赤頭巾と狼そのさん―幸せを一緒に
手続きがあるとどこかへ行ってしまっていたクロードもすでに部屋に戻っており、帰りの支度をしている。手持無沙汰なソニアはそわそわしながらそれを見ていた。
「すぐ終わるからもうちょっと待ってろ」
苦笑しつつそう声をかけてくれたクロードに頷きを返し、ぴしっと姿勢を正して待つ。
だが、ソニアはすぐに再びそわそわし始める。ベッドに腰をかけ、足をぶらぶらと動かした。
じっと見つめるとクロードは動作を中断して“何だ”と訊いてくれるので、あまりじっと見ないようにしている。それでも、気になるのでちょっと見てしまうのだが。
ちらちらとクロードをうかがうソニアだけでなく、テキパキと帰る準備をしているクロードも決して後ろに視線をやらないがソニアを意識していることがわかって、マルセルはくすりと笑みを漏らした。
ソニアはそれに気づいて不思議に思う。なんで笑われたのかわからない。
「ねえ、二人はすぐに森に帰るの?」
マルセルは二人と言いつつもクロードに視線を向けている。それを追うようにソニアもクロードの方へと顔を向けた。
「ああ、そのつもりだ。何か用でもあったか?」
「いや、王都観光とかしないのかなって。ソニアちゃん、ずっと森の中にいたでしょ? 泊まりは無理でもちょっとくらい王都の空気を楽しんだらいいんじゃないかと思ってさ」
「まあ、王都は街とも違うしな。子どもなら楽しめる……か?」
そう言いつつクロードは首を捻る。彼自身は王都を楽しい場所だと思っていない様子だ。
そんなクロードに少し笑って、マルセルは“普通は楽しいんじゃない? 都会だしね”と答えた。それに、そういうものかと頷くクロード。
二人の目が向けられたのを感じ、ソニアが顔を上げると黒い瞳と視線がぶつかった。
「俺はソニアがしたいなら別にいいが……ソニア、王都を見て回りたいか?」
「……ううん」
ちょっと悩んで、やっぱり断る。
「あれ、いいの? クロードがいい物買ってくれるかもしれないよ?」
「うん、いいの」
だって、いい物ならもうたくさんもらった。
ソニアは他を望まないし、ソニアにとって今持っている以上のものはない。
それに、帰りたい場所があるから。
ここに留まるより帰りたい。クロードと互いに“ただいま”と“おかえり”を言い合って、あの家の空気を胸いっぱいに吸い込みたい。
そして、あのとき言った言葉を……“さようなら”を取り消したい。
「はやくかえりたいから――おおかみさんと、わたしのおうちに」
けれど結局は、この一言に尽きるのだ。
「っ、そうだな。さっさと帰るか。俺たちの家に」
「うん!」
一瞬だけ右手で顔を隠したクロードはそう言って、ソニアの頭をぐしゃぐしゃに撫でる。いつもより少し乱暴なその動作は照れ隠しだとソニアは気づかなかったが、クロードの照れた顔を見たマルセルはニヤニヤと笑ってその様子を眺めた。
……あったかい。
胸の中がじんわりと温まっていくような感覚。
幸せだと思う。怖いくらいに幸せ。ソニアにとって幸せは終わってしまうものだけど、終わらせないようにすると心に決めるくらいに、今このときが幸福だった。そして、明日は今日よりもっと幸せだと確信している。
「あれ、そういえば」
ふいにマルセルがソニアを見た。
じっと見つめられたソニアは小首を傾げる。
「ソニアちゃん、自分のこと“わたし”って言うようになったの?」
マルセルの問いに“そういやそうだな”とクロードはあまり関心がなさそうだ。彼の場合はソニアに関心がないのではなく、細かいことを気にしない性質なだけだろう。
「ずっといわないとなくなっちゃうから」
宝物は呼び続けていないとすぐに消えてしまう。
「いわないと、そに……わたしのなまえわからなくなっちゃうから」
もう一つの理由は、確認のため。
自らずっと呼び続けていないと名前を忘れてしまうのではないかと恐れていた。忘れるのは、自分もクロードもマルセルもみんな。忘れられて、名前だけではなく存在まで失ってしまうような気がしていた。
本気でそう思っていたのだ、今までは。
「ふうん……じゃあ、もう確認しなくていいんだ?」
マルセルから向けられる笑みは柔らかい。
だからソニアも笑顔で答えた。
「うん、だってわたしのなまえはそにあだから」
今なら、ロザリーにだって胸を張って名乗れる。
その日初めて、赤頭巾の少女は本当の意味で“ソニア”になった。
◇◇◇
ついでに実家に顔を出して帰るというマルセルと別れ、二人は王都を出た。
暗い森の中を明るい気持ちで歩く。ソニアが森に入るのは二度目だ。不思議なほど怖いと思わない。それはきっと手を繋いでくれる人が隣にいるから。
互いにあまり口数の多い方ではないのに、随分と長く離れていた気がして話は絶えなかった。
「忘れてた」
ふいにクロードが言う。
「これ、お前の親父から取り返してきたぞ」
クロードの手には古びたライター。
ソニアにとって忘れられない品だ。
セルジュとの話を終え、ソニアと名乗ることを決めたと告げた後にクロードから訊かれた。
――父親に会いたいか?
