73話 ベヒーモス
前回迷宮に潜ってから一日休みを挟んでの二日後。
アカムは朝早くから八十階層の守護者のいる大広間の手前の小部屋へと来ていた。
昨日は異界都市上空で起きた異常事態から不安になったアカムが念のためイルミアの傍にいたのだが、結局イルミアもお腹の子にも異常は無いようだったのでアカムは万全の状態で迷宮へと来ている。
ちなみにお腹の子が無事だと分かるのはそういう魔道具があるからだ。
その魔道具は妊娠補助器と呼ばれ、胎児の様子はもちろん無事妊娠したことを教えてくれるもので、イルミアが妊娠の症状が出るよりもずっと早く子供ができたことに気付いたのもこの魔道具のおかげである。
この魔道具を使って胎児の様子や妊娠状況を確認することで、流産するリスクを減らせたり子供のできる確率を向上させることができるためか、それなりに高い魔道具であったりするのだが四六時中迷宮に潜っていたアカムはかなり稼いでいるので問題なく買うことができていた。
そんなわけで何も心配することなく――とはいっても一定の不安は感じているが――アカムは大扉の前でしていたストレッチを終え、大扉を睨む。
「さて、八十階層。何が出るか」
「魔力体相手なら任せてもらえば速攻で倒しますよ」
「馬鹿言え、次は俺がやるぞ」
軽いストレッチを終えていよいよ準備万端と言った様子のアカムが、大扉の先で戦うことになる守護者について呟く。
それに返したアイシスの言葉には速攻で拒否の意を返し、ニッっと笑う。
アイシスも本気で言ったわけではないので、期待通りの返答をしてきたアカムに満足し、アカムの笑みに釣られてこちらも笑みを浮かべた。
それから大扉に手を当てて思いっきり押して開き、中へと入っていく。
前回の事も考えて今回アカムは翼を背に付けていて、いつでもエアマスクを装着できるようにしているため主な武器は大鉈だけである。
呼吸困難な状況を想定してのことだったが大広間は前回以上に広々とした空間になっていたため、どちらにしても飛行能力を十全に活かせそうではあったのですでに背に翼を取り付けた意味はあったと言えるだろう。
ただ、大広間の広さははっきり言って異常であった。
それこそ異界迷宮都市がすっぽり収まるのではというほどに広く、それはもはや壁に区切られた部屋などではなく他の室外系のエリアと同じ一つのエリアと言っても過言ではないほどだ。
あまりに広すぎて逆に不安に感じてアカムは警戒心を高めた。
「やけに広いな……っと、魔法陣が出て……はあ?」
「どうやら今回は前回のイミテートエレメンタルが飛べるために広いのではなく、あまりにも巨体の持ち主が現れるから広いようですね」
扉が閉まり、現れた魔法陣を見てアカムは素っ頓狂な声をあげる。
その魔法陣の大きさが、街が丸々一つ入るほど広いこの大広間の四分の1ほどある巨大なものだったからだ。
アイシスは冷静に魔法陣の大きさから現れる魔物の大きさを想像してそんなことを言うが、大広間が今までより段違いに広い理由が分かったところで今更どうにもならない。
思わぬ巨大な敵の予感にアカムは額に汗が滲むも、どんな強大な相手が現れるのかワクワクもしていた。
その目に炎を灯すが如く集中し、灰色の目で魔法陣を眺めソレが現れるのを待った。
やがて魔法陣から光の柱が伸びる。
当然の如くその柱はあまりにも太く大きいものになる。
そして巨体すぎる魔物が完全に姿を現すのには時間がかかる。
かつて、アカムが戦ったキリングアイズもその巨体から発生までに数十秒の時間を要した。
だが、今目の前の光の柱は数分間そこに存在し続けていた。
それはそれだけ巨体の持ち主であることを示唆していて、流石にアカムも口元が引きつっていた。
「おいおいどんだけだよ……」
「あの光の柱の中に巨大なエネルギーの反応を確認できますが、今なお増加中ですね」
「まだ全部が出てきてないって事か……そんだけでけえってことだろうけど……」
そういってアカムは手に握る大鉈を見る。
アカムの腕と同じような長さの刃を持っている大鉈は中々に巨大な刃物であるが、これから現れる魔物の大きさを想像する限りは表皮を斬ることぐらいしかできないように思える。
背中の翼を左腕に装着して大剣にするかとも考えるが、多少長くはなるものの大した差ではないかと思い直す。
