72話 異常と日常
アカムが、というよりもアイシスが七十階層の守護者を倒してから九日後。
その夕暮れの事だ。
アカムは間の階層を全エリア攻略しながら進み、八十階層の守護者のいる大部屋前まで行けるようにしてから地上へと帰ってきたのだが、ふとアカムが空を見上げた時奇妙な物を見かけた。
夕暮れ時のオレンジ色に染まる空の一点。
そこだけ空を切り抜いたかのように黒々とした穴のようなものがあり、その周囲にはひび割れのように黒い線が伸びている。
まるで空が割れたように錯覚してしまうその光景にアカムは眉を顰めていた。
そしてアカムが見ている中、その黒い穴のようなものを中心に空が砕けた。
その瞬間何か巨大な力がその砕けた場所に現れたのをアカムは感じ取る。
いや、それはアカムだけではない。
異界迷宮都市に住む誰もが上空の存在を感じ取り、その巨大な存在感を受けて固まっていた。
それはアカムも例外ではなくただ、視線が空へ固定され動けずにいた。
だが、それも束の間の事。
「っ!?」
「なんだぁ!?」
「雷かっ!?」
「ぐぉおう……目がぁ!?」
辺りに轟音が響き、ひび割れた空を雷光が貫いた。
突然の轟音と雷光に動けず固まっていた人たちが我に返り、何が起きたのかとそれぞれが騒ぎ立てはじめた。
そんな中アカムはさっきまで上空から感じた巨大な力が雷光が貫いたのと同時に消失したことに気付いて唖然としていた。
「なあ、アイシス。さっきの……仮に相手にしたとして倒せたか?」
「いえ……不可能でしょう」
「そうか……だよな……」
未だ視線を空へと向けたまま呟くアカムの問いにアイシスも少し呆然としながらも否定する。
それを聞いてやはりと納得しつつも空を見上げて固まっているとふと小さく声が聞こえた気がした。
――――まだ早いな
「っ!?」
「どうしました?」
「いや……わからん。今誰かが俺に話しかけてきたような気がしたんだが……」
「私には何も……いえ周囲の人が騒いでいる声以外は特に聞こえませんでしたが……」
「うーむ。まあ、いやな感じはしなかったし気のせい……か?」
耳に届いたその声にアカムはハッとしながら辺りを見渡すが特に不審な人物がいるということは無い。
突然周囲を確認し始めたアカムにアイシスが怪訝な目を向けるが、アカムは首を傾げながら返事して眉を顰めていた。
結局、気のせいだったのだと無理やり納得させるようにして首を振り、ギルドへと歩き始めた。
その背中を黒髪の青年が笑みを浮かべて見ていたことにアカムもアイシスも終ぞ気づかなかった。
「隠さなくてもいい! またお前なんだろう?」
「だから違うつってんだろうがハゲ!」
所変わって冒険者ギルド。
そこで睨み合っている巨人族の男と人間族……には見えない異形の両腕に異形の翼を持つ男が言い争っていた。
いう間でもなく巨人族の男は冒険者ギルドのギルドマスターであるエルマンドで、人間族の男はアカムであった。
二人が言い争っているのは先ほど異界迷宮都市上空で起きた異常な出来事についてだ。
魔石を換金するためギルドに顔を出したアカムをなぜかエルマンドが待ち構えていて、先の異常もアカムがやったのだと言いがかりをつけてきたのである。
当然身に覚えのないことを言われてアカムは若干イラッとしながらも努めて平静を装ってそれを否定したのだが、それをエルマンドは少しも聞き入れず言い争いになったのだった。
「これで言うのは最後だ……俺じゃねえ。その時は俺も迷宮から出た直後だったし、なんだかんだ俺は目立つからな……ちょっと人に聞けばその時の俺の様子もすぐに分かるだろうから勝手に調べろ糞ハゲ!」
「ぐう……そこまで言うのなら本当に違うのか……なら一体何だったんださっきのは……」
「はあー……ったくここ最近はやたらギルドマスターになれとうるさいかと思えば疑ってきやがって……そこまで非常識じゃねえぞ俺は」
「「「……」」」
ようやく自身の言葉を信じてもらえたことで深くため息をしながら発した言葉にギルド内にいた他の冒険者やギルド職員たちが一様に視線をアカムから逸らし壁であったり床であったりへと視線を移して沈黙する。
どうやらそういうことらしいとアカムは悟りゆっくりとエルマンドに向き直る。
「おう、ハゲ」
「お前いい加減その呼び方は」
「おい、ハゲ」
「っ……ど、どうした?」
