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“おおかみさん”と一緒  作者: 雨柚
第三章 “おおかみさん”と森の外
40/58

赤頭巾と狼そのに―それでも一緒にいたい

 セルジュによって部屋から追い出されたクロードは扉の前で深く溜め息を吐いた。

 もう腹は括ったというのに何だかそわそわする。人見知りなソニアがあの腹黒に脅えているのではないかと気が気ではない。セルジュは人当たりが良く第一印象から悪感情を抱かれるタイプでないことはクロードも知っていたが、心配なものは心配だった。


 だから、こちらに声をかけるかどうかで躊躇っているような男に構っている暇はクロードにはない。……いや、今の彼はソニアとセルジュの話が終わるのを待っているだけなのだが。


「何の用だ、アベル」


 仕方なく、こちらから声をかけた。

 少し離れたところで所在なさげに立っていたアベルがハッとした顔をする。そして、何か覚悟を決めたような表情で一歩踏み出した。


 何だってんだ、一体。


 クロードが声をかけることを躊躇うほどの顔でもしていたというのか。違うだろう。昨日までならともかく、今はそんな物騒な雰囲気は醸し出していなかったはずだ。


「クロード、私は……」


 歯切れの悪いアベルに、彼の用が何なのかピンときた。


「謝るな」

「っ」


 謝らせてももらえないのかとアベルが絶望した顔をする。

 素直に感情を表に出す目の前の男に、クロードは内心呆れた。一つとはいえこれで自分より年上だというのだから信じがたい。その素直さは恵まれているからなのだろうと思うと同時に、胸の奥がチリリと焼けて底に焦げ付く。それが嫉妬だと認めることを厭う程度にはクロードの自尊心は高かった。


「お前から俺への謝罪はもう受け取った」


 許さない、なんて言うつもりはない。

 もとより彼に対しての怒りなどあってないようなものだから。


「それに、お前が謝るべきなのは俺じゃねえ」


 “だから、謝るな”と琥珀色の瞳をひたと見据える。

 謝ることくらい許してやると、自分が何よりも大事にしている少女に会うことくらいは許してやると言わないのは、それだけアベルが気に食わないから。

 善意の塊みたいな彼がクロードは苦手だ。


「話が終わるまでまだ時間がかかる。ここに陣取られちゃ迷惑だ」

「ああ、すまない」


 どこかに行けと言外に告げると、アベルは殊勝な顔で頷いた。

 じっと自分を見つめてくる眼差しがどこまでも鬱陶しい。だから、親切心なんかじゃなかった。ただ、面倒臭い男を早く追い払いたかっただけ。


「時間があるときに呼んでやる。……あいつに会いたいなら、そのときにしろ」

「っ、恩に着る!」


 続けられた“変わったな”という言葉に眉を顰めた。

 そんなこと、とうに自覚している。


「お前に言われるまでもない。無駄口叩いてないでさっさと行け」


 クロードを変えたのはソニア。

 だから、変わっていく自分を受け入れている。

 他人に影響されるなんて嫌いなのに、相手がソニアじゃ文句も言えない。


「やっぱり、変わったな、クロード」


 微笑ましいとでも言いたげに優しげに細められた目が苛立たしい。

 年上ぶるなと言ってしまえばあまりに自分が情けないことがわかっていたので、クロードは黙ってアベルの尻を蹴飛ばした。

 油断していたのかもろに食らって、すっ転びそうになるアベルに溜飲を下げる。


「お前は考えなしの馬鹿でどうしようもないが、見知らぬ子ども(ガキ)の心配した気持ちくらいは汲んでやるよ」


 文句を言いかけた口を封じるようにそう言った。

 ソニアを連れ出したアベルに対して思うところがないわけではないが、悪いのは金のために娘を売った父親(ロベール)だ。八つ当たりはともかく、クロードにアベルを責める気はなかった。


