赤頭巾と狼の休日 その二
お気に入りの一冊を抱き締めて本の匂いを胸いっぱいに吸い込むと自分がまるで書斎の一部になったような気分になる。
頻繁に、とまではいかないまでも仕事熱心な使用人たちによって清潔に保たれた室内はどこか埃っぽい。不思議とソニアはそれが嫌ではなかった。
壁一面の本棚に並べられた本はほとんどがクロードのものだ。
といっても、もともと持っていたものはごくわずかで、大半は騎士団長から贈られたものらしい。こんなに小難しげな本を読んでおかないと務まらないなんて、騎士という仕事はソニアが思うよりずっと大変なのだろう。男の子たちが憧れるのもわかる気がする。
初めて見たときに“本屋さんみたい”と驚いて言ったソニアにここは書斎と呼ぶのだとクロードが教えてくれた。本を読んだり書き物をしたりする部屋らしいが、ソニアからするとまるで小さな図書館だ。自室にも本棚はあるし本を読むことはできるが、何となくここで読書をするのが好きで、ソニアはよく書斎に入り浸っている。
ここの静かな時間の流れが好きだ。
時間の流れなんてどこにいたって同じはずなのに、ここにいるときは何かが違う気がする。
何かの拍子にクロードにそう言ったらいつからか書斎に椅子が増えた。大人が座るにしては少し小さな椅子は誰に言われるともなくソニアの指定席になっている。
また、以前は部屋から本を持ち寄っていたが、クロードの許可を得て棚の隅に置かせてもらうようになり、クロードの書斎はソニアの読書部屋も兼ねるようになった。
居心地のいい部屋だ。もしかすると自室よりも。
だが、クロードがいないときはなぜか足を向ける気にならない。独りで過ごすには広すぎるからだろうか。
クロードの定位置は長椅子で、ソニアはその向かいにいつもちょこんと座っている。
何か書き物をするとき以外はクロードは机に向かわない。ソニアが入り浸るようになるまでは違ったが、ソニアの椅子が用意されたのと同じくらいにクロードの長椅子が活躍し始めた。どこに保管していたのかは知らないが、もともとは森の家で使っていたものだ。懐かしい。長椅子に寝転がって本を読んでいるクロードを見ていると昔に戻った気さえする。
ソニアとクロードのどちらかがページをめくる音と、時計の針が進む音。
せっかくの二人揃っての休日なのに書斎で本を読んでいるだけというのはもったいないのかもしれない。
話したいことはたくさんある。友達のこと、授業のこと、邸であった面白い出来事……ソニアが話しかけたらクロードは嫌な顔をせず応えてくれるだろう。
二人黙って本を読んでいるより、楽しくおしゃべりでもする方が休日の過ごし方としては有意義なのかもしれない。
けれどソニアは、この心地良い時間を壊したくなかった。おしゃべりな口を開いてこの贅沢なひとときを失うのはあまりにもったいない。
「――ふわぁ」
つい、欠伸が漏れてしまった。
時計を見ると昼を過ぎた――ちょうど眠くなる時間だ。今日は早起きしたせいか、いつもより眠気が強い。
読んでいた冒険小説に視線を落とす。幸いなことに、今読んでいるところまでなら区切りがいい。栞を挟んでパタンと本を閉じた。
ちょっとだけ。少し、眠るだけ。
誰にともなく心の中でそう言って、ソニアはそっと目を閉じた。
◇◇◇
目を覚ましたとき、クロードは近くにいなかった。
慌てて時間を確認する。もう夕方だ。思ったより長く眠っていたらしい。
「おおかみさん、どこに行ったんだろう?」
そう独りごちて椅子から立ち上がると、その拍子に毛布が床に落ちた。ソニアに覚えはないから、クロードが掛けてくれたのだろう。気遣いが嬉しくて思わず顔が緩む。
ソニアが居眠りしていたら、クロードでなくても……ロラやナタリーだって毛布を掛けるくらいしてくれるだろう。この邸のひとたちはみんな優しいから。でも、きっと、他の誰かが親切にしてくれたってクロードにされる以上に嬉しくは思わない。
ソニアの一番はもう決まっている。
家族じゃないけど、家族みたいなひと。何より一番大切で、誰とも比べられないくらい特別なひと。優しくしてくれるひとはたくさんいるけれど、ソニアに幸せをくれるのはクロードだけだ。
クロードからしか、いらない。
そんなことを思いながら、ソニアは落としてしまった毛布を椅子に置いて書斎を出た。
扉の前できょろきょろと辺りを見回すが、クロードの姿はない。まだ廊下にいるかもしれないという予想は裏切られてしまった。
窓から差し込む夕陽が眩しい。
ソニアが寝入ってしまってからだいぶ時間が経っている。もう自室に戻ったのだろうか。
お腹空いたなあ……。
もうすぐ夕食時だ。いつもならティモテが厨房で腕を揮っているはずの時間。ソニアの腹の虫が空腹を訴えるのも当然と言えた。
今日は料理人がいない。彼が休みのときに代わりに食事を用意してくれるナタリーも。
「――あっ」
それに気づいたソニアは小さく声を上げた。
クロードの部屋に向かいかけていた足を止め、踵を返す。そして、少しだけ早足になりながら厨房に向かった。
案の定、クロードは厨房にいた。
夕食を作ってくれているらしい。もっと早くに気づいてソニアが一人で食事の用意をしていたらクロードに喜んでもらえたかもしれないのに、と残念に思う。
……とはいっても、ソニアは一人で調理することを禁じられているのだけれど。
