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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

溢れる森で

作者: 秋花

 ――私は森と共にあった。


 私は狩人であった。私の母は樹木であり、私の父は土であった。


 生まれてまもない私は母の根っこの白液を乳として飲み、切れ目から香る樹液を舐めて育った。育った私はそれだけでは足りず、父の内に偲ぶ小さきものを口にして肉とした。


 ここで樹木を母と呼ぶ。それは、言葉の通り私に血を注いでくれた母であるからだ。


 母の食事は森に巣くう木々たちとは違う。何が違うのかと言えば、食事の形から違う。

 彼らは光を源にし、水を活力とするが、母は動いているものを欲する。それは赤い血潮が全身に行き渡る生き物である。また、それは音を発することを可能とする生き物である。


 また、母の色はそこいらの土色に緑色の傘を被せたようなものではなく、漆黒に覆われている。私が先ほどから樹木と唱えているものの、母の姿は昼間から消えぬ影よりもずっと暗く、その姿は霧で隠れているようでさっぱり目に見えない。


 森から出られない母は、一人歩きができるようになった私に食事の用意を任せる。

 母が好んで食すのは私に姿形が似ている四肢を持った生き物だった。それは二本足で立ち、もう二本は器用に作業をするのに用いた。手ぶらなときもあれば何かを持っていることもあった。それは火を噴く筒であったり、束ねられた薄い板のようなものであった。


 幼い私には母の食事を用意することは非常に困難であった。彼らは私の姿を見るや、怪訝そうに重そうな頭部に張り付いている面を歪めると、石ころでも蹴るかのように視界の端に捨て去るのだ。

 これはある時の話だ。執拗に私が彼らの一人の袖を引くと、それは呆れて小さな薄い石色の円盤を私に放った。それには彼らがつけている面が削られているようだった。私には興味のないものだったので依然と彼らの一人を追うと、面の瞳の色が不気味に暗くなった。それの四肢の一本が私の体に当たり、強い衝撃が走った。赤い液体が地面に零れた。私の体から飛び出したもののようだった。しばらく私は動けなかった。


 私が食事を用意できないと、母は代わりに私の血を慈しんだ。まずは腕を肩まで呑み込み、私の中のものを啜った。不思議と、それは全身を痺れさせるほどに恍惚と震えさせる。思わず頬を汁が伝った。抑えきれない悲鳴が闇に響いた。

 母はこれを愛だと言う。ああ、ならば私も愛だと謳おう。母よ、母よ。愛しています。愛しています。


 しかし、母の食事は私だけでは足りないようだった。度々母は飢餓に襲われ、私の指の欠片を持ち去った。母は私に溢れるほどの愛を与えてくださるのだ。私は喜びに身を震わせた。私は幸福だった。


 母の食事を用意するため、私は母の飢餓を費やして彼らを観察することにした。

 一部の彼らは母の住まう森の外を駆ける小さな生き物に長い筒を向けているようだった。大きな音が鳥たちを驚かせると、小さな生き物が倒れた。私はそれを奪うことにした。


 まずは頑丈な木の枝を折り、できる限り鋭利なものを選んだ。以前森の中を歩いているとき、これを踏みつけて少しばかり歩けなかったことを覚えていた。

 私は小さな体躯を緑の中に隠し、それが獲物をしとめ、手を伸ばすのを見計らって背中に飛び込んだ。それは私の襲撃を予測できなかったようで驚きに父の上に膝をついた。私はこれを好都合と先の尖った枝を押し付けた。大きな悲鳴と共に、それは獲物と筒を手放してしまったようだった。喜びに震えていた私の姿に似ているような気がした。なるほど、これも愛なのかと思い枝を抜いてやった。雑草の上を真っ赤な飛沫が跳ねた。父は美味そうにそれを吸い込んでいた。