「っ、クロード、私を許すというのか……?」

「許すも許さないもねえよ」


 つまり、それが答え。

 少しホッとしたようなアベルに、それを物陰で見てやはり安堵した空気を発している野次馬(ギルドメンバー)に、思わず苦笑が浮かんだ。


 好かれてるようなあ、こいつ。


 トラブルメーカーなのに放っておけない。彼らが物陰からこちらの様子を窺っている理由はこれに尽きるのだろう。その気持ちはわかるなんて口が裂けても言うつもりはないが、彼が好かれる理由がわからないわけではなかった。

 実家(きぞく)仕込みなのか馬鹿丁寧な礼をして背を向けるアベルが、以前ほど苦手ではなくなっていることに気づく。

 それでも、苦手なものは苦手で。


「次来るときは土産でも持って来い。ソニアが喜ぶ」


 去っていく背中にそう声をかけてしまったのは、やはりクロードが変わったからだろう。



   ◇◇◇



 アベルが去った後に近づいてきた四つの気配に、クロードは頭を抱えたくなった。


 王子が教会の中を出歩いてんじゃねえよ……!


 王都にある国内最大規模の教会とはいえ、王子が少ない従者で歩き回れるほど万全な警備体制ではないはずだ。大聖堂や司教室ならまだしも、ここは教会に暮らす者の住居スペースで昼間の出入りは自由になっている。身元のわからない子どもやすぐには迎えが来ない子どもを教会が預かることになったせいで朝方まで冒険者や騎士が走り回っていたため、現在は一般の出入りは禁じられているが、それでも無防備にすぎるというもの。

 とくに、第五王子は攫われたばかりだということを自覚しているのだろうか。


「やあ、クロード。おはよう、いい朝だね」


 フェリクスは片手を挙げ、朝っぱらからキラキラしい笑顔を向けてきた。

 彼の数歩後ろで控える従者のレオナールは口を開くことなく、会釈のみで済ませる。


「黒狼のクロード! お前に話がある!!」

「殿下、さすがに失礼です」


 第五王子の従者は溜め息を吐きつつ、挨拶もなくクロードに指を突き付けて宣言した第五王子を窘めた。

 二人の王子を前に、クロードは主がこれだと苦労するだろうなと従者二人に同情を寄せる。そして、もうすぐ彼ら――王侯貴族と今まで以上に関わらなければならない我が身を思って気分が落ち込んだ。

 ソニアを助けるためにフェリクスの条件を呑んだことに悔いはない。だが、貴族連中との付き合いはできることなら遠慮したいものだ。王族含め。


「……っと、すみません。うちのボンクラが。おはようございます、クロードさん」


 丁寧になりすぎない程度に頭を下げて挨拶してくる第五王子の従者には好感が持てる。


「すまないね、クロード。ディオンも君に話があるみたいだから連れて来てしまったよ。後で聞いてあげてくれ」

「断る。俺はそんなに暇じゃない」

「セルジュとあの子の話が終わるまでは時間があるんだろう? 上司とその弟に少しくらい付き合ってくれても良いんじゃないか?」

「まだ上司じゃないだろ」

「まだ、ね。いやあ、楽しみだな。クロードの騎士服は僕が特注してあげるよ」

「いらん」

「黒狼だし、色は黒にしようか」

「知るか」


 うんざりといった態で答えていると、傍でそのやり取りを見ていた第五王子が(まなじり)を吊り上げた。

 他人の目があるのにフェリクスに対していつもと同じ態度で接してしまったことを悔やむ。第五王子は自分への非礼には寛容でも、兄王子への非礼は許せないタイプだったようだ。今さら気づいても後の祭りかもしれないが。


