右手が突き刺さっている。
「無粋だなァ……。邪魔をしないでくれ」
そう言うと同時に壮絶な笑みをその顔に刻み双眸を見開く勇真。
右手に掴んでいたぶよぶよした球状のものを握りつぶす。
さらに左手を赤黒い体液を垂れ流す眼窩に突き入れ、ためらうことなく引き裂く。
熟した果実が地面に落ちたかの如く、体液が盛大に噴き出す。
それを勇真は湯浴みでもするかのように心地よさげに目を細め、薄ら笑いさえ浮かべて浴びている。
白面は今度こそ、徹底的に破壊された。
血塗れの指先に舌を這わせながら、勇真が悠貴に向き直る。
「……」
またも静寂がその場を支配する。
悠貴には分かっていた。勇真が自分に対して何を望んでいるのかを。
(今戦えば間違いなく「ヤツ」の覚醒を促してしまう……しかし……相手も手負いとはいえ……尋常じゃない……!)
沈黙が続く。
と、その時、殺気が充満しているこの場所に、全く似つかわしくない穏やかな風が吹いた。
夜は明け、雨は止んでいたのだ。
沈黙を破ったのは、勇真の方だった。
「止めましょう、やっぱり」
そういった勇真の顔は、初めて会った時のとぼけたような表情。
「どちらも手負いですしね。望む結果は得られそうに無い」
言いながら、弾き飛ばされていた自分の愛刀を拾い上げる。
「……ずいぶん勝手だな。でもまぁ、朝日を血で汚さないことには賛成だよ」
まだ緊張は解いてはいないが、悠貴も刀を納める。
勇真をじっと睨みつけてやると、まるで悪戯を見咎められた子供のような、ばつの悪そうな表情をした。
そんな様子を見ていると、ついさっきまでのあの出来事がが、まるで白昼夢か何かだったのではないかという気さえしてくる。
「じゃあ島津さん、僕はこれでおいとましますよ。傷は……まぁなんとかなりそうですしね」
赤黒い染みの滲んだ腹部を押さえながら勇真が背を向ける。
「じゃあ僕もそろそろ行くよ……。結局一晩ここに留まってしまったからね」
悠貴も腕や足にさらしを巻きつけながら言う。
先に足を踏み出していた勇真が、ふと立ち止まって、肩越しに、
「……では、また」
それだけ言うと勇真は、ふらりふらりと山道の方へ姿を消した。
「……ふぅ――っ……」
その背中を見送ってから、悠貴は深く息をつく。
彼の脳裏に、自分の知らない間に起こったであろう出来事と、変貌した勇真の姿がちらつく。
それを打ち消すように、激しく頭を振る。
「違う……僕の欲しいものとは、違う……」
暫く悠貴は考え込んでいたが、立ち上がり、歩き始めた。
その顔には、先程までの苦渋の表情は取り除かれていた。
夜は明けた。
朝。
穏やかな風を孕む朝。
雨は止み、夜は明けたのだ。
とりあえずは。