 動かなくなったそれは私にはとても重く、母の元に運ぶまでに丸一日かかってしまった。

 母は私の持ってきた獲物に大変お怒りになった。なんでも、生きていなければ味に支障をきたすようだ。母はなけなしの食事を口にすると、私に罰をお与えになった。

 一本指を失った。少しだけ不便に思ったが直に慣れた。これも愛だ。私は母の大きな愛に涙した。


 後日、私は置いていってしまった火を噴く筒を探しにあの場に戻っていた。あの赤い液体は一晩のうちに夜の闇を吸い込んだのか、緑の葉に黒くこびりついている。あの時捨て置かれた動かなくなった小さな生き物は、どこかへといってしまったのか消えている。代わりに、ぽつんと筒が落ちていた。

 動くものを動かなくさせるこれはもう必要ない。母はきっとこれを憎むだろう。

 私は近くの木の根もとにそれを埋めた。すぐそばの木に印をつける。母が憎悪するはずのものを、私は父の中に隠した。



 私は彼らのうちに私のように小さな体躯を持つものを知っている。中には、己一人では何もできない弱者もいた。しかし、それは時に森を震撼させるほどの泣き声をあげる力を持っていた。彼らは集団で行動する特性を持っているようだ。

 夜のことだった。私はその弱者に目をつけた。自身のちっぽけな体を闇夜に紛れさせた私は、虚弱なそれが馬車の中、大きな彼らの一人の腕の中でぐっすりと眠っているのを見つけた。森の小さな生き物に似て身軽な私は音を立てずに中に忍び込むことに成功した。目覚めて仲間を呼ばれたらたまらないので、ゆっくりと抱えるほどの岩のようなそれを、抱かれている腕から抜いていく。


 ――いや、抜くことはできなかった。小さなそれを抱えていた腕が私の小枝のような腕を掴んでいた。

 それは混乱しながらも私に何かを問いかけているようだった。しかし、私には彼らとの対話は不可能だ。彼らが穴から吐き出す音は、私にとって静寂をかき乱す雑音でしかないのである。

 私はそれの腕を振り払って馬車の外へと飛び出した。大きな声が背中を叩く。

 私の腕の中から呻き声が聞こえた。小さな生き物が目覚めたようだった。暗闇が巣くう森に、生きた警報の音が響く。試しに馬車から見える位置で立っていると、音に誘われるようにして馬車の中にいた者ももちろんのこと、外にもいた彼らが一挙に集まってきた。


 私は森の中を駆けた。母の色が滲んだそれは、私を縛りつけるように奥の奥まで染み込んでいる。跳ねるように、私は母の体内を進んでいった。

 彼らは私を追っていた。私は彼らの視界から消えぬよう、母のもとへと先導していった。母をよく知らぬ彼らは、目に見えぬ道に四苦八苦しているようだった。


 帰り道はどこだ? ややこを連れて行った餓鬼はどこだ?

 我々は飲まれているのだ! 森の悪魔に誘われているのだ!


 ここはどこだ? お前はだれだ?

 恐ろしい! 見えぬ! 私はどこにいる!

 なんということだ! 我々は悪魔の誘いに乗ってしまった!


 次第に、私たちの接近に気づいた母が己の触手を伸ばしてきた。

 まずは小さなそれを捧げた。大きな叫びをあげていたそれは、母の闇に吸い込まれると同時に静かになった。母の動く根っこが私の腹を掴んで自身のそばへと連れて行く。母の体に触れると、ぬめりとしたものを感じた。

