88話 百階層
あれから一ヶ月ほど経ち、その間にアカムは異界迷宮の九十九階層までの全てのエリアを攻略し、ついに最後の階層である百階層へと挑む権利を得ていた。
それまでよりも階層の攻略が遅いのはそれだけ強力な魔物が現れるようになったというわけではない。
もちろん現れる魔物は九十階層以下よりもはるかに強力ではあるが、守護者でない限りはもはやアカムの敵ではないのだ。
攻略が遅くなったのは迷宮に潜るのを午前中だけにして、早々にイルミアの元に帰るようにしていたからであった。
実のところ、イルミアの調子がかなり悪くなったのはアカムがベヒーモスを倒した日よりも少し前のこと。
ベヒーモスを倒したことを報告していた時も実はイルミアはベッドの上だったのだ。
もちろんアカムだって最初は心配する様子を見せて、一旦迷宮攻略を中断しようとも考えた。
しかしそれを止めさせ、いつも通りに迷宮攻略をするように促したのは他ならぬイルミアだ。
いつもの様に迷宮へ挑み、その話を帰ってきたときにしてくれたほうが元気になれるから、そう言われてアカムは努めていつも通りに迷宮を攻略していた。
最初はそれでも不安だったが、実際に迷宮を攻略しその話をイルミアにすると彼女は明るく笑い目に見えて元気になった。
さらにカミラがちょくちょく様子を見てくれていることを知ってアカムはある程度安心して迷宮攻略へ挑むことができたのだ。
だが、神竜を倒して家に帰ったあの日。
カミラがイルミアの傍にいるのを見て、それは甘えていただけだったことにアカムは気づいた。
イルミアの優しい言葉に甘え、それを言い訳にしていたことに。
カミラの厚意に甘えて、本来は己がすべき役目を代わってもらっていたことに。
それに気づいたアカムはあの日以降迷宮に潜るのは午前中だけにしてできる限りイルミアの傍に居続けた。
完全に迷宮に行かないようにしなかったのは、かつてイルミアに言われた言葉の全てが嘘というわけでもなかったからだ。
実際にイルミアはアカムが迷宮でどうしてきたのか話に聞くのを楽しみにしていてアカムもそれに気づき、午前中だけはいつも通りに迷宮攻略に費やしたのである。
そんな感じで迷宮攻略を進めていたため、百層に辿りつくまで時間が掛かった。
それでもイルミアの妊娠は順調で一ヶ月経った今、悪阻もほとんどなくなり体調はかなり安定してきている。
まだまだ完全に安心できるわけではないが、それでも辛そうなイルミアを見ることは無くなりそこだけは一安心だ。
そして、今。
アカムは百層にある小部屋へと来ていた。
目の前には大きな両扉がある。
それはこれまでにもあった守護者のいる大広間へと続く扉だ。
今日、アカムは百層の守護者――いや、情報通りこれが最後であるならば異界迷宮の主へと挑もうとしているのだ。
おそらくはこれまでのどんな守護者よりも強い相手が待っており、命の保証は全くない。
この期に及んでそんな危険を冒すのはアカムなりにけじめをつけるためだった。
「マスター、本当によろしいのですか?」
「……ああ。結局、イルミアの傍にいてやっても俺はどこかで迷宮のことを考えてた。完全制覇までもう少しってとこまで来てるから余計にな」
「それでもマスターはちゃんとイルミア様のことを見ていました。それは私が保証します」
少し自分を恥じているような様子のアカムに対しアイシスが優しい言葉をかける。
「ああ、俺だってそう言いきれるぐらいにはちゃんと想ってる。でもそれじゃ申し訳ねえだろ。あいつは今すっげえ頑張ってるのに、俺が傍で全部の想いを向けてやれないなんてさ」
多少自分を恥じているのは確かだが、決して卑下しているわけではない。
アカムの言葉を聞いていてそう感じたアイシスは黙って続きを聞こうと集中する。
「だからこれはけじめだ。完全制覇を達成すれば後は迷いなく全部イルミアに想いを向けてやれるからな」
「……気障ったらしいですね、似合いませんよ」
「うるせえ。俺だってたまには気取って格好つけるさ」
アイシスの言葉にそんな言葉を返しながらも、アカムの表情に気を悪くした様子はない。
と、思いきや何かに気付いた表情でアカムはアイシスの方へと向き直る。
「おっと、全部イルミアにってのは言い過ぎたな。これから生まれてくる子供にも、そしてアイシス、お前にもちゃんと向けないとダメだよな。家族なんだから」
「っ! ……えっと、その……ありがとうございます。それとマスター自身にも気を向けてくださいね」