「黒狼のクロード! 僕にならばまだしも兄上に対してその無礼な口の利き方はなんだ!」


 なんとなく、アベルと似たようなタイプだなと思った。

 なぜかクロードに敵愾心を持っていて、突っかかってくる。アベルや第五王子だけでなく自信過剰な若い冒険者にもこの手の輩はいる。

 つまり、総じて面倒臭い。


「兄上はな、おま……もがっ」

「殿下!」


 さらに何か言いかけた第五王子の口を慌てて従者が塞いだ。


「いやあ、悪いね。ディオンは何だか君をライバル視してるみたいでさ」

「本当にすみません、殿下には俺からよく言っておきますので」


 フェリクスはにこにこと、第五王子の従者は申し訳なさそうな顔で謝る。

 “ジルベール”とフェリクスが小さい方の従者を呼んだ。そういえば、第五王子の従者の名前はジルベールだったかと今さらになって思い出す。

 主の兄から名を呼ばれたジルベールはパッと第五王子から手を離した。その様子はよく躾けられた犬のようだ。キツネ顔なのに。


「ディオン、駄目じゃないか」

「しかし、兄上!」

「クロードの無礼は今に始まったことじゃないよ」

「おい」

「それに、クロードの態度は僕が許しているんだ。お前がとやかく言うことじゃない」

「……っ、ですが!」


 フェリクスの言葉に、第五王子は不満そうな顔をしていた。納得できないらしい。

 それだけ兄を尊敬しているのだろう。クロードからすればフェリクスを尊敬するなんて気が知れないが、フェリクスも弟の前では案外いい兄なのかもしれない。


「はあ、そんなんじゃ好きな子に振られちゃうよ?」


 いきなり飛び出した“好きな子”という言葉。

 それが誰を指すのかわからないほど、クロードは鈍くない。さして色恋沙汰に明るい方でもないが、こんなにわかりやすければ誰でも気づくというもの。


「なっ、あ、兄上……っ!!!」


 第五王子の顔が真っ赤に染まった。

 ちらちらとソニアのいる部屋の扉をうかがう様は、その“好きな子”が誰か語っているようなものだ。


「フェリクス様」

「なんだい、レオナール」


 クロードはレオナールの声を初めて聞いた。その痩身に似合わぬ低い声を意外に思うより、しゃべれたのかと驚く気持ちの方が強い。


「初恋は実らぬと申します。今は黙って見守って差し上げることが肝要かと」


 そんな気遣いはいらない。

 ……と、第五王子が思ったかどうかは知らないが、彼はレオナールの声を掻き消さんばかりに叫んだ。


「兄上!!! 兄上から黒狼のクロードにお話があるんでしたよね! さあ、どうぞ! さあ、さあ、さあ……っ!!」


 あまりに必死なその様子が哀れだと、第五王子が聞けばそれこそ顔を真っ赤にして怒りそうなことをクロードは思った。さすがに口には出さなかったが。


「そういえば、そうだったね」

「用があるなら早くしろ」

「つれないな。……まあ、手間は取らせないから安心してくれ」


 先程までニヤニヤと意地の悪い表情で弟を見ていたフェリクスの顔が引き締まった。


「黒狼のクロード、我が弟を救い出してくれたことに感謝する。フェリクス・ヴァリエ・ロデ・クラルティの名にかけて、そなたが望むときに我が力を貸すことを約しよう」


 その大仰な仕草に、目の前の男が本当に王子なのだと実感する。

 誠実なんて言葉とはかけ離れた性格をしているのに、こんなことをしているのはきっと弟のためだ。彼はファザコンでマザコンでシスコンのうえにブラコンだから。


「ついでだ。気にするな」


 クロードは王族も貴族も好きではないが、この家族思いな第二王子のことは嫌いではなかった。

 家族を守りたい気持ちは理解できるし、過信も慢心もせずに守りたいと思うものを守るその姿勢は尊敬に値する。何も守れなかった男からすれば、どんなときも全力で家族を守ろうとするその姿に憧れすら抱いた。