会いたくないと言えば嘘になる。けれど、ソニアの心はとっくに期待することを止めていて、また傷つけれらることを恐れていた。だから、“会いたいなら一緒に連れていってやる”と言ってくれたクロードの申し出を断った。
父親は自分のことをお荷物だと思っているから、迷惑だと言われたから……そんな言葉はただのごまかしで。
――もうあわない。
それは確かな決別の言葉。
ソニアはそのとき、自分を売った父親を捨てたのだ。誰に強制されたのでもなく自分の意思で、いらないものだと切り捨てた。
選び取ったものと両立させる道もあったのかもしれない。クロードと一緒に暮らして、たまに父親に会いに行くような。けれど、ソニアはその道を選ばなかった。
そのことを後悔しない日はないだろう。生きているかぎりずっと後悔し続けるとわかっていた。でも、それでいい。それはきっとこの幸せの代償だから。
――そうか。あいつに何か伝えたい言葉はあるか?
クロードにそう聞かれて、伝言はないがライターを取り返してほしいと話した。
そのときにライターに関する話――あの“おじいさん”の話をするかどうか迷ったけれど、クロードには隠したくないと思ったから話した。“悪い子”だと繋いだ手を離されてしまう……そんな心配は杞憂で、クロードはわかったとだけ答えた。
今、クロードの手に件のライターがあることから察するに彼は一人でソニアの父親のもとへ行ってくれたのだろう。
「ありがとう」
ソニアはクロードに礼を言ってからライターを受け取り、大切にそれを胸の前で抱える。
わたしは、わるいこだ。
これがある限りソニアはそれを忘れない。でも、このライターを父親に渡したままにしておくのは違うと思う。何が違うのかなんて訊かれてもわからないけれど、これはソニアが持っていなくてはいけない物だ。……見る度に込み上げてくる罪悪感と一緒に抱えていかなければいけないもの。
これに付随する記憶はもう色褪せていて、謝る相手もいないけれど、あの日にソニアが感じた思いは忘れちゃいけない。
だから、幸せになることを許してほしい。
目を瞑れば、己を責め立てる老人。彼の眼はいつでもソニアを責めている。何度も繰り返した“ごめんなさい”に、決して忘れないという誓いと幸福への願いを添えた。許さないと言われることが悲しい。……それも結局はソニアの想像でしかないのだけれど。
「そのじいさん、俺が探してやるよ」
そんなことを考えていたからだろうか。クロードの言葉に反応が遅れる。
「え?」
「そのライターの持ち主なら俺が探してやる。返しに行きたいんだろ?」
自分では思いつきもしなかったことを言われ、ソニアはこぼれ落ちんばかりに目を見開いた。
探す? そんなことができるなんて、思いもしなかった。
でもきっと、クロードが言うからにはできるのだ。ソニアが望めば、もう記憶の中でしか謝れないと思っていた老人に会うことができる。
「……めいわくじゃ、ないかな?」
ぽつりと呟いた声は二人の間を駆け抜けた風に掻き消されそうなほど小さい。
でも、クロードには届いたらしい。
「さあな。だが――もしそいつが怒ってたら、一緒に謝ってやる」
「っ、ありがとう、おおかみさん」
胸がいっぱいで、咄嗟には言葉が出なかった。
嬉しいのに涙が出そうになる。泣きたくなるくらいに嬉しかったから、頑張って笑顔でお礼を言った。
「で、お前はどうしたいんだ?」
ソニアの望みを訊いてくれるこのひとが、好きだ。
「かえしにいきたい。おじいさんに、ごめんなさいっていいたい」
だから、“いい子”になりたい。
このひとのために、もっと好きになれる自分になりたい。
「良い子だ」
頭を撫でてくれる手が、ソニアを“悪い子”だとニタニタと笑う父親の顔を払ってくれる気がした。
◇◇◇
「そ……わたし」
「また、だな」
「…………むぅ」
「別に無理に“わたし”っていう必要はないだろ」
「むりじゃないもん!」
「はいはい」
「そにあ、それくらいできるもん! ……あっ」
「はい、五回……いや、六回目か?」
「かぞえちゃだめ!」