 母は温かだった。私を包んでいた根っこは解かれ、新たな食事を求めて遠くを目指した。遠くの景色は私には見えない。母のそばは森の暗闇よりいっそう暗く、何者も映さない。


 それは遼遠の世界での出来事だった。中はこんなにも静かなのに、外では森を割るような音ばかりが響く。母は美味そうに新鮮な彼らを噛んでは啜った。

 私は胎児のように母の内側で丸まった。頭の上に何かが降って来た。雨のように冷たくもない。べたついた雨だった。

 その日、母は私に愛を与えなかった。ただ、満足そうに私に降りかかっていたそれらを舐めていた。


 母は長い日のうち一度だけ食事をすればよいようで、それから当分の間飢餓に襲われることはなかった。母は私に愛を与えることをしなくなったのだ。

 恐ろしかった。

 愛は私の存在理由であり、私が呼吸をすることを肯定するものだ。

 空虚が私の体を蝕んでいる。失われた指が、今でも生えているかのように痛みを訴えている。

 私は微笑んだ。

 ああ、母は私を愛していないわけではないのだ。母の愛は今、この瞬間に私の体に根付いている。忘れることを拒むように、私は傷口を締め付け、赤い華を咲かせた。


 愛しています。愛しています。愛しています。

 私は、母に愛を囁き続けた。










 何度日が沈んだのを見ただろう。また、彼らが現れた。それは私よりもほんの少し高い視点を持っていた。二人だった。

 私は木に上り、先を尖らせた枝を手にしていた。私は、彼らが私のいる渡り先のない橋の下を潜るのを待った。

 潜ったことを認知した私は速かった。枝を両手で構え、その場から飛び降りた。私の武器は彼らのうちの一人に突き刺さった。首と肩との間に深く刺さったようで、それは名状しがたい叫びを響かせた。

 足場を悪くした私はそのまま次の獲物に飛び掛った。それは唐突の奇襲に呆然としているようだった。ゆえに、それを組み伏せるのは容易かった。


 私の手がそれの首を包んだ。それの固い手が私の腕を掴んだ。

 彼も私も強く握った。母の愛に似ても似つかぬ震えに襲われる。

 ふと、それの面に球が埋め込んであったのが見えた。森の色と同じ色だ。それは何かを映しているようだ。

 そこに映っていたのは彼らと同じように面を被っていた小さな生き物だった。両の球は光など映さずにじっと闇を焦がしている。どんよりと母の色を身に宿しているそれは、今まで見てきた彼らの中でも圧倒的に醜悪な生き物であることがわかった。


 目が離せない。それは私を見つめている。私もそれを見つめている。

 息が詰まった。腕に力がいっそう込められ、下にいるそれがもがいた。

 ぽきんと音が鳴ると、それはもう動かなくなった。求めていた、動かない生き物になった。


 私は撫でるようにそれの面を伝い、球の上に親指を被せた。


 お前は、誰だ。


 球の中にいるそれは、じっとこちらを見つめるばかり。私は力をこめてそれを押した。








 私は動かなくなった二体を緑の繁る木の近くに座らせた。動かなくなったのではなく気を失ったように見せかける。以前、誤って動かなくさせてしまった彼らを放っておいたら、新たな彼らがそれに誘われるように近づいてきたのだ。私はそれを罠として活用することに決めた。木の上で私は待つことにした。


 日が高くなればそこへ赴き、日が沈めば母のもとへと帰る。私は動かなくなったそれが目にも当てられぬ姿になるまで、辛抱強く獲物が罠にかかるのを待った。結果は成功だった。二体の彼らが釣れた。私は事前に千切っておいた彼らに被せられていた布を、静かに彼らの呼吸器に押しつけた。

 一体は二度と動かなくなった。もう一体は辛うじて呼吸をしていた。失敗だ。一つは母の食事としての利用価値を失ってしまった。私は反省した。


 手に入れた食事を母の元へと持っていく。

 あの時と打って変わって成長した私は、多少の苦はあったもののあの時ほどの苦労はかけずに運ぶことができた。

 母は空腹であった。ゆえに、私は食事を用意した。今日も、母は私に愛を与えなかった。以前母が私に与えたみみず腫を私はそっと撫でた。

 ふっと息を吐く。

 成長したためか、小さな頃に作った傷は肌が伸び、薄くなっている。今でも色濃く残っているのは失われた指のみ。新たな肉が覆いかぶさっているそこでは、もう母の愛を確かめることはできない。