 フェリクスはクロードこそ理想の騎士だと言うが、それは逆だ。大切なものを守るために必要な強さは、何も剣の腕だけじゃない。


「……はあ、まったく。僕がせっかく真面目に言ってるのに、君は……」

「礼はいらない。むしろ、こっちが礼を言いたいくらいだ」

「君が望むなら、あの約束をなかったことにしたっていいんだよ?」

「約束は違えない。俺にとって、あれはそんなに軽いものじゃないからな」


 用件はそれだけかと尋ねると、“それだけって……結構覚悟して来たんだけどなあ”とフェリクスは溜め息を吐く。

 どうやら彼はクロードがあの条件――ギルドを辞めて騎士になるという言葉を反故にすると考えていたらしい。それもそうか、と思う。何せ何度も何度も何度も断っていたのだ。


「騎士になってもいいと思ったから言ったんだ」


 守れなかった過去を忘れたわけではないけれど、また誰かを守ることをしてもいいかと思った。助けるなんて性分じゃないなんて言い訳はもう捨てて、これからは多くを救えるように、大切なものを守れるように努めよう。

 そう思えるようになったのは一人の少女のおかげだ。魔剣を持つ以上、彼女のためだけに剣を振るうことはできないけれど、守る方法はひとつじゃないからこれでいい。


「変な心配してないで騎士団に俺の椅子でも用意しとけ」

「わかったよ。……そういえば、クロード。ちょうど副団長の席が空いてるんだけど」

「心の底からいらねえ」


 含みのあるフェリクスの視線に、騎士になると言ったことをクロードは少しだけ後悔した。




 兄の話の次は弟の話を聞かねばならないらしい。


「黒狼のクロード!」

「なんだ」

「お前はソニアのなんなんだ?」


 第五王子の問いに多少苛立ったものの、憤るほどではなかった。

 ……次の言葉を聞くまで。


「お前がロリコンでソニアを囲ってるというのは本当なのか……!?」


 フェリクスが噴き出して、レオナールはいつも通りの無表情。ジルベールは焦った顔で第五王子の口を塞ぎにかかる。

 クロードはそんな主思いの従者を片手で制して、第五王子の頭をがしっと掴んだ。彼にしては珍しく、その表情は笑顔である。

 それなのに、兄によく似た蒼い瞳には若干の脅えの色が浮かんだ。


「俺は小児愛者(ペドフィリア)じゃない。あいつを拾ったのはたまたまだ」


 家に閉じ込める気もないし、行きたい場所に行かせてやる。

 クロードにとってのソニアが何かと問われれば、養い子のようなものかもしれないが、それだけでは言い表せない。何の関係でもないけれど大切だと、きっとこのお子様には言ってもわからないだろうから言葉にはしなかった。

 ただ最後に、ソニアに惚れているらしい少年に向けて言ってやる。


「あと、俺より弱いやつにあいつをやる気はない。覚えておけ」


 言った後で後悔した。

 これでは過保護な父親だ。……フェリクス辺りからマルセルやセルジュに伝わって、笑い物にされそうだと内心げんなりする。

 そんなクロードの心のうちなど知らず、第五王子はぐっと拳を握り締めた。掴んでいた頭を解放してやると、顔を上げて睨みつけるように真っ直ぐにクロードを見る。


「僕はまだ弱いかもしれないが、いつか……いつか、絶対にお前を超えてやる!」


 “そっちこそ覚えておけ!”と叫び、従者を連れて走り去っていく第五王子の小さな背中を見て、あれはいったい何をしに来たんだとクロードがフェリクスに尋ねるのも無理ないことだった。