――――“いい子だ”と笑って頭を撫でてくれる手があるから、ソニアはもう“悪い子”じゃない。
《 クロード視点 》
帰宅から二日が経ち、クロードとソニアは関所の転移魔法陣を使って王都まで来ていた。
もちろん、王都観光のためではない。少女との約束を果たすため――ロザリーに会うためである。
「遅い! 三日も経ってからとか信じられない!」
王都でも有名な大商家の娘だったロザリーを訪ね、一応事前に先触れも出してから門をくぐったクロードにかけられた一言は無情なものだった。約束から三日も経っていることがかなり不満なようだ。ソニアを心配する気持ちの裏返しかもしれない。
目の前の幼い少女――ロザリーは仁王立ちでこちらを睨んでいる。
「ろざりー!」
友人に会えて嬉しそうなのはソニアだけで、開口一番に文句を言われたクロードは不機嫌顔だ。いつもより眉間の皺が深い。
「ソニア! 大丈夫なの? 怪我とかしてないでしょうね?」
気に食わない男を睨むことに飽きたのか、ロザリーはソニアに駆け寄った。
“うん、だいじょうぶ。しんぱいしてくれてありがとう”と微笑むソニアに“ふん、心配なんかしてないわ!”と答えている様子からするに、彼女はだいぶ意地っ張りな性格のようだ。クロードは、心配していないなら何なんだと言いたいのを堪えた。これを言うのはあまりに大人げない。
「ちょっと!」
「…………」
「ちょっと、そこのおじさん!!」
どうやら、クロードに声をかけていたらしい。
「なんだ? 約束なら守っただろうが」
「うっ、それは、まあ……ありがと」
「それならさっさとソニアに魔石を返してやれ」
「っ、じょうちょのない人ね! これだから男は!」
クロードの言葉に、ロザリーはムッとしたように言った。
何となく、彼女自身の言葉というより彼女の周りの大人の言葉を真似ているだけな気がする。このませた子どもの相手をするのは周りも大変だろうと周囲に目を向けると、屋敷の使用人たちがハラハラした顔でこちらを見ていた。ロザリーの態度にクロードが怒るのではないかと心配しているらしい。
「友達なんだから、会っただけですぐに帰ることないでしょ」
“そんなこともわからないの?”と溜め息を吐かれた。
「とも、だち? ……わたしとろざりー、ともだち?」
「そうよ。何よ、違うとでも言う気?」
強気に言い放つロザリーの瞳が一瞬だけ不安に揺れる。
ソニアはそれには気づかなかったようで、嬉しそうに顔を綻ばせた。友達だと言われたことが嬉しいらしい。
友情を確かめ合う少女二人の姿は微笑ましいが、そんなソニアにクロードから言うことがあるとしたら一つだ。友達は選べよ、と。
「ろざりー、だいすき!」
「う、まあ、私も……友達なんだから、あれよ。す……嫌いじゃないわ」
よほど嬉しかったのか、ソニアがロザリーに抱きつく。
ソニアに友人ができたことは喜ばしいのだが、勝ち誇った顔をこちらに向けるロザリーは小憎らしい。最近、出会った子どもには敵愾心を持たれてばかりだなとクロードはふと思った。
「もうっ、気が利かないわね。私たちは女同士の話があるの! あなたは席を外して!」
ロザリーの態度に僅かに苛立ちを募らせながらも、心配顔の使用人たちの手前、気にしていないという風に振舞う。
「おおかみさん!」
「気にするな、ソニア。また後で迎えにくる。それまでそいつと一緒にいろ……遊びたいんだろ?」
「っ、うん! ありがとう!!」
こうして、クロードは応接室から追い出された。
部屋を出ると、駆け寄ってきた男性にいきなり頭を下げられた。彼はロザリーの父親らしい。
娘の態度を謝罪しに……ではなく、クロードが娘の救出に関わったと知ってわざわざ礼を言いに来たようだ。それなりに忙しい身だろうに。それだけ娘を愛しているということか。
「本当に……感謝の念に堪えません」
「いえ、これが仕事ですから。そこまで言われるほどのことでは」
王族だろうが貴族だろうがどうでもいい相手にはおざなりに接するのだが、ソニアの友人の親だ。もし不快にさせてしまったら、ソニアの友人関係に影響するかもしれない。
そう思い、心もち丁寧な対応を心がけた。
……ん? 誰だ?