 今、私は動いているのだろうか。


 母は私に愛を与えてくれる。そうすることで私は動くことができる。だが、今の母は私に愛を与えてくれているだろうか。──あれは、本当に愛だったのだろうか。

 いや、そうではない。そうではない。


 私は母のために在る。それ以外に必要なものはない。母も、それを望んでいるのだ。私は母の望んでいないことをしてはならない。それしかないのだ、私がここにいるための方法は。

 だから、考えるな。考えれば動けなくなる。動けなくなってしまったら、母はもう私を愛してくれはしないのだ。



 ――ぽつりと、頬を水滴が走った。

 たんたんたん。小さな足音が葉を叩いては父の上に落ちる。

 その音はどこか私の中に巡っているそれと酷似している。私の中心の奥で奏でられる小さな肉の塊と同じ。次第にそれは無数の音となって私の全身を叩く。


 雨は私の髪を伝い、肩をすべり、腹を撫で、足を舐める。全ては父に食われる。

 彼らも、彼らの中にあった熱い赤い液体も。そして、きっと私も。

 父以外の行き先を思い出して、私は空を見上げた。雫が右の視界にぶつかって頬に零れ落ちた。


 もし叶うのなら、私は母に食べられることを望む。




 雨は止まなかった。

 私は森の外にいた。空色が濁って頭上の光を隠しているのがよく見える。

 雨はいい。太陽はあまりにも眩しくて、月は私たちを脅かす。この瞬間、私たちは全てを共有している。

 目を閉じる。雨の音が地面を叩く。心地がいい。母も、きっと同じように感じているのだろう。


 ぱしゃり。私の足が水溜まりを弾く。

 束の間、遠くへ行こう。雨だけが私を守る。私の知らないどこかへ行こう。


 あーあーあー。一声あげて、1人私は道を歩く。

 ここは母の知らない場所。私の知り得ない場所。母は私の全てを知っている。

 ほら早く。母が降りてくるまでに。どこかへ行こう。行こう往こう往こう。


 追いつかれてはならぬ。追われてはならぬ。気づかれてはならぬ。なぜなら父が全てを知っている。踊る私の姿を見ている。暗闇の底、母がそっと覗いている。


 足を止めた。来たこともなかった場所で私はただ1人。


 どこへ向かっても、どこへ向かっても、私は1人。


 歩いた先は底知れぬ。夢を見ているように果てがない。


 私は──どこにいるのだろう。どこかを目指して、どこへ辿り着くのだろう。


 ふと、何者かに雨を遮られた。

 見上げてみせると、そこにいたのは綺麗な服を着た彼らの1人だった。私を庇うように木の枝の先に白色で半円の布で覆ったものを持っている。

 それは何かを私に言った。私はそれが何を言っているのかわからなかった。ただ、綺麗な面を持っているなと思った。

 それは少し考えると私の手を取って歩き出した。温かかった。不思議と、放す気にはならなかった。





 着いた先は巨大な建物だった。母とは似ても似つかぬ白い様相をしている。

 中にいた彼らの一人が慌てたようにこちらに走り寄ると、彼らはいつにも増して大きな音で対話した。彼は私を指差した。私の手を掴んでいるそれは私の頭を撫でた。それは、母が私にしたものとは違うもののような気がした。


 中に入ると、まず水に浸された部屋に入れられた。森の中とは違い狭くて明るい部屋だった。驚くことに、そこの水は川のものとは違って痺れるような熱を持っていた。すると、どこから現れたのか、多くの彼らが布を私の肌に宛がった。頭の天辺から足先までを擦り続ける。私は黙ってされるがままでいた。母の愛撫に似てそれは肌を焼いた。