   ◇◇◇



 今日は客が多い。

 だから、クロードが自分を訪ねてきた相棒に“またか”とうんざりしたように言ってしまっても仕方がないと思うのだ。


「ひどすぎる……っ」

「あー、悪かった」


 “悪い悪い”と謝ると、マルセルは泣き真似で返してきた。

 いい加減、イライラしてきたので軽く頭を叩いておく。……泣き真似がひどくなった。


「で、マルセル。お前まで何の用なんだ」

「ってことは、俺の他に誰か来てたの?」

「アベル」

「あー」

「フェリクスと第五王子……と従者二人」

「うわー」

「で、お前」

「ええー。いや、それだと俺がアベル君や殿下方レベルで厄介な相手みたいじゃん」


 マルセルと軽口を叩き合うのは嫌いではないが、生憎と今はそんな気分ではない。……クロードはすでに色々と疲れていた。

 だから、単刀直入にもう一度何の用件かと問う。


「セルジュ殿がソニアちゃんと話してるって聞いたからさ」


 “ちょっと心配になって”とマルセルはぼそりと呟くように付け加えた。

 気まずげにこちらから視線を逸らしていることから察するに、心配なのはソニアではなくクロードなのだろう。


「心配するようなことでもないだろ」

「いや、でもさ……」


 マルセルは口ごもる。

 そして、あーとかうーとか呻いた後、やっとそれを口にした。


「ソニアちゃんがクロードを選ばなかったらどうするの?」


 なんだ、そんなことか。


 マルセルが言い辛そうにしていた理由を察し、少し呆れる。

 クロードに親バカだの過保護だのなんだのと言っているが、マルセル自身も十分過保護で心配性な部類に入るだろう。幼い少女に対して過保護になるクロードよりも、五歳くらいしか年の変わらない男に対して心配性なマルセルの方が重症だ。

 もともと彼は面倒見のいい性格だが、何を心配しているのか、クロードがソニアを拾ってからはさらに世話を焼くようになった気がする。それを鬱陶しく思わなかったと言えば嘘になるが、助かったと思う面も多い。本人には絶対に言わないが。


「ソニアちゃんはクロードに懐いてるし、一緒に暮らしたいって言いそうだけど……親のこととか、色々あるだろうし。まあ、あの親のところに戻るのは危ないから止めた方がいいと思うけどさ」


 確かに、あの父親のもとにソニアを返すのは良くないだろう。

 だが、そんなことは関係ない。あの男が娘を売ったり虐待したりしないように周りが……クロードが気をつければいい話だ。


「ソニアが親と一緒にいたいつーなら、あれの性根を叩き直して一緒にいさせてやる。母親だって探して連れてくる。教会だったら……そうだな、寄付でもするか」


 クロードの言葉に少し驚いてからマルセルは複雑そうな顔をした。


「……それでいいの? ソニアちゃんにもう会えないままで?」


 会わない? 誰が、誰に?

 なぜソニアを親元や孤児院にやるのが今生の別れに繋がるのか、理解しがたい。


「あ? 誰が会わないって言った」

「え?」

「あいつが何を選んでも――どこにいたって、うざったいくらいに会いに行くだけだ」

「…………」

「“一緒にいる”って、そう言うことだろ?」


 マルセルは呆気にとられたようなポカンとした顔でクロードを見ている。

 クロードからすれば、そんな顔をされる方が不思議だ。


 一緒にいる。幸せにする。


 別に約束したわけじゃない。勝手に宣言しただけ。

 けれど、クロードにとって贈った名は誓いでもあった。それは、彼女が別の(なまえ)を選んでも変わらない。

 君に幸あれ――幸福であれと願うだけでなく、幸せにするという誓い。


「なんか……色々吹っ切れたみたいだね、クロード」


 思わず笑ってしまう。あまりにその通りだったからだ。さすが相棒。クロードのことをよくわかっている。


「そうかもな」


 もう守りたいものなんてできないと思っていた。大切なものなんていらないと思っていた。

 あの日から瞼の裏に浮かぶのは血塗れの両親や友人や知人たちで。彼らを思う時に浮かぶのはそればかりで、それ以外の記憶なんてなくなってしまったのだと思っていた。守りたいと思っていたものを守れなかったから、思い出さえも失ったのだと思っていた。

