赤頭巾の留守番 その一
基本的に、ソニアは我儘を言わない。生来の気質なのか万事において控えめで、過剰とも思えるほど他人に気を遣う。
そんな歳のわりに落ち着いた少女だが、その日だけは様子が違った。
「……やだ、やだやだっ!」
ソニアは憤るように首を振ながら、クロードの脚にしがみつく。
クロードは、自分の脚にしがみついて離れないソニアに困惑しきりといった顔を向けた。
「ちょっと落ち着け」
駄々を捏ねるソニアを見て、内心溜め息を吐く。
小さい子どもが駄々を捏ねるのはある意味当然のことだが、クロードは本来の年齢よりも幼く見えるソニアがあまりそう言った言動を取らないことを知っていた。実際、一緒に暮らし始めてからこんな風にソニアが駄々を捏ねたことはない。
たった一度だけ泣いたことがあったが、そのときのソニアは寝惚けていたようなので、本人はそのことを覚えていないだろう。
「……っ、やだぁ」
クロードが宥めようと背中を叩いたものの、ソニアは感情が高ぶったのかとうとう泣き出してしまう。一度泣き出すと止まらないようで、家中にソニアの泣き声が響いた。
ポンポンとソニアの背を優しく叩きながら、クロードは思わず天を仰ぐ。
「……困った」
そして、心底困ったように“どうしてこうなった”と呟いた。
◇◇◇
朝、ソニアが目覚めるとクロードが何やら旅支度をしていた。
クロードは普段から早起きで、ソニアが起きる頃にはいつも二人分の朝食が用意されている。その日も例に漏れることなく、ほかほかと湯気を立て美味しそうな匂いを漂わせる料理が机の上に置かれていた。
「おおかみさん」
ただ一つ、いつもと違うこと。
「ごはん、たべないの?」
食卓にはクロードの分の朝食がなかった。
ソニアは不思議そうな顔で、クロードと机の上の料理を見比べる。
「ん? ……ああ、飯ならもう食った。今日から仕事に行くからな」
「……おしごと? いつかえってくるの?」
ソニアと暮らし出してからも、クロードが出掛けることはあった。外出といっても時間は短く、朝から出掛けて昼前に帰って来ることが多い。
また、街に出るときは必ずソニアを誘うが、両親のことがあるせいか、彼女がクロードと一緒に街へ行ったことはない。クロードも森を出たら両親が迎えに来なくなると頑ななまでに信じているソニアを無理には連れ出そうとしなかった。
今回もいつもと同じように、出掛けてもすぐに帰って来てくれるのだろうと思ったソニアは、クロードを見つめながら尋ねた。……いつもと同じように“昼前には帰る”と答えてくれることを期待して。
「明後日……は無理だな、その次くらいか。三日後には帰って来る」
それを聞いて、ソニアは固まる。
そんなソニアの様子には気づかず、クロードは言葉を続けた。
「マルセルに頼んでシュテファンを置いて行くようにするから、いい子で留守番してろよ。それと――」
以降も留守中のことについて話すクロードに、ソニアは呟くような声でぽつりと問いかける。
「……かえって、こないの?」
なぜか落ち込んでいるように見えるソニアに気づき、クロードは訝しく思いつつも頷いた。
「? ……ああ、しばらくな。まあ、大した依頼じゃねえし、すぐに帰って来れると思うが」
クロードは冒険者ギルドに所属する剣士だ。しかも、Sランクの。
二日や三日帰れないことなどザラにあるし、長く掛かる場合は半年ということもあった。クロードは長期の仕事を嫌っているため滅多に受けないが、ひとによっては数年単位の依頼も存在する。
そんなクロードとまだ幼いソニアでは、時間の感覚もだいぶ違うだろう。問題は、それをクロードの方が認識していなかったことか。
「…………やだ」
「……ん?」
