赤頭巾と狼の休日 その一
第三章後の話です。何気に本編では初の後日譚。
本編に登場していないキャラが出てくるので簡単な人物紹介を書いておきます。把握していなくても読む分には問題ないと思いますが、念のため。
《 クロード邸の使用人たち 》
・モルガン:フェリクスの紹介で雇うことになった執事。五十歳くらい。
・ナタリー:侍女で、モルガンとは夫婦。子どもはクロードより年上。
・ロラ:まだ年若い侍女。クロードの冒険者時代の知人の妹で、ソニアより五歳年上。
・ティモテ:料理人の男性。以前は王都の食堂で働いていた。
・エクトル:元冒険者で邸の警備兼力仕事担当。ソニアの送迎も行う。
※使用人のうち数名は『“おおかみさん”と迷いの森』の“完結記念小話②”に登場します。
ソニアとクロードが王都に引っ越してから早二年。
森では二人でいることが当たり前の静かな生活を送っていたソニアだが、王都の邸では五人の使用人たちを交えて賑やかな毎日を送っている。使用人たちはみんな優しく邸での生活に不便はない。学校生活も順調だ。
それなのに、時折ソニアはどうしようもなく寂しさを覚える。
ここでの暮らしに満足しているはずなのに、ふとした瞬間にあの暗い森を懐かしく思うのだ。
クロードがいて、使用人たちがいて、たまにマルセルやシュテファンが訪ねてきてくれて。多くはないけれど学校には仲の良い友達がいて、休みの日はロザリーと街に行ったりお互いの家で遊んだりして。
ソニアは幸せだ。クロードが幸せをくれた。
今も十分に幸せなのに、それ以上を望んではきっと罰が当たるだろう。
そうやって我儘を封じ込めて、ソニアは毎朝邸を出て行くクロードの背を見送る。
騎士になったクロードが忙しいことくらい、ソニアにだってわかっているのだ。“わかっている”と自分に言い聞かせるように心の中でそう呟いて、今日もソニアは良い子の振りをして笑う。
おおかみさんがいないと寂しい。おおかみさんともっと一緒にいたい。お休みの日くらい傍にいてほしい。
「寂しくないよ、みんながいるもん」
本音は隠したまま、そんな言葉でソニアは心配してくれる優しい使用人たちに嘘を吐いた。みんながいてくれるだけじゃ不満だなんて自分も贅沢になったものだと思いながら。
◇◇◇
使用人が五人というのは、邸の規模に対して多いとは言えないらしい。
執事のモルガンが苦笑混じりに教えてくれたそれを思い出し、ソニアはくすりと笑った。
そのあとにはいつもこう続くのだ。“もし私たち使用人が過労で倒れたら、お嬢様から旦那様に使用人を増やすよう言ってくださいね”と。ロラやエクトルがその場にいれば“ついでに給料も”なんて言ってさらに笑わせてくれる。
人見知りの激しいソニアでもずっと顔を会わせていると打ち解けるのも早い。以前は使用人という存在に慣れず、邸の人々を困らせたものだが、今のソニアにその面影はなかった。……人見知りなのは相変わらずだが。
「え!? ロラ、明日からしばらく邸にいないの?」
「はい。ちょっと実家の方に呼ばれてまして……里帰りすることになったんです。突然のことですみません」
「そっか……寂しくなるね」
「いや、戻ってきますからね!? ここを辞めるわけじゃありませんから!」
道中に何もなければ三日後に戻ってくるらしい。邸の主であるクロードからはもう少し長く休みを取ってもいいと言われているようだが、あまり実家に長居したくないとのことだった。家族と上手くいっていないわけではないが、色々と口煩く言われるのが嫌なのだとか。ロラらしい理由だ。
「お嬢様にもお土産買ってきますから、楽しみにしててくださいね」
ソニアがロラとそんな会話をしたのは二日前のことだった。
ロラに続き料理人のティモテまで休みを取ると聞いたのは、その翌日。つまり昨日のことだ。
「すみません、お嬢様。明日は学校も休みなのに」
学校が休みの日はティモテにお菓子作りを教えてもらうのがここ最近の習慣になっている。彼が申し訳なさそうにしているのはそれでだろう。
「大丈夫、気にしないで、ティモテさん」
「しかし……」
「実は前からわたし一人でもお菓子を作れるかやってみたかったの」
「それ、僕が旦那様に怒られる気がするので止めてください……」
クロードに怒られるのを想像してか身を震わせるティモテに笑い、冗談だと口にする。
「その代わり、お休みの前にたくさんお菓子を作っておいてね?」
こうして、食べきれないくらいのお菓子が食堂の隅に置かれることになった。