 でも、今は違う。

 目を閉じて過去を思うとき、浮かぶのは笑い合った日々。今までずっと忘れていた。


 もう俺はなくしたくない。


 大切なものがある。守りたいものがある。

 だからこそ、失えない。今度こそ守り抜いてみせる。気持ちだけじゃない。そのための力も覚悟も今の自分にはあるのだから。


「おおかみさん」


 たとえ、ソニアがどんな道を選んでもクロードの選択は決まっている。



   ◇◇◇



「ソニア。もう話は終わったのか?」

「うん……」

「あっ、俺、ちょっと用を思い出したから席外すよ!」

「マルセル?」

「ええと……ごゆっくり!」

「……なんだ、あいつ」



 ――――唯一の道をもう選んでしまっているから。





《 ソニア視点 》


 ソニアは、自分が選ぶということを苦手としていることに最近気がついた。

 選ぶことは選ばなかった方を捨てることだと思う。たとえそれがどんなものでも切り捨てることなんてソニアにはできない。

 でもそれは、昨日までの話。


「それで、ソニア。君はどうしたい? お父さんと暮らすか、クロードと暮らすか……教会の孤児院に入るという選択肢もあるよ」


 目の前のひとが自分を気遣ってくれていることはわかる。

 けれど、どれだけ選択肢を与えられてもソニアの答えはもう決まっているのだ。


「ディオン殿下……君にはテオと名乗ったのかな。彼の遊び相手になってくれるのなら、貴族の養女として引き取られるように手配すると彼のお兄さんが言っていてね。候補に挙がっている貴族の夫妻は私の知己だ。子ども好きないい方達だよ。……君が望めば、優しい両親が手に入る」


 優しい両親。

 それは、かつてのソニアが喉から手が出るほど欲したものだった。


 ……なんでだろう。


 でも、なぜか今はそれほど欲しくない。

 たぶん、ソニアが欲しかったのは優しい両親ではなくて、両親からの愛情で、それは最後まで手に入らなかったけれど、それ以上のものがもうすでにこの手にあると知っているから。

 少し前までなら何も考えずに手を伸ばしたかもしれない。でも、ソニアはもう自分に差し伸べられた手を取っている。たった一つ伸ばされたその手を選んだ。自分へと伸ばされた手が増えても、ソニアが他の手を取ることはない。


 一度離して、また繋いだ手。

 その手の先はソニアにとって何よりも大切なものだから――もう二度と離したくないなんて我儘を胸の奥に抱えている。


「おおかみさんがいいの」


 答えは至ってシンプルで。


「おおかみさんじゃなきゃいやなの」


 口にするのを躊躇ってしまうくらいに我儘。

 でも、ソニアは知っているから。

 ソニアだけではなくクロードも一緒にいたいと思ってくれていることを知っているから、苦手な我儘だって口にできる。


「それは、クロードと一緒に暮らすということでいいのかな?」

「うん」


 ソニアの帰る場所はもうあそこだから、選択肢はそれしかない。

 初めて自分で一つのものを選び取った。それを選べば、他にたくさんのものを捨てることになるのはわかっている。それでも、ソニアにはそれしか選べない。

 だから、きっと何度尋ねられても答えは同じ。


「クロードは近いうちに森を離れるだろう。おそらく王都で暮らすことになる。それでもクロードと一緒がいいかい?」


 ソニアの帰る場所は暗い森にある家でもクロードの家でもない。

 ただ唯一、彼の傍なのだ。


 ――俺はお前と一緒にいたい。


 そう言ってくれた彼に今度はソニアが応える番。

 与えてくれるものが多すぎて、ともにいられる喜びが大きすぎて、何を返せばいいのかわからない。けれど、どれだけかかってもソニアが貰ったものを、それ以上のものをクロードに返したい。