「おしごと、いっちゃやだぁ!」
今にも泣き出しそうに歪んだソニアの顔を見て、クロードは自分の失敗を悟った。
◇◇◇
今朝の一連の出来事を思い返していたクロードは、意を決して自分の脚からソニアを引き剝がした。
「…………っ、うぁ」
そのクロードの行動に、拒絶されたと思ったソニアは瞳に大粒の涙を浮かべる。顔を歪めると、ぽたぽたと雫が頬を伝って床へ落ちた。
ひっく、と肩を震わせてしゃくりあげる。
「ソニア」
クロードはしゃがんでソニアに目線を合わせた。まだ泣いたままのソニアにどうしたら良いか分からず、伸ばした手が宙を彷徨う。
「俺は仕事があるんだ。しばらく留守番しててくれ」
“頼む”とソニアの頭に手を置いた。
「…………っ」
ソニアは無言で嫌々と首を振る。俯けた顔から、また涙がこぼれ落ちた。
ギュッと握り締めていた手を開き、クロードの服の裾を掴む。
「……いかないで」
消え入るような声。
「…………おおかみさんは、そにあのこと、おいていかないで」
クロードは、その言葉に胸を突かれたような気がした。
ただ一人になりたくないだけだと思っていたが、もっと根の深い話だったらしい。両親に森に置き去りにされたことは、幼い心に大きな……消えない傷を作ったのだろう。
「仕事をしないってわけにはいかない」
ソニアは顔を俯けたままだ。その表情はうかがえない。
苦々しい声音で告げたクロードの眉間の皺が深くなった。その様子は、不機嫌そうというより葛藤しているように見える。
「……っ、やぁ」
小さく声を上げたソニアに、クロードの方が折れた。
「はぁ、分かった。今回の仕事は見送る。――俺はどこにも行かない」
「………………」
付け足された言葉を聞いて、ソニアはパッと顔を上げる。新緑の瞳は窺うようにクロードを見つめていた。ソニアの手は、まだクロードの服の裾を掴んだままだ。
「ずっとってわけにはいかないが……もうしばらくは仕事を休む」
「……ほんとっ?」
泣き濡れたソニアの目がパァと輝く。問いかける声は弾んでいた。
クロードの方へ身を乗り出すように動いた拍子に、服の裾を掴んでいた手が外れる。
「ただし、次に俺が仕事に行こうとしたときに泣いたら承知しねぇぞ」
ようやく泣き止んだソニアの明るい顔に、クロードは心の中で安堵の息を吐いた。
“これだけは言っておこう”と口を開いたものの、念を押すような口調もどこか柔らかい。ソニアを見つめる眼は優しく、精悍な顔には苦笑が浮んでいる。
「うん!」
笑顔で頷くソニアに、知らずクロードの頬が緩んだ。ふっと微笑する。
しかし、仕事に同行するはずだった相棒の存在を思い出し、またすぐに顔を顰めた。
「マルセルにどう言ったもんか……」
「まるせるさん?」
「ああ。アイツ、迎えに来るって言ってたからな……断るのは面倒臭そうだ」
「……いっちゃうの?」
「ああ? いや、こ……」
バンッと大きな音がする。
“断るつもりだから安心しろ”と言い掛けたクロードを遮るように、扉が開かれた。音の正体は乱暴に開けられた扉のようだ。
黒いとんがり帽子をかぶった青年がいつものように家主の許可なく勝手に家に入ってきた。青年――マルセルは迷惑そうな顔をしている相棒に向かって声を張り上げる。
「クロード! 約束通り、迎えに来てやったぞー。さあ、お仕事へ行こう!!」
やはりクロードは仕事に行ってしまうのだと思い、ソニアはまた泣きそうな顔になった。
◇◇◇
「あれ? もしかして、タイミング悪かった?」
「………………」
「……おおかみさんっ、いっちゃやだぁ」
「………………」
「あちゃー。えっと……ごめん?」
「………………」
――――クロードは、相棒といつ縁を切ろうか本気で悩んだ。