子どもだけで刃物や火を扱うのは危ないと思われているようだが、ソニアももう十歳だし同年代で家事を任されている知り合いがいることを考えると、クロードは過保護な方なのだろう。
そろそろ許可がほしいところだが、まだ森にいた頃に包丁でざっくり指を切ってしまったことがあったので自分からはなかなか言い出しにくい。心配してくれているのだとわかる分、なおさら。あの頃に比べるとソニアもだいぶ成長しているのだが、クロードから見れば小さな子どものままなのだろう。それが嬉しくもあるし、口惜しくもある。
「たまには外で食う方が良かったか?」
不意に声がかかる。
顔を上げると、さっきまでまな板の方に向けられていたクロードの視線がこちらを向いていた。
「ううん。おおかみさんの手料理の方がいいな」
冗談めかして言うと、クロードがくつくつと喉奥で笑う。
「なんだか懐かしい気がする」
クロードの作る料理も、包丁を持ってまな板に向かう姿も、なんだかひどく懐かしい。クロード自身もそう思ったのか、ソニアの言葉に深く頷いた。
“最近じゃ剣は持っても包丁は持たないからな”なんて台詞に今度はソニアが笑ってしまう。思わず、騎士団の制服で包丁を振るうクロードの姿を想像してしまった。誰が着ても三割増しで格好良く見えると評判の制服もそれでは台無しだ。
「ソニア、ちょっと手伝ってくれるか?」
「……え?」
自分の想像に笑っていたせいで少しだけ反応が遅れた。
「飯作るの手伝ってくれ。お前も腹減ってるだろ?」
「――うん」
クロードは手伝いを必要としていない。ソニアが手伝いたいと思っていることをわかっているから言ってくれているのだ。
そうと知っていても、クロードから“手伝ってほしい”と言ってもらえるのは嬉しかった。頼られているような気がする。少しは役に立てているような気がする。そう思うと、頬が緩むのを抑え切れなかった。
「料理、結構好きだよな。ティモテと菓子作ったりもしてるみたいだし」
ソニアの表情をどう解釈したのか、クロードがそう言った。
確かに、料理は好きだ。作るのも食べるのも。
でも、それだけじゃない。
「楽しいし、美味しいから。ティモテさんほど美味しくは作れないけど」
「まあ、あいつは本職だからな」
「でも、一緒に作ってるのにクッキーの味が違うのはおかしい」
「……違う、か?」
あまり味にこだわりのないクロードは首を捻っている。彼は最悪、食べられれば何でもいいと思っている人間だ。そのわりに料理の腕はいいが。
家事全般が得意なんて、なんだか狡いと思う。
「俺はソニアの作る菓子の方が美味いと思うぞ。……すげえ甘いけど」
この一言が欲しいがために休日はお菓子作りに勤しんでいると言っても過言ではない。食べてほしいから作るのだ。“美味しい”と言ってもらえることが嬉しくて、もっと美味しく作れるようになりたいと思う。ソニアの料理好きなんてその程度だ。
料理が上手くなったらクロードの役に立てるかもしれない。
ソニアがクロードを必要とするのと同じくらい、必要としてくれるかもしれない。
純粋に料理を楽しいと好きだと思うのとは別に、そんな気持ちが心の中のどこかにあって。未だ、捨てられることを恐れる臆病な自分にソニアはなんとなく気づいていた。
「ありがとう。でも、もっと頑張らないと。おおかみさんに美味しいお菓子を作って食べてほしいから」
「………………」
「……? おおかみさん?」
「……あ、ああ。頑張れよ。楽しみにしてる…………お菓子、な」
そんな話をしている間に料理が出来上がった。
メインは煮込み料理だ。クロードの得意料理……というより、比較的簡単で適当に作ってもそこそこ食べられる物ができるから作りやすいらしい。クロードは料理が得意な方だが、レパートリーはそう多くない。食にそこまで興味がないからだろう。
「あれ? お皿、食堂に運ばないの?」
厨房は食事を作るところ。食堂は料理を食べるところ。
これはナタリーの言葉だが、ソニアもクロードも食事を摂るときはいつも食堂だ。ティモテが作ってくれた料理をロラが食堂まで運んで、みんなで夕食を食べる。それがこの邸では当たり前の光景だった。
「ああ。わざわざ運ぶのも面倒だ」
料理を乗せた皿が運ぶのを躊躇われるほど重いわけもなし、食堂は厨房に隣接しているからたいした距離でもない。クロードが面倒臭がりだと言っても、そこまで手間のかかることではないと思うのだが。
「モルガンとナタリーには内緒な」
厨房で食べたと知れたら行儀にうるさい二人に叱られるだろうと、クロードは人差し指を唇に当てニヤリと笑う。まるで悪戯に誘われているみたいだ。それもひどく他愛のない、悪戯に。
その誘いに頷く代わりにソニアは笑ってクロードの仕草を真似た。きっとクロードにつられるように、今のソニアの顔にはニヤリとした悪そうな笑みが浮かんでいることだろう。
森にいた頃みたい。
厨房の広さのせいか、調理した場所でそのまま食べるせいか、それともクロードと二人きりだからか。
懐かしい、と本日何度目かになる言葉を心の中でひっそりと呟いた。
「今日の恵みに感謝を」
「今日の恵みに感謝を」
祈りの声を聞くのはお互いだけ。
二人きりの夕食はいつもより質素なのに――どこか幸せな味がした。
クロードは甘い物が苦手だということをソニアはいつ知るんだろうか。