 それまで、たとえ嫌われても――そう考えただけで泣きたくなるけれど――傍にいると決めたのだ。

 もうソニアは逃げない。怖いほどの幸せからも、失う不安からも、与えられる優しさからも。全部全部受け取って、返していくのだ。


「うん、ずっといっしょにいるってきめたの。わたしがおおかみさんをしあわせにする」


 ソニアの言葉にセルジュは少し面食らったように目を見開いて、次いで笑った。


「幸せにする、か。君は健気で真面目だね」


 そして、彼は困ったような顔で言う。


「でも、そこまで気負わなくていいよ。きっと、クロードは君が笑っているだけで幸せなはずだから」


 そんなはずはないとソニアは首を横に振った。

 笑っているだけでひとを幸せにできるわけがない。


「うーん、じゃあ、ソニア。君はクロードが笑うと嬉しいかな?」

「うん」


 滅多に見られないが、クロードの眉間の皺がとれてくしゃりと破顔する様がソニアは好きだった。見る度に胸が温かくなる気がする。


「クロードも同じだよ」


 心の中にいるソニアの一人が即座にそれを否定した。

 でも、そうだったらいいと思う気持ちは止められなくて、顔が綻んでいく。


「ほら、その笑顔を見せてあげなさい。きっと、クロードの笑顔も見られるよ」


 だから、疑いつつもその言葉に頷いた。






 クロードと家族になるかと問われた。

 ソニアの家族は父親と母親だけでクロードは違う。でも、クロードと家族になることができるらしい。クロードが父親でソニアが娘。彼を父親のように思ったことがないソニアにしてみれば変な話だ。


 かぞくじゃない。


 ソニアとクロードは家族じゃない。

 優しい家族に憧れはあるけれど、家族にはなりたくない。

 だって、怖いじゃないか。目に見えない絆なんてもので繋がっていて、無償の愛でお互いを想う……それでもいつかは壊れてしまう。壊れてしまうなら、なくなってしまうなら始めからいらない。

 それに家族なんて名前だけだ。両親はソニアを愛さなかった。だからソニアは両親を捨てた。血の繋がった家族ですら上手くいかないのに、血の繋がらない家族が上手くいくものだろうか。壊してしまうに決まっている。家族になんてなったら、きっと他の誰でもないソニアが壊してしまう。


 だから断った。


「そう。……家族になるのが怖いかい?」


 セルジュはすごい。

 今日初めて会ったのに、いとも簡単にソニアの心がわかるのだから。


「まあ、仕方ないね。無理に勧めることでもないし、まだ若いのに子持ちにするのは可哀想だ」


 “最後に一つ”とセルジュは言い添えた。


「君はなんて名乗りたい? クロードから貰った名前(ソニア)? それとも父親から貰った名前(ロザリー)かな?」


 ――本当は名前なんてどっちでもいいんだ。ソニアでもロザリーでも、お前がお前ならなんだっていい。


 クロードの言葉が脳裏に浮かぶ。

 宝物はたった一つ。どちらを捨てるかなんて言うまでもない。


「おおかみさん」


 だから、セルジュには答えずに部屋を出た。

 扉を開けると少し離れたところにクロードとマルセルが立っている。自分に気づくと同時にマルセルが立ち去ったので一人残ったクロードに歩み寄った。

 前まで行くと、クロードは目線を合わせるためにしゃがんでくれる。彼の優しさに何か返したかった。笑顔を向けたら、喜んでくれるだろうか。


「おおかみさんといっしょにくらしたい」

「……ありがとう」


 初めて見る顔だった。嬉しくてたまらないと訴えてくるような笑顔。

 今を逃したらもう見られない気がしてもっとじっと見たかったのに、抱き締められてその笑顔が視界から消えた。

 でも、抱き締められたことも嬉しくて自分より大きな身体に思いきり抱きつく。


「でも、かぞくにはなりたくないの……ごめんなさい」

「別にいい。お前が好きなようにしたらいい」


 現在(いま)に、幸せを感じるのと同じくらい恐怖する。

 失うのではないかという不安はいつも自分の中にあって、逃げろ逃げろと脅かしてくる。

 でも、もう決めたから、迷わない。


「おおかみさん、なまえきめたよ」


 誰かに伝えてもらうのではなくて、自分から言いたかった。

 だから、自分の名前を訊いてくれるかと尋ねる。


「俺はクロード。お前の名前は?」


 まるで、あのときに戻ったよう。

 違うのは、彼の問いに応えられること。


「わたしのなまえは――」


 今日から“わたし”は“わたし”になる。





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