 そこから出ると、また彼らの一人が私を待ち受けていた。先ほどの綺麗な面を持った一人だった。

 それはまた一言二言私に言葉を投げる。しかし、私にはわからないのでそれをじっと見つめるのみである。それは頭を少し掻くと、またどこからともなく現れた彼らに言葉を投げていた。

 ふっと影が現れたと思うと、頭を数度叩かれた。だが、母とは違い固くもないし、何よりそこに愛はない。見上げると、綺麗な面に大きな穴ができていた。月が半分に欠けたみたいな形。なぜか心臓が締め付けられるような感覚になり、呼吸が苦しくなった。

 綺麗な面の一人は慌てて私から手を遠ざけ、私に細切れの言葉を伝えようとした。不思議と頭が物寂しく感じた。


 彼らは、なんなのだろう。母の餌だというのに。


 私は四角い空間に押し込められた。

 そこは多くのモノで溢れかえっている。隠す場所は多いが、隠れる場所は少ない。餌を得るには不十分な場所だと思った。隅は暗く、母がこちらを見ているような気分になる。

 眠たくなったので空間の中央に寝転がった。餌を食べる音も、木々が揺れる音も、母がぐずる音も聞こえない。静かな場所だった。私はいつものように膝を抱えて小さくなる。世界を閉じれば、そこは母の胃の中だ。



 母が去った。代わりに、天には目を焼くような明かりが灯っていた。

 中央で蹲る私を見た彼らは、慌てたように駆け寄ってくると多くの言葉をかけた。私にはそれが理解できなかった。母はどこにいるだろう。ここにはいないようだった。

 腹が鳴った。母の樹液を食さねばならない。だが、私の前に並べられたのは丸い器の上に何かが乗ったものだった。綺麗な面をした彼らの一人が、面の中心よりも下にある線を半円の形にしている。彼らはそれらを口の中に入れてみせた。安全だと表明しているようだった。試しにそれを口にすると、私の腹の中身が暴れだしそれを地面に吐き出してしまった。白濁のそれらが私の口から糸を引いて逃げていく。

 彼らの一人が私の背を擦った。私は動けなかった。吐き出されたそれらを食べるものはいない。私が手をついている父の偽物が、私の口から溢れた唾液を受け止める受け皿となっていた。


 私のモノが飛び出したそこに父はいない。私の中にいたモノを食べてくれる存在はいない。じゃあ誰が食べてくれるというのだろう。

 彼らが私を立たせると、水のある場所に連れて行った。それで口を濯げということだった。私は口に含んだ冷たい液体を口内で混ぜた。母の愛とも異なる、喉の奥を焼くそれを柔らかくする。吐き出して正面を向くと、何かが私を見ていた。

 それは楕円の囲いに囚われていた。

 彼らの一人だ。だが、私はその一人を知っている。母を身に宿した、焼け炭を全身に擦りつけたような醜悪な存在だ。それは私を見ている。大きく面の二つの玉を晒して、私をじっと見つめている。

 私は息を大きく荒らした。体の中心が熱くなる。それは母に食べられた後の指の熱に似ている。

 私は喉奥から全身を内側から引っかくような悲鳴を挙げた。楕円の中にいるそれも、面の穴を大きく広げて私を見ていた。陰湿に私だけを見ていた。

 母の色だ。頭から生える毛の色も、全身に被っている皮も、面についている二つの穴も。全てが母の色だ。


 ――ああ、わかっていた。それは母だ。母の化身だった。じっとりと、私の全身を絡めとり、私に忘れさせない。私はそこにしかいられないと覚えこませてくる。葉に沁みこませた母の汁を、延々と噛みしめられている。遠くになど、行けるわけもなかった。辿り着く先などどこにもなかったのだ。