そんなことをなかなか消えない光の柱を見ながら考えていると、ようやく魔物の出現が完了したらしく、光の柱が徐々に細く消えていきその魔物の姿が外側から徐々に見えるようになってくる。
現れたソレはあまりにも巨体だった。
ソレとの距離はかなり離れているにもかかわらずその身体は山のように大きく見えた。
後ろ足二本と尻尾を使って立っているが、その巨体を支えるための脚は異様に太く、そして短めであり、ともすれば座っているようにも見える。
腕もまた巨大で長く、ほぼ直立で立っているはずなのに地面に届くかというほどだ。
頭部には太く長い二本の螺旋状に捻じれた角が前方に向かって伸び、目は妖しく赤い光を放っている。
その顔は強いて言えば牛のソレに近いが、歯は鋭く尖り、下の歯の何本かは口の外側に大きく突き出ていて牛とは似ても似つかない。
また、黒く猛々しい鬣が背中の中心を通って尻尾の先まで生えているばかりか、トゲトゲとしたものが背中から何本も突き出ていた。
全体的な肌の色は濃い紫色で手足の先と鬣だけが真っ黒である。
アカムはそんな魔物の姿をみて目を見開いた。
実際に見たことは無くてもアカムはその魔物の事を知っていた。
いや、この世界の誰もが知っているだろう。
図鑑などではなく、子供の頃に誰もが読んでもらう絵本の中にそれはいたのだから。
ある英雄の物語。
その物語の中で出てくる巨大な敵。
絵本の絵はひどく曖昧な姿だったが、アカムはすぐにソレだと分かった。
「ベヒーモス……」
アカムは残る生身の部分から汗が大量に吹き出るのを感じつつ、そんなまさかという思いと共にソレの名を口に出した。
そうして口に出したからかますます目の前の巨大な存在がベヒーモスであると感じられてアカムはその姿をまじまじと見つめて固まっていた。
「グオオオォォォォォォォ―――――――!」
「っ!?」
「叫び声一つでここまで揺れますか……」
そうこうしている内にベヒーモスは動き出し、天へと咆哮する。
その声にアカムは思わず耳を塞ぎ、ビリビリと身体に打ち付ける衝撃を感じていた。
その衝撃を受けているのはアカムの身体だけではなく、なんの事は無いただの咆哮で大広間全体が大きく揺れていた。
その咆哮を聞いてアカムは我を取り戻しやや引き攣らせながらも笑みを浮かべる。
「まさか伝説の相手と戦うことになるとは、楽しみだ……と言いたいがまともに戦えるわけねえだろうが」
「あら、いつになく弱気ですね。マスター?」
「そんなんじゃねえ。ただの事実だ。あの巨体相手にまともな攻撃は一切通じないだろうからな。なら、もうこれしかないだろう」
アカムは大鉈を左手に持ち、右腕の前腕部を傘のように開く形に変形させる。
それからさらに肘が固定され動かせなくなった。
その状態でアカムは右腕を振りニッっと笑みを浮かべる。
「そうですね。魔力収束砲ぐらいしかあの巨体には通じないでしょう」
「だろ? ってことで早速撃つぞ」
アイシスも納得したところで右腕をベヒーモスに向けると肩の部分も固定すると共に腰を落とし、足裏からはスパイク代わりにパイルバンカーの杭を撃ち出して身体を地面に固定する。
「では早速行きますね。魔力収束砲エネルギーチャージを開始します」
「相変わらず不安になる魔力の集まりだな」
先手必勝とばかりにすぐに魔力収束砲のエネルギーチャージが開始され膨大な魔力がアカムの右腕に集まりその魔力量に苦笑いを浮かべつつもアカムは幾らか余裕が見えた。
以前は魔力を常に枯渇させてのチャージだったが、今は魔力の結晶の効果で魔力回復力と貯蔵量が数倍強化されているため魔力枯渇にしなくとも十分にチャージできるためだ。
そして一定の魔力を内に残しながらのチャージにも関わらず数倍強化された魔力回復力から魔力収束砲がチャージ完了するまではわずか十秒とかなり短縮されていた。
「チャージ完了……敵、ベヒーモスの口辺りに高密度のエネルギー反応を確認」
「どうやらあちらも似たような考えらしいな……このままいくぞ! 魔力収束砲一発目、発射ァ!!」
その声と共にアカムの右腕に集められた魔力は開放されベヒーモスへと襲い掛かる。
一拍遅れてベヒーモスも口を大きく開いたかと思えばその口内から高密度のエネルギーを放った。
互いに放った膨大な魔力の込められたソレはどちらもかなりの距離をあっという間に縮めて空中で衝突した瞬間、周囲一帯が閃光に呑まれ、エリア全体を激しく揺らした。