赤頭巾と小さな別れ その一
初夏の雪から半月ほどが過ぎ、森には夏がやって来た。魔の森はあまり日が差し込まないため、さほど過ごしにくいということはないが、やはり日中は暑い。
そういうわけで、今、ソニアたちは涼をとるために泉に来ている。
きっかけは、絵本を読んでいたソニアの“うみ……いいなぁ”という呟きをクロードが聞いたことだ。
両親を待ち続けるソニアを森の外に連れ出すことはできないので、彼女が気に入ったらしい絵本の“エメラルドグリーンの海”には連れて行けなかったが、少しでも気分を味わえればと考えたクロードの提案で泉に来ることが決まった。
もちろん、家で暑さにへばっていたルーも一緒に。雪のなかを元気に駆け回っていた彼も毛皮があるぶん暑さには弱いようだ。どこかの寒がりとは気が合わないことだろう。
魔物の気配は……ねぇな。
周囲の気配を探っていたクロードは、近くに魔物がいないことを確認し、少しだけ警戒を緩めた。
ちなみに、この泉は森の中でも比較的安全な場所である。下手な場所を選ぶと水棲の魔物の巣だったり、大型の魔物の行水名所だったりするのだが、森を熟知しているクロードが泉の選択を誤ることはなかった。
ずっと突っ立ってるのも何だしな……。
しかし、水辺の地面というのは少し湿っているものだ。このまま泉のほど近くに座れば、間違いなく服が濡れるだろう。
クロードは“何か敷く物の一つでも持って来たらよかったな”と後悔しつつ、乾いた地面を求めて、ソニアから離れすぎない程度に泉から距離を取った。……彼には若さが足りない。
「わぁ、つめたい……!」
クロードがどこかに腰を下ろそうと湿っていない場所を探していると、ちょうど泉の水に手を浸けたところだったソニアから歓声が上がる。子どもらしい高い声が辺りに響いた。
泉に足を浸けようと裸足になるソニアに不安を覚えたクロードは、声を張り上げて名前を呼ぶ。振り向くソニアに、そのまま言葉を続けた。
「あんま深いとこには行くなよ!」
「はーい!」
あくまで足を浸けるだけ、泳ぐのは以ての外だと口煩く注意するクロードに反発することなく、ソニアは素直に頷く。……実のところ、軽く泳ぐくらいは仕方ないだろうと、クロードはソニアの着替えやタオルを用意しているのだが。齢十八歳の青年はいつのまに一児の母と化したのか。準備は万端である。
「るー、すきあり!」
「……っ、キャン!?」
「あははっ!!」
水に入るかどうか躊躇っていたのか泉を覗き込んでいたルーに、ソニアはバシャっと手で掬った水を掛けた。彼女の小さな手では、両手を使っても大した水の量を掛けることはできなかったが、のんびりしていた――すでに野生を忘れつつあるようだ――ルーを驚かせるには充分だったらしい。
よほど冷たかったのか、少々大げさに感じるほど跳び上がったルーを見て、ソニアは軽やかな笑い声を上げている。
その様子を見ていたクロードは“こういうとき、子どもって容赦ないよな……”とぼんやり思った。……既にスカートの裾が水に浸かってしまっているのは、見なかったことにしよう。
「ガウっ、ガウガウ!」
ルーは抗議をするように、ソニアに向かって吠え立てる。
ソニアが笑いながら水の中へ逃げると、追いかけるように自らも泉に飛び込んだ。
「ひゃ!?」
バシャンという水音と、辺りを舞う飛沫。
咄嗟に腕で顔を隠したようだが、もろに飛沫を浴びたソニアの髪から水が滴る。
「もーっ、るー!」
「クーン」
自分のことは棚上げして口を尖らせるソニアを尻目に、ルーは泉の奥へと泳いで行ってしまった。
意外にも、ルーはなかなか犬掻きが上手い。泳ぎ禁止を言い渡されているソニアは悔しそうに、悠々と水の中を移動するルーを見つめている。
ソニアはチラリと保護者に視線を向け、もっと深くまで行ってもいいかと眼で問いかけた。苦笑しつつも頷いたクロードに嬉しそうな笑顔を向け、服を思う存分濡らしながらルーを追う。
許可を出したもののあまり深くへは行ってくれるなよとクロードは思っていたが、そんな心配はいらなかったらしい。ルーはソニアが深い場所に行かないよう、うまく誘導しながら逃げていた。……ただ単に、ルー自身が深瀬に行きたくないだけかもしれないが。
そういや、ルーが来てからよく笑うようになったな。
泉でルーと戯れているソニアを眺めていると、とくにそう強く感じる。初めて会ったときは、大人びた、どこか泣いているようにも見える笑みを浮かべていたのに――。
吹っ切れた……わけじゃねえよな。
ソニアのなかに根付いているものはそんなに浅くないだろう。
現に、クロードがどれだけ誘ってもソニアは森の外に出ようとしない。もともと頑固な性格なのか、何かが――気休めにでも迎えに来ると言った両親の存在が彼女を頑なにさせているのかはわからないが、ソニアにとってクロードの家は“おおかみさんのいえ”でしかなく、自分の居場所だと感じることはできないのだろう。
しかし、今は無理でも、そう遠くない未来、ソニアが森を出る日が来るのかもしれない。そして、できることなら、そのときは自分が広い世界に足を竦ませる彼女の手を引いてやりたいと思う。
いつか、な。
いつか来る日を夢見て、クロードは思い馳せるように一瞬だけ目を閉じた。
◇◇◇
ルーと水遊びを楽しんでいたソニアは、少し離れた場所で自分たちの様子を眺めているクロードを見て、ふと思う。
おおかみさんは、はいらないのかな。
太陽は中天に差しかかり、今が最も暑い時間帯だ。クロードが座っている場所は水辺の日陰だが、夏の暑いなかでじっとしているのは辛いのではないだろうか。
数日前、暑さにバテているルーとソニアを前にクロードは汗一つかかず涼しい顔をしていたので、彼は寒さに弱くとも暑さには強いのかもしれないが。
……いっしょに、あそんでほしい。
「クゥン」
「……るー?」
一瞬だけ寂しげな表情を浮かべたソニアをどう思ったのか、器用に水にプカプカ浮いていたルーが小さくひと鳴きした。
ソニアがどうしたのかと名前を呼ぶと、突然バタバタともがき始める。
「……っ」
ソニアはハッと息を詰めた。
初めはルーが何をしているのかわからなかったが、時間が経つにつれてどんどん力が抜けていく様子に溺れているのかもしれないと思い至る。
助けようと近づいてみても、暴れるルーの力はソニアより遥かに強い。手を差し伸べれば、ソニアも一緒に溺れてしまいそうだ。
どうしよう、どうしよう……っ!?