「俺じゃねえってことくれぐれも……くれぐれも! 誤解の無いように周知徹底してくれよな?」
「お、おう。今回の騒動にお前は無関係……神に誓ってそれを周知することを約束する」
「頼むぞ……ほんとにな」
驚くほど低い声がアカムの口から漏れたが、ハゲと呼ばれたエルマンドは一度それに苦言を返そうとするが膨大な魔力を放出させて威圧してくるアカムにその言葉を飲んだ。
それからアカムの告げたお願いを快く受け入れると放出されていた魔力が嘘のように収まり、エルマンドは尋常ではない圧迫感から解放されたことに心底安心し、額に浮き出た冷や汗を拭った。
その後アカムは換金を終えてさっさとギルドから出ていった。
アカムが出ていくまでギルド内は静まり返り、他にいた冒険者たちも下手に動くこともできず戦々恐々としながらアカムが換金を終えて出ていくのを待っていて、ようやく出ていったアカムに誰からともなく安心したようなため息が零れた。
「まあ……今回のは実際あいつは関係ないんだろう。……でもいつかあいつが原因で今日と同じようなことがあっても俺は驚かねえな」
アカムがギルドから出て行って少しした後に呟いたエルマンドの言葉は不思議とギルド内全体に届き、誰もが同意するように頷いていた。
「プフ……フフフ……プハハハハハ!」
「お前まで笑うことないだろうに……」
「ふー……っ! いや、ごめんなさいね……っ! はーっ……よし、もう大丈夫ね。ったく大笑いさせて少しお腹痛くなっちゃったじゃないの」
「俺のせいか!?」
「冗談よ」
その後、イルミアの待つ家に帰ってきたアカムはギルドでの出来事に対する愚痴を零したのが、返ってきた反応は大笑いであった。
ここでもかとアカムは項垂れる。
もしこれが、エルマンドやギルドの連中に同じような反応をされたらおそらくキレていたが、イルミアに笑われる分にはキレるわけでもなく少ししょんぼりとするだけだ。
なぜなら怒るよりも先に楽しそうに笑うイルミアに見惚れてしまうから。
なんだかんだとアカムはイルミアにベタ惚れであった。
「ま、でもさっきのは私も感じたけどほんとすごい威圧感だったわよねえ」
「まあな。もしあの力の持ち主と相対しても絶対勝てないと思ったし」
「そんなすごい相手が多分雷かしらね……轟音がしたかと思えばあっさり消えてしまったのだから驚いたわ」
「で、てっきりそれが俺の仕業かと思ってたと」
「もう、悪かったわよ。でもあんたならって皆思っちゃう程度に常識から外れてるのは自覚しなさいよ」
それから改めて先ほどの異変を振り返って話していると最後にイルミアにそんなことを言われてしまう。
ギルドでの反応からも、よほど常識外れに思われているらしいことにはアカムも察していて痛いところを突かれたとばかりに顔を顰めて頭を掻く。
「それで、今日はどこまで?」
「ん、ああ、今日は八十階層の守護者前まで行ったところで帰ってきた」
「そう、じゃあ明日は守護者戦?」
「いや……さっきの異変が気がかりだし明日はのんびり家にいるよ」
イルミアは苦笑しながらも話題を変えるため迷宮のことについて聞けば、アカムもそれに乗っかってすぐに答える。
すでに守護者前まで来ている事実がまた常識外れなのだとイルミアは内心思うがそれを表に出すことなく、明日は守護者に挑むのかと尋ねた。
当然、そのとおりだという答えが返ってくるとばかり思っていたイルミアだが返ってきた答えに少し驚いた様子を見せ、すぐに苦笑する。
「そんなに心配しなくてもいいのに。私は大丈夫よ」
「俺が大丈夫じゃない。これでも不安で仕方ないんだ」
「そうなの?」
「ああ、そうだ。だから明日は傍にいさせてくれ」
その返答の意味を察したイルミアが大丈夫だと言えば、アカムは至って真面目な様子で言葉を返す。
再度確認するが答えは変わらない。
アカムの視線はいつになく真剣で、そんな視線を向けられたイルミアも少し嬉しそうに柔らかな笑みを浮かべてアカムの頬に手を当てた。
「じゃあ、お言葉に甘えて明日は私の傍にいて……ずっと」
「お安い御用だ」
イルミアがそう呟けば、アカムは芝居がかった様子で軽く笑いながらも真剣に答えた。
その後自然と二人の距離は物理的に縮まっていき、やがては互いの唇が触れあった。
そんな二人を普通に傍で見ていたアイシスは呆れたように頭に手を当てて首を振り、見て見ぬふりをするのだった。