「俺自身に?」
「はい。マスターがいなくなればイルミア様も悲しまれます。……もちろん私も」
アカムの言葉に驚いて、少し言葉を詰まらせつつもアイシスは笑みを浮かべて礼を言った。
そしてアカム自身にも気を向けるべきだと付け加える。
付け加えられた言葉にアカムは首を傾げるが、その後の説明を聞いて少し驚き、それから少し照れくさそうにしながらも神妙に頷いた。
「……それじゃあ、気を引き締めて最後の戦いに挑むとしようか」
「はい、行きましょう」
それから表情を引き締め、大扉を睨みそう言えばアイシスもその言葉に追従する。
アカムが腕を心なしかゆっくりと伸ばし、大扉に触れて軽く力を入れれば、その後は勝手に開いていった。
大扉が完全に開き、その向こうが見えるようになったはずなのに見えるのは何もない白い空間だけ。
それでもその空間こそが戦いの場なのだとアカムは直感していた。
その空間へと脚を踏み入れればもう後戻りはできず、戦いに勝たない限り生きて地上へは戻れない。
それでもアカムが恐れることは無い。
むしろ闘志を燃やしていた。
体調も万全で、気合いも十分。
今更ビビることなどありえなかった。
だというのに―――
「なんだっ!?」
「これは一体!?」
―――アカムはその空間に入れなかった。
それはアカムが弱気になって動けなかったなどという事ではなく、白い空間と小部屋の境に障壁があって、それに阻まれているからだ。
謎の障壁に阻まれ多少動揺するアカムだったがすぐに気を取り直してその障壁を壊せないかと全力で殴るが、揺らぐことなく阻み続ける。
ならばと、少し下がって片手半剣を構え、全力で、できうる限り鋭く振るった。
「ちぃ!」
「この障壁は一体どういう原理で……? 魔力でもない……もっと何か別の……」
その斬撃はまさしく一閃と言うべき会心のものだったが、その刃は障壁にあっさりと防がれ、弾かれたことで衝撃がアカムの身体まで響いてきたがその程度でどうにかなるほどの肉体ではなく、ただ弾かれたことに対して舌打ちを打つだけで堪えた様子はない。
アイシスはその斬撃が防がれるのをジッと観察していたのだが、障壁が何の反応も無かったことを見て訝しんでいた。
攻撃を受けそれに耐えるという事は高い耐久で単純に耐えたり、周囲に力を散らしたりするなど何かしらの変化があって然るべきであるはずなのにその障壁が刃を防ぐとき、そういった反応は皆無だった。
まるでありとあらゆる干渉を受け付けないかのように、全てが無意味であるかのように。
もちろんその変化が感じられなかっただけという可能性もあるのだが、機械因子の解析能力は相当なものであり、そうでなくても今のアイシスは精霊という世界の理により近い存在だ。
そんなアイシスにすら気づけない時点でこの障壁は異常なのだ。
「こうなったら……魔力収束砲使うか?」
「いえ……感覚的なものになりますが、おそらく無駄でしょう」
「やっぱりか」
こうなればと、腕を軽くあげながら魔力収束砲を使おうかと口にするアカムに対し、アイシスは静かに反対する。
どうやらアカムもそれをやってどうにかなるとは思っていなかったようでアイシスの言葉にすぐに納得する。
「ったく、最後の最後に何だってんだ……なにか条件を満たしてないとかか?」
「……ですが特に明示された情報はありませんでした。以前、全てのエリアを攻略するよう示唆された時のように、ここでその条件のヒントが現れるということもないようですし」
思わぬ障害にガシガシと頭を掻きながら愚痴を零すアカムに、アイシスは少し考えながらもその可能性は低いのではと相槌をうつ。
愚痴を零したアカムも実際はその考えに賛成で、少なくとも条件を満たしていないのならば今ここで現れるはずだと確信していた。
その根拠は九十階層で戦った神竜のゴドラの言葉。
『この世界は人のためにある』
以前戦ったゴドラは戦う前にそう言ったのだ。
つまり迷宮もやはり人のために用意されたもので、そんな迷宮がここに来てヒントも無しに阻むなど到底考えられないのである。
とはいえ実際阻まれている現状を認めないわけにもいかず、アカムとアイシスは向き合いながら何か見逃しているのではないかと考え込んでいる。
そして、次の瞬間。
「っ!?」
「今度は一体!?」
アカムたちの居た小部屋は轟音と共に光に包まれた。
大変遅くなりました。