日持ちしそうなお菓子ばかりだが、古くなっては作ってくれたティモテに悪い。ソニアはそう思ってエクトルに救援を頼もうとしたが……。
「エクトルさんもお休みなの!?」
「まあ、聞いていなかったのですか? エクトルったら……お嬢様には伝えておきなさいって言っておいたのに、まったくもう」
邸にエクトルの姿が見えずナタリーに尋ねると、彼女はぷりぷりと怒ってそう言った。
エクトルは邸の力仕事を担当してくれている使用人だ。一応、彼は庭師として雇われているのだが、クロードは庭に興味がないので彼の主な仕事はソニアが学校に行くときの送迎や食材の買い出しなどである。元冒険者という経歴をまったく活かせていないが、本人はわりと楽しく働いているようだった。
「じゃあ、お庭のお世話はどうするの?」
邸の庭にはソニアが侍女二人と植えた季節の花の花壇とティモテの家庭菜園がある。
水やりくらいはソニアもしているが、扱いの難しいものはエクトル任せだ。家庭菜園も、それを依頼したのはティモテだが世話をしているのはエクトルなので、彼も他の二人の使用人もいないとなると花や野菜たちが心配になってくる。ソニアが代わりにやりたいところだが、子ども一人では手が回りそうにない。
「夫が請け負ってくれるそうです。今日は人が少ないので、私たち二人で何とかしないと」
それを聞いたソニアはなんだか嫌な予感がした。
そして、残念なことにその予感は的中してしまう。
「………………」
「まったく、情けない」
「………………」
「任せておけと言っておきながらこれだなんて。いつまでも若い頃のままだと思っていたら大間違いですよ、あなた」
「面目ない。しかしナタリー、お前の夫をそう責めないでくれ」
休みの日の朝、といってもソニアが通う魔法学校が休みなだけでクロードは普通に仕事だ。騎士団に行くクロードの見送りを済ませたソニアは部屋に戻る途中でナタリーとモルガンを見かけ、こっそり二人の様子を窺った。
何やら話しかけにくい雰囲気だが、夫婦喧嘩というわけではなさそうだ。ナタリーは呆れた顔をしていて、珍しくモルガンが叱られている。何があったのだろうか。
「こんな忙しい日に腰を痛めるなんて」
「そうは言っても庭の世話を放り出すわけにいかないだろう。……仕方なかったんだ」
「いきなり重い物を持つからですよ。水の量を減らせば良かったでしょうに」
どうやら水やりをしていて腰を痛めてしまったらしい。そういえば、以前モルガンは腰痛持ちだと聞いた気がする。
「モルガンさん、大丈夫?」
モルガンの容態が気になったソニアは二人の前に出ていって尋ねた。
「お嬢様……お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですよ」
「立てないくせに何が大丈夫ですか」
モルガンは表情を緩めて答えたが、ナタリーにぴしゃりと言われて再び肩を落とす。
優秀な執事のモルガンも奥さんには弱いらしい。他の使用人がいるときはもっとキリッとしているのだが。
「しかし、困りましたね。夫はこんな状態ですし、これでは仕事が片付きません」
ソニアと使用人のヘルプコールを受けた邸の主が帰ってくるのはこの数時間後のことだった。
◇◇◇
邸に戻ったクロードはナタリーから事情を聞くと、少ない人手で無理をさせてしまったことを謝り、連れてきていた部下に付き添いを頼んでモルガンたちを家に帰した。
ロラやエクトルは邸の客室を使っているが、モルガンとナタリーは王都に住まいを持っている。家には息子がいるし夫の面倒は妻がみるとのことなので、帰した後の心配はしなくてもよさそうだ。
指示を出し終わってテキパキと邸の仕事を片付け始めたクロードを手伝いながら、ソニアは気になっていたことを尋ねる。
「おおかみさん、お仕事抜けてきて大丈夫?」
今日は――というか今日も――クロードは騎士団に仕事に行っていたはずだ。騎士団長の推薦で騎士になった彼はかなり忙しいらしく、入団から二年が過ぎた現在も休みなんてほとんどないと言っていた。今日も元々は非番のはずで、早朝に呼び出しが掛からなければ久しぶりの休日だったのだが、まだ日も高いうちに抜けてきて良かったのだろうか。
ソニアだけではどうすればいいかわからなかったし、クロードが帰ってきてくれて嬉しいが、人使いが荒い上司――クロード談――に怒られはしないかと不安になった。
「ああ、気にするな。元々、今日は非番だったしな。問題さえ片付けちまえば俺の手はいらないはずだ」
