赤頭巾と狼の墓参り その一
前話の続き。
パチリと目が覚める。窓から射し込む陽光が少し眩しいが、おかげで寝起きでぼんやりとした頭にも朝が来たことが伝わった。
「良かったぁ……」
安堵の息を吐いて、ソニアは無事に朝を迎えられたことを心から喜ぶ。
別に何かの組織に狙われているとか、魔王に攫われる予定があるとかそういうわけではないが、大げさに喜んでしまうくらいに昨夜は怖かったのだ。
何がって――オバケが。
魔法学校の古井戸(どこにあるのかは不明)から出てくる長い髪の女幽霊に、人食いの噂がある三代目学校長(なぜ三代目なのかは不明)の肖像画……昨日聞いた学校に伝わる怪談をすべて思い出してしまう前に、ソニアは思考を振り払うため大きく頭を振った。これ以上思い出してはいけない。こんな清々しい朝をオバケの想像で台無しにしたくなかった。
あれ、そういえばわたし……いつ部屋に帰ったんだっけ?
たしか昨夜は怖い夢を見て半泣きで厨房に駆け込んだはず。そこにはロラとエクトルがいて慰めてもらった覚えがある。
怪談の話をしたらロラもすっかり怖がってしまって申し訳ない気持ちになったのだが、ソニア以上に怖がっていてちょっとだけ気が楽になったのは内緒だ。ちなみに、エクトルは笑いを堪えようとしたのか真面目な顔をしようとして失敗していた。ちょっとムカッとした。
思い返してみれば、ロラに作ってもらったホットミルクを飲んでからの記憶がない。
おそらくそのまま寝てしまったのだろう。部屋まで運んでくれたのはエクトルだろうか。面倒をかけてしまったようだし、怖がるソニアとロラの横で笑いを噛み殺していたのは忘れよう。ちょっとムカッとしたけど。
しかし、こうして朝を迎えると……冷静になってみれば昨夜のことはかなり恥ずかしい。
ソニアももう十歳だ。オバケが怖くて眠れないなんてまるで幼い子どもみたいだし、いくら怖い夢を見たとはいえ昨夜のことはあまりに子どもっぽい振る舞いだったと反省する。同年代の友人たちはもちろん、クロードにも知られたくない。……知られたら穴を掘って埋まりたいくらい恥ずかしいに違いない。
よし、もうオバケは怖がらない! 怖くない怖くない怖くない……怖くない、はず。
そんな誓いを胸に寝台をから足を下ろす。
とりあえず、ロラとエクトルに昨夜のことは黙っていてもらえるよう頼まなくては。
――邸の大人たちの生温かい優しさにより、眠るソニアを部屋に運んだのがクロードであることは本人に知らされることはなかった。
◇◇◇
夜更かししたのではないかというナタリーの疑いの眼を潜り抜け、こっそりロラとエクトルに昨日のことを黙っていてくれるようお願いした。ロラは困った顔をしていたが、エクトルは快く頷いてくれたのでソニアはひとまず安心する。
「おはよう、おおかみさん」
「ああ。おはよう、ソニア」
朝食の席に着いて、ソニアより先に来ていたクロードに挨拶する。笑顔を向けると相手も少しだけ笑ってくれるのが嬉しい。それだけで今日もいい一日になる気がした。
今日は、学校は休みだ。
クロードも仕事は休みのはずだが、彼は仕事の日でも休みの日でも同じ時間に起きる。いつもより出勤が早い日や何日も騎士団に泊り込んだ後は別だが、それ以外はできるだけ同じ時間に起きて同じ時間に朝食を摂るようにしていた。
それはきっとソニアに合わせるためなのだろう。忙しく生活時間も異なるクロードとほぼ毎日顔を合わせられるのは彼がそうしてくれているからだ。ソニアが思っていても口にしないようにしている我儘をなぜかクロードだけは知っていて、それがどんなに面倒で大変なことでも何でもないような顔で叶えてくれる。それが嬉しくて……少しだけくすぐったい。
きっと、クロードはソニアを甘やかす天才なのだ。
クロードはソニアに甘えるのが下手だと言うけれど、クロードが思う以上にソニアは彼にずっとずっと甘えてしまっている。甘えるばかりでは駄目だとわかっていても、今しばらくは彼の庇護下でこのままでいたい。クロードからもらったものを、そしてそれ以上を返せるようになるまでは優しい揺り籠のようなこの場所でまどろんでいたいと贅沢にも思ってしまう。
しあわせはつづかない。
ソニアはクロードと出会ってからずっと幸福の中にいる。
でも、その幸福が続けば続くほど不安が募る。不安で不安で仕方なくて、いっそのこと幸福から逃げ出してしまいたくなる。そう考えてしまうのはクロードのせいではなく、彼女のせい。
しあわせはつづかないよ。しってるでしょ?