 私は彼らの手を振り払って走り出した。ここにはいられない。帰らなければならない。私は私を愛し、私を救ってくれる母の元でなければ歩くことができると錯覚してしまう。

 硬い道という道を走る私の腕を掴むモノがいた。勢い余って足を滑らす私の体を、それは支える。

 それは綺麗な面を持った彼らの一人だった。私に言葉をかけている。私にはわからない。わかるはずもない。私は彼らではないのだ。

 私は私の腕を掴みとっているその腕に噛み付いた。それは痛みに呻き、私の束縛を解く。私はその間に今度こそ逃げ出した。


 呼吸が荒れる。前が眩む。

 足の裏が熱を発している。これも母の愛なのだろうか。それとも、これは父の愛なのだろうか。

 駆ける私の指先に父の体の一部が絡み付いている。雨で濡れたのだ。土色の血漿は私の肌に飛び散っている。

 母はどこにいただろう。私は、どこから来ただろう。

 私は自分の足を止めた。己がどこから来たのかまるでわからなかった。自分の呼吸音ばかりが広がった。天には母を穿つが如く、青い天井に穴を開けて私を見下ろす眩しい目玉がある。

 母が何度冷たい手で私を包んだだろう。私は長きに渡る逃避行の末、ようやく母の住む場所に帰ってきた。だが、そこには森はなかった。あるのは天にまで高く上る赤い母の手だった。


 皮を上から撫でるような愛が焼いた。それは母の手足であり血である森に広がっていた。緑はない。それは、母の餌である彼らから溢れ出るものに似ている。

 母は、どこにいるだろう。

 これは母が嫌うものだ。きっと、今頃とても苦しんでいる。母は苦しむときほど私を欲するのだ。それは私に愛を思い出させる行為だ。私は母の愛を受け止めなければならない。さもなければ、私は呼吸する許可を得られない。私は胸底で軋む肉の塊を押さえた。今も、こうして呼吸ができないでいる。母の愛がないから。母がいないから。母がいないと、私はどこにもいられないのだ。

 帰らなきゃ。だけど母は見つからない。では、私の帰る場所はどこにあるのか。


 ――音が聞こえた。彼らの声だった。

 音に振り返ると、そこには以前見かけた綺麗な面をした彼らの一人がいた。彼らは私に何かを語りかけている。なぜだ。なぜそんな面の形をする。わからない。私には、彼らを理解するための行為を知らない。

 私は走り出した。彼らの一人も追いかけてきた。

 母を見つけねば。愛を、私は母の愛を欲しているのだ。他の誰でもない。母を欲しているのだ。母でなければならないのだ。ああ! 私を愛し、私を愛撫する母よ! あなたはどこにいる!


 赤い手が伸びていない場所へ飛び込んだ。ちりちりと肌を、赤い指先が撫でる。頭から生えている長い毛に、今にもその手は絡みつこうとしている。だが、それは母の愛撫ではない。

 長い間走ったような気がした。私の背後には誰もいなかった。

 安堵して膝を落とすと、そこが見覚えのある場所であることに気が付いた。

 筒を隠した場所だ。また彼らが追いかけてくるかもわからない。私は迅速にそれを父の中から掘り出すことを決意した。

 父の皮が抉れると、内臓の隙間から黒い筒が見えた。私はそれを取り出した。使い方は覚えている。彼らの一挙一動を、私は母のために常日頃観察していたのだ。少し振ると、筒の中から父の血潮が零れ落ちた。


 ――肩に何かが触れた。それは五本の指を持っていた。


 振り向いたそこには、先ほどまでに私を追いかけていた彼らの一人がいた。彼らの一人は首を振って筒を指さしている。


 母は。


 私は筒の先を、綺麗な顔をした彼らの一人に向けた。


 母は、この大きな餌を喜んでくれるだろうか。


 ぐりりと、私は指を引いた――。


「――あ」


 音が出た。大きな音だった。それは愛だった。

 私の体から流れた赤い糸が父の上に散っている。筒の中で弾けた何かが辺り一帯にばらまかれたのだ。父の内臓に動きを止められ、どこにも行けずに周囲に当たり散らしたのだ。それは母よりも速く、母よりも愛に満ちていた。