焦りと混乱で頭がぐらぐらする。
「……っ、おおかみさん!」
ほぼ無意識に、ソニアは一番頼りになるひとの名を叫んだ。
「どうした?」
ふわりと抱き上げられる感覚。
思わず目を瞑ってしまっていたソニアは、落ち着かせるようなその声にゆるゆると瞼を上げる。瞳に映ったクロードにホッと安心しかけ、すぐにルーの危機を思い出した。
「る、るー、るーが……っ!!」
ソニアの訴えを受け、クロードは周りに視線を走らせる。
ルーはすぐに見つかった。
あれ……?
泣きそうな顔でさっきルーが溺れていた場所を見たソニアは、驚きに目を疑う。
「…………るー?」
ルーは――溺れていたはずの仔狼は、何食わぬ顔でパチャパチャと水を掻いていた。
とりあえず、クロードはポカリと口を開けて固まるソニアを下ろす。足が水に浸かる感覚に、ソニアはスッと視線を落とした。
すぐに目に入ったのは、クロードの足元。脱ぐ暇もなく急いで駆け付けてくれたのだろう、彼の靴もズボンも水に浸かってしまっている。背が高いため、膝より上はまったく濡れていなかったが。
「……おおかみさん」
ぐるぐる混乱しているソニアの頭に、取り留めのないことばかりが浮かんでは消えていく。
「あー、ソニア。……何かあったのか?」
「えっと……」
事情のわからないクロードは屈んで、ソニアに目線を合わせ、やや困惑気味に尋ねた。
なぜ、今ルーが元気に泳いでいるのかはわからないが、先程まで溺れていたことを伝えようとしたソニアは突然の急襲を受ける。
「クゥ」
びっくりしてさらに固まっていると、近くでルーが短く鳴き声を上げた。
どうやら、ルーが足で水を蹴ったらしい。ルーが後ろ足で掛けた水は、知らず滲んでいたソニアの涙を隠すように流してしまう。
しかし、ルーが思いっきり蹴った水はソニアだけでなく、屈んでいたクロードにも掛かったわけで――。
「…………」
「…………あ」
びしょ濡れになったクロードに、ソニアは小さく声を上げた。
クロードは怒っている。きっと、ものすごく怒っている。
るー……そにあ、しらないからね。
ソニアは心の中でルーにそう告げた。
クロードの眉間に皺を寄せる表情はわりとよく見掛けるが、こめかみに青筋を立てている姿は初めて見る。
「いつも尻尾巻いてる犬っころの分際で、いい度胸だな……」
クロードの声は、ソニアの肩がびくりと揺れてしまうほど低い。ドスの利いた声というのは、こういう声のことを言うのだろう。自分に言っているわけではないと知っていても怖くて、ソニアにルーのような耳と尻尾があったら間違いなく項垂れている。
何だかんだでソニアに甘いクロードの怒りを前に、ソニアはクロードだけは怒らせないようにしようと心に誓った。
「ガウ!」
そんなクロードを前に、ルーはいつになく強気だ。
最近ソニアの知らない間にクロードとルーは仲を深めていたようだが、そのせいでルーはクロードを舐めているのだろうか。
「覚悟しろよ」
犬掻きで逃げるルーをそれ以上の速さで追うクロードを見て、ソニアは少し異なった形で自分の願いが叶ったことを悟った。……ソニアはクロードと水遊びがしたかっただけで、クロードとルーの水中戦を観戦したかったわけではないのだが。
しかし、クロードはルーに“躾”をした後、おそらくソニアと遊んでくれるはずだ。そして、その“躾”はもうすぐ終わる。
だから。
「ありがとう、るー」
そっと唇にのせたお礼の言葉は、一匹と一人の耳に届くことなく夏の爽やかな風に吹き消された。
◇◇◇
「お前のせいで、俺までずぶ濡れになっただろうが」
「クーン、クーン……」
「……っ、くくっ」
「おおかみさん、あんまりおこってない?」
「さあな」
「ガウ、ガウ!」
「あ?」
「……クゥ」
「るー……」
――――何ともいえない情けない声を上げたルーに、二人の笑い声が重なった。
《 おまけ? 》
ソニア「きょうのおおかみさんは……」
クロード「?」
ソニア「げきおこぷんぷんまるです」
クロード「…………」
ソニア「むかちゃっかふぁいあーです」
クロード「…………マルセルか」
その頃のマルセル「あれ? 何か今、ヒヤッとした……」
※激おこぷんぷん丸、ムカ着火ファイアーはギャル語。とにかく、怒ってるってことらしい。
もしかしたら、今回のクロードはカム着火インフェルノーォォォオオウなのかもしれない。