こちらに近づいてくる一つの気配に気づく。
クロードがそちらに顔を向けると、ロザリーの父親もそれに倣った。
「ケヴィン」
「お義父さん」
「ロザリーを助けてくれた英雄を私にも紹介してくれるかな?」
「はい。……お話の途中にすみません、クロードさん。彼はジョゼフ。私の妻の父でロザリーの祖父に当たります。お義父さん、こちらの方は有名なSランクの冒険者、黒狼のクロードさんです」
「クロードさん、孫を助けてくださってありがとうございました。しがない商家ですが、どうぞ当家でお子さんとゆっくり過ごしてください」
「お義父さん……ロザリーの友達はクロードさんの子どもじゃないよ」
「おや、そうなのかい? これは失礼しました」
ロザリーの祖父だというご老体はなかなかに茶目っ気のある人物だった。
「……いえ」
しばらく歓談した後、ジョゼフはソニアにも一目会って礼を言いたいと言い、部屋の扉を叩く。彼が名乗るとほどなくして扉は開いた。……クロードの場合、ロザリーに文句を言われた挙句に締め出されるであろうことは想像に難くない。
「お祖父様、なあに?」
ひょっこりと顔を出したロザリーに続いて、ソニアも顔を出す。
ジョゼフが孫に答える前に、ソニアの双眸が驚きに見開かれた。呆然と口を開く。
「っ、お、じいさん……?」
ソニアの反応にクロードはもしや知り合いかと眉を顰めた。
だが、知り合いにしてはあまりに繋がりがない。年齢はもちろん、ジョゼフは王都に住んでいるのだろうからソニアとは生活圏も異なるはずだ。
訝しく思うクロードをよそに、ジョゼフの方もソニアに見覚えがあったようでわずかに瞠目している。
「君は……あのときのお嬢ちゃんだね?」
「……あっ」
こくりと頷いたソニアは何かに気づいたようにハッとし、慌ててポケットからライターを取り出した。どうやら肌身離さず持っていたようだ。
その古びたライターを見て、やっとクロードにもわかった。きっとジョゼフが例の“おじいさん”なのだろう。
「そうか、お嬢ちゃんが持っていてくれたんだね」
ソニアからライターを受け取り、懐かしそうにライターを見る目から怒りは感じられない。ソニアに向けた笑みも柔らかかった。
しかし、ソニアは自分のことで必死でそれには気づいていない様子だ。硬い表情が泣く寸前のようにも見えて、思わず伸ばしかけた手をぐっと握り込む。
これは、ソニアの問題だ。クロードが手や口を出すべきじゃない。幸いにも、被害者は怒っていないようだし、ここは静観していても大丈夫だろう。
「っ、ごめんなさい!」
「…………」
「おとうさんがっ、おじいさんのことなぐって……そに、わたしがこえかけちゃったから、おじいさんが……っ、らいたーも、おじいさんのだいじなものなのにかってにとって…………っ!!」
言い募るソニアの説明はひどくわかりにくいものだった。
けれど、ジョゼフにはそれで十分だったようで。
「何のことだい? 私はお嬢ちゃんにライターを預けていただけだよ。――ずっと預っていてくれてありがとう」
そう言って、彼はソニアに笑いかけた。
「……っ」
それでも“ごめんなさい”と何度も謝るソニアを見ながらクロードは思う。
ソニアはライターの持ち主が自分を責める夢を見ると言っていた。だから、きっと老人は怒っていると、許してくれないだろうと言っていた。
良かったな、ソニア。お前はもう“悪い子”なんかじゃない。
きっと、ソニアが“おじいさん”に責められる夢を見ることはもうない。