「ああぁぁぁああああ!」


 私は泣いた。愛が重すぎた。私には抱えきれない愛の熱さが、私の体の節々から溢れ返っている。

 父の上を必死に転がり愛を逃がした。体が震えた。頭が熱くなって、愛を逃がす度に視界の端から涙が零れ落ちた。びりびりと手足があるのかすらわからなくなる。それは、いつの日か母に指を食われた時に似ていた感覚だった。

 視界が揺らいでいる。涙で森が歪んでいる。私の愛を、涙を、すべてを父が食べている。


 嫌だ。私は、母に食べられたい。母に食べられなければならない。


 辺りを見ると、倒れ臥した彼らの一人が見えた。彼らの一人は父に食い尽くされようとしていた。私の失敗した筒による攻撃が彼らの一人に当たったのだ。綺麗な面は、母が食べた後のように無惨であった。

 食べられない餌だ。母は好まないだろう。なら、はやく、いかなければ。


 私は足を引きずりながらも、母がいるに違いないあの場所を目指した。

 赤い手が私を捕まえようと躍起している。捕まるわけにはいかない。母は私を愛している。私は、母を求めなければならない。

 ――ゆえに、母の巨躯に絡み付く無数の赤い手など、見てはならない。


 母は幹に赤い手を生やしていた。以前のように俊敏に動かす様子を見せることもなく、母はただそこに沈んでいた。

 不思議だった。あれほどまでに愛を与えることに奮起していたはずの母が、その動きを止めていた。私は近づこうとするが、赤い手が私の手を跳ね除けその機会を奪った。

 違う。あれは、母ではない。だが、母はここにいるはずなのだ。愛を与えてくれるはずの母は、ここにいてくれなければならないのだ。そうでなければ、そうでなければ誰が私に愛を与えてくれるというのか。


 ――ああ。


 私は顔を抑えた。母のものではなくなった黒色が張り付いた手で、母でないものを見せつける二つの穴を隠した。


 ――愛して、愛してください。

 私を、愛してください。ここに、ここで、私を、私を愛してください。私は動いている。私はここにいたのだということを教えて、私がここにいるために、ここにいたことを知るために、私を愛してください。

 私を見てください。私に触れてください。そうすれば私は、あなたを愛します。愛することができるのです。


 だから、どうか。

 私を、餌でさえないものにしないでください。


 私は叫んだ。音にならない音で。母にしか通じぬ音で、私は叫んだ。

 だが、応えるものはいなかった。それは、父が母の代わりに食べたのだ。




 私はしばらく蹲っていた。赤い手が雨によって父の中に隠れようとも、身動き一つ取ることもなく私は父の吐く息を吸っていた。

 母のいない場所に私の居場所はない。私の呼吸ができる場所はどこにもない。

 しかし、ふと気がついた。ああ、そうだ。そうだとも。母がいないなどと、誰が言っただろう。視界に映るものばかりに気を取られて、私は真実を見極めていなかった。

 私は隙間のあった視界に蓋をする。そこにあるものを、正しく認識するために。


 ほら、すぐそこ。母がそこにいる。


 どうして気がつかなかったのだろう。確かめる必要なんてなかった。

 母はここにいた。私に愛を与えていなかったわけではなかったのだ。母は違う形で私に愛を与えていた。母はじっと目蓋の裏で私を見つめていたのだ。


 ――なんだ、そこにいたんだ。

 私は両手を二つの球に合わせて、それを奥へと押し付けた。

 ぐちゃりと、母が、私を食べる音がした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 迫力のある心理描写。攻撃されることのみを愛と認識してしまう、というのが、主人公がこれまで置かれた恐るべき環境を想像させてくれます。 スピード感もあり、文章も読みやすかった(状況を読み取りや…
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