囁くのは昔の自分。両親に殴られた傷をさらし、色褪せた赤い頭巾をかぶってみすぼらしい格好をした過去の“わたし”。みじめで哀れな……ソニアが大嫌いな自分自身。
ソニア以外は誰も知らない心の奥深くにいる彼女をソニアはロザリーと呼んでいる。
親友ロザリー・フィリドールと同じ名前だが、このロザリーの名は記号のようなもので親友が持つ祝福された名前とは天と地ほども違う。親友のように愛と希望に満ちて生まれた、他人に誇れる名前じゃない。
父と決別し誰からも呼ばれなくなった名前を惜しむ気持ちが自分にあることをソニアは自覚していた。“ソニア”であることを選んだのは自分なのに、呼ばれない名を想うたびに複雑な思いが増えていく。
何度あのときに戻ってもソニアは同じ選択をするだろう。悩んで迷って、それでも最後にはクロードの手を取る。きっとクロードがそうさせてくれる。
そう思うのに、ソニアは過去を切り捨てられない。“捨てるか迷うなら持っとけ”――そんな言葉に甘えている。後ろめたく思いながら、あのとき捨てられなかった赤い頭巾を取り出して眺めることを止められない。大切じゃないと言うことは簡単で、でも、大切じゃなかったと今も大切じゃないと思うことは難しい。
ロザリーはソニアが捨て切れなかったものだ。父が好きで、母を愛していて、言うことを聞いてうるさくしないでいい子にしていれば愛してもらえると信じていた頃の残骸。かつて大切だった――今は邪魔なもの。
ロザリーはソニアの幸せを邪魔する存在だ。そうとわかっているのに捨てられないのは、たとえ大嫌いな自分自身でも切り捨てることができないソニアの愚かさか、幸福を許されないことにどこか安心する気持ちがあるからか。
かわいそうなそにあ。
可哀相なロザリー。
あなたがあいせないのに、だれがあなたをあいするの?
愛なんてわからないくせに、愛を語るなんて。
ロザリーとの会話はいつも互いを痛めつけて終わる。呼び名が違ってもどちらもソニアだから、相手が何を言えば一番傷つくかはよくわかっていた。
自分の手で傷つけたじくじくと痛む心を押し隠して、ソニアは微笑む。
「ティモテさんのごはん、今日も美味しいね」
「そうだな。……ピーマン残すなよ?」
「むぅ、もう食べられるようになったもん」
「はいはい」
「本当だもん!」
「はいはいはい」
幸せを感じるたびにソニアはソニアを傷つける。それがこの幸せを続ける方法だと信じていた。間違っているのかもしれない。優しいクロードに話したら叱られてしまうかもしれない。それでも、ソニアはこの方法を選んだ。幸福に慣れきってしまったら、失うときが怖くなるから。
たぶんソニアは幸せが怖いのだ。いつか失うものだと思っているから、そのいつかが来る前に逃げ出したいと思ってしまう。でも、クロードが迎えに来てくれたときに、両親ではなくクロードを選んだときに、もう逃げないと――怖いほどの幸せからも、失う不安からも、与えられる優しさからも逃げないと心に決めた。だから、逃げられないように傷をつける。傷ついている間は幸せに浸っていられるから、自分で自分の心を斬りつける。
そうすれば、一番大切なものを失わない。愚かなまでにそう信じていた。
「しかし、よく食うな」
「ティモテさんのごはん大好きだから!」
「そりゃ良かった」
不安におびえる顔を隠して、いつでも笑っていられるように。
クロードの傍でクロードの望むソニアでいられるように。
捨てられたくないから、捨てられないように努力する。ソニアの本質は両親といた頃と何も変わらないのだろう。
「あ、おおかみさんも大好き!」
「メシと同列にされるのは……なんか微妙だな」
愛を知らないソニアの“大好き”なんて薄っぺらな言葉だ。でも、それ以外に大切だと伝える方法を知らない。ソニアは器用じゃないから、クロードみたいに態度で大切だと伝えられない。
クロードはソニアの両親とは違う。そう思っているのに、そう信じているのに、どうして捨てられるかもしれないなんて考えてしまうのだろう。
大切だと伝えていないと、今ある繋がりが消えてしまうような気がする。そんなはずはないのに、そう考えてしまうのはソニアがクロードを大切に想う理由はあってもクロードがソニアを大切に想う理由がないからだ。
家族になればよかったのかな。
血の繋がりはなくても、家族という確たる繋がりがあればこんなに不安にならなかったのだろうか。
いや、家族だからといって互いを大切に想う理由にはならないとソニアは誰よりもわかっている。家族になってクロードを父や兄と呼んだとしても不安になっただろう。
あのとき家族という選択肢を選ばなかったのは単なる不安からだったが、家族になることを望んで、家族なんてものでクロードを縛らなくて良かったと今の十歳のソニアなら思える。
“まだ若いのに子持ちにするのは可哀想だ”と言っていたのはセルジュだったか。本当にその通りで、偶然拾った子どもに与えるには過ぎたものだ。責任感の強いクロードに今以上の責任を負わせるようなことをしなくてよかったと、それだけは自分を褒められる。
本来なら、偶然拾っただけの子どもに責任なんか感じなくていいのに。
ソニアはクロードといて幸せだが、クロードにとってソニアといることは不幸ではないのか。
そんな考えが頭をよぎると、隙を突くように不安が現れて逃げろ逃げろと脅かしてくる。失うかもしれない幸福から先に逃げてしまえ、と。
もう逃げないって、迷わないって決めたのに。
迷わないと決めたのに時間が経つとすぐに迷う。そんな自分の弱さがソニアは何より嫌だった。
――あなたがあいせないのに、だれがあなたをあいするの?
その通りだね、ロザリー。
ソニアが自身を愛せないのに、誰がソニアを愛するのか。自分が大切に思わないものを、誰が大切に思ってくれるのだろう。
我ながら的を射すぎている。だからソニアは幸せを失うのだろう――今じゃない、いつか。その日が遠ければいいと今はただ願うばかり。