クロードは騎士団の仕事についてあまり詳しい話はしない。ソニアがクロードの仕事について知っているのは、彼が騎士団第十三隊隊長だということと横暴な上司がいること、馬鹿でどうしようもない部下がいることくらいだ。口では良いように言わないが、クロードが騎士という仕事を決して嫌ってはいないことをソニアは知っている。
以前、ロラがクロードがあまり仕事の話をしないことについて“きっと国家機密ってやつですね!”と目を輝かせて話していた。彼女が想像しているような壮大な物語は存在しないと思うが、職業柄他人に話してはいけないことも多いのだろう。ソニアはクロードになら何でも言ってしまうので騎士にはなれないなとふと思った。
「あー……ソニア」
「?」
ソニアがぼけっとしていると、クロードが少し気まずそうに目を逸らしながら声をかけてくる。なんだろうと首を傾げ、次の言葉を待った。
「――ただいま」
その短い言葉に何かが込み上げてくる。寂しかったとか仕事になんて行かないでとか、そんな言葉が口を突いて出そうになって、ソニアは慌てて出かかった感情を飲み込んだ。
「……言うのが遅い」
ソニアが頬を膨らませると彼の眉間に一本皺が増える。不機嫌そうな顔に見えるけれど、ソニアの言葉に不機嫌になったわけではない。拗ねたソニアに困っているのだと、そうとわかる程度にクロードを知っている。
「いや、色々あってバタバタしてたし、タイミングを逃すと言いにくいっつーか……」
“あー”とか“うー”とか唸りながら答えるクロードがソニアを怒ることはあまりない。さっきのは自分でもちょっと生意気だったかなと思ったくらいなのに。
クロードは穏やかな人柄ではないし、マルセルに言わせれば怒りっぽい部類に入るらしい。ロザリーに何か言われたときは言い返さないものの苛立っているようだし、マルセルだけでなく騎士団の部下や使用人たち相手だと怒っている姿も見かける。でも、ソニアがどれだけ我儘を言ってもクロードが怒ったことはない。危険なことをしたときは別だが、それはソニアを案じてくれているからだ。
不機嫌そうにしているときでもクロードはソニアを罵ったり蹴ったり殴ったりすることはない。クロードやマルセルが特別優しいわけではなく、それが当たり前だと知ったのは森を出てからだが、今もソニアはクロードは優しい人だと思っている。他の人にとってどうだかなんてわからないが、ソニアとっては誰より優しい。自分が特別なのかと思うと少しくすぐったいような気持ちになるのが不思議だ。
「おかえりなさい、おおかみさん」
森から王都に移って変わったことは多いけれど、きっとこのやり取りだけは何一つ変わっていない。これから先も変わることはないだろう。
不思議な話だ。疑り深いソニアが“これから”を信じているなんて。
「おかえりなさい」
噛み締めるようにもう一度そう言って、ソニアはクロードの腰に抱きついた。体勢を崩さず受け止めたくせにいきなり抱きついてきたら危ないと渋面で注意するクロードを笑って誤魔化すと、軽い溜め息が降りてくる。
頭を撫でてくれる手に目を瞑って、ソニアは押し殺していた寂しさを埋めるようにしばらくの間そうしていた。
昔は、背を向けられるのが怖かった。
置いていかれるのが怖かった。
捨てられるのが怖かった。
一人で待つ時間は耐えがたいほどで、でも誰かといても誰も信じていないから、常に不安に押し潰されそうだった。とっくに諦めているのに期待して、信じたいのに疑って。そんなことの繰り返し。
信じて裏切られるのは辛い。拾ってくれた優しい人もいつかは己を捨てるのだと、彼の優しさを本当に信じることはしないのに、自分の彼を疑う気持ちは信じていた。
でも、今は違う。
クロードが“ただいま”を言って、ソニアが“おかえり”と言えるなら、帰りを待つのも悪くはない。そう思えるのは、帰ってきてくれると信じているからだろう。ソニアを置いていったりしないと。
今のクロードは騎士で冒険者とは違う。何日も帰ってこないというわけではないのに“信じている”なんて大げさかもしれない。でも、昔のソニアならきっと信じられなかった。毎日出ていくクロードの背を疑念とともに見送って、いつ来るとも知れない閉じられた扉が開かなくなる日に脅えていたはずだ。
クロードがいるから、クロードだから信じられる。今日の幸せを疑わずに明日も幸せだと信じられる。
どれだけの“ありがとう”でも伝えられないこの想いをいつか返せたらいいのに。
そう思いながら、ソニアはクロードがいるいつもより幸せな一日を楽しむために彼の顔を見上げて笑いかけた。
この様子だと“仕事ばかりで寂しい”と我儘を言ってしまう日も近いかもしれない。




