赤頭巾と仔狼 その二
結局、先に折れたのはクロードの方だった。さしもの黒狼も、涙目で見上げてくる幼子には勝てなかったようだ。
渋々……といった様子で気を失っているルプスの仔を家に運び、今は不機嫌そうな顔で夕食の用意をしている。規則的に響く包丁の音はクロードの怒りを表していたが、大人気ないその姿を見咎める者は誰もいなかった。
クロードとは打って変わり、上機嫌に湯を張った盥でルプスの仔を洗っていたソニアは、汚れの落ちたそれの輝く毛並みを見て歓声を上げる。
「わあ! まっしろ!!」
銀というよりは白に近い毛はソニアの気に召すものだったらしく、ルプスの仔に触れる手は洗い出したときよりも若干丁寧なものになっていた。
ソニアの声に反応したのか、クロードが盥に放り込んでも起きなかったルプスの仔の身体がぴくりと動く。一瞬痙攣するかのように震えたかと思うと、それは跳ね起き、ソニアの手を潜り抜けて盥の中から飛び出した。
「…………っ」
警戒するように辺りを見回し、目の前できょとんと目を見開いているソニアを睨みつける。突っ張った四肢はぷるぷると震えていた。怯えているようだ。
気配でルプスの仔が目覚めたことに気づいたクロードが、後ろからソニアに声をかける。
「何だ。そいつ、起きたのか」
「うん……わんこ、どうしたんだろう?」
ソニアは顔だけを後ろに向けて、困ったように尋ねた。
「……グルルッ!!」
ルプスの仔は近づいて来るクロードを警戒したのか、威嚇するように唸る。その小さい姿から放たれる唸り声は、精一杯虚勢を張っているようにしか聞こえなかった。
だが、元々不機嫌だったクロードの怒りに触れたらしく、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
「……ああ?」
クロードが低い声で威圧すると、ルプスの仔は怯えたように尻尾を揺らした。幼くとも魔物、瞬時に力の差を理解したようだ。尻尾を股に挟んで“キューン”と情けない声を上げた。
「おおかみさん」
弱々しく震えるルプスの仔を庇うように、ソニアは手を広げてクロードの眼前に立つ。ソニアを自分を守ってくれる存在だと認識したのか、ルプスの仔は彼女の背に鼻面を押し付けた。
「…………ちっ」
ソニアに懐かなかったら捨てようと思っていたクロードは、当てが外れたというように舌打ちしたが、嬉しそうにルプスの仔を抱き締めているソニアを見て、思わず頬を緩めた。
◇◇◇
いつもはどちらかというと食べるのが遅いソニアだが、今日に限ってはさっさと夕食を食べ終えてしまった。どうやら、自分の拾ってきたルプスの仔にも食事を与えたかったらしい。
ルプスの仔の方は、空腹だったのかソニアが差し出すエサ――クロードが用意したものだが――をすごい勢いで食べている。
「おいしい?」
しゃがみ込んで、ジッとそれを見つめるソニアはそう問い掛けた。
「……ガウッ!!」
問いに答えるように一鳴きしたルプスの仔を、ソニアは笑顔で“いい子、いい子”とでも言うように撫でている。
ルプスの仔は撫でられていることを気にも留めず、頭を皿に突っ込み、またエサを食べ始めた。それなりに量があったエサは、もう残り少ない。ルプスの仔が皿を舐め出すのも近いだろう。
ちなみに、エサは魔物の肉である。元はウサギに似た形をしていたそれだが、ソニアに配慮したのか今は原形を保っていない。なぜクロードがそんな物を持っていたのか……まあ、職業柄というやつだろう。
「……ソニア」
机に頬杖をついて一人と一匹の様子を眺めていたクロードは、やや面倒臭そうに名前を呼んだ。振り向いて首を傾げるソニアの顔を見て、言葉を続ける。
「それで……どうするんだ、これから」
「………………」
ソニアは取り上げられると思ったのか、ちょうど皿から頭を上げたルプスの仔を後ろからぎゅっと抱き締めた。包み込むようなその様子からは、小さな魔物を守ろうとする意志を感じる。
何かを訴えるように無言でじっと見つめてくるソニアに、クロードは表情を変えないまま、どうしたものかと思案した。
「………………」
「………………」
沈黙に耐えかねるというように新緑の瞳が揺れる。しかし、不安げな瞳とは裏腹にルプスの仔を抱き締める腕の力は強い。
……はぁ。
今にも泣き出しそうな顔で見つめてくるソニアに気づかれないよう、クロードは内心溜め息を吐く。
普段からあまり我儘を言わない養い子が我儘を言えるようになればいい、と前から思ってはいた。
――だが。
……よりによって、コレか。
自分の腕に対して、それなりに自負はある。
ルプスは比較的懐きやすい魔物で、しかも幼体だ。さほど扱いが難しいということもないだろう。現に、もうかなりソニアに懐いているように見える。……クロードが恐ろしいだけで本能的なものかもしれないが。
生き物を飼うことに否やはない。たとえそれが魔物でも。
もともと、ソニアの遊び相手に街で犬でも買ってこようかと思っていたところだ。犬も目の前のソレも、クロードにとって大した違いはない。
――ただ、気がかりなことが一つ。
「ソニア」
クロードの声が、二人にしては珍しいやや気まずい沈黙を破った。
「……っ」
突然のことに驚いたのか、何か不安なことでもあるのか。クロードに名前を呼ばれたソニアの肩が怯えるようにびくりと震えた。そして、涙を堪えるようにキュッと唇を引き結ぶ。
怯えたようなソニアに、何か勘違いしているなと思いつつ――まあ、ソニアの考えそうなことにだいたいの予想はつくが――クロードは口を開いた。
「俺に頼みたいことが……してほしいことがあるなら言え。ソレが欲しいなら、離したくないのなら、口に出してそう言えばいい」
クロードとしてはさっさとソレを森に捨てて来たいのだが。
これが滅多にない少女の我儘だというのなら仕方ない。
「いつも言ってんだろ。お前の我儘くらい聞いてやる」
そう言って、驚いたように目を瞠るソニアに笑いかける。
その笑みはどこか困っているようにも見えた。
◇◇◇
いつもいつも、我儘ばかり言っているから、それを口に出してしまったら嫌われると思っていた。……嫌われて、捨てられるのではないかと怯えていた。
……おおかみさんは、やさしい。
ソニアがそう思わない日はない。
クロードもマルセルもソニアは我儘を言わないと言うが、ソニアは我儘ばかりだ。ソニアは、クロードが自分を街に連れ出したいと思っていることを知っている。ソニアが寂しがるから、クロードが街や仕事に行っても早く帰って来れるようにしていることも。
……おおかみさんは、やさしい。
優しすぎて、泣きたくなる。
「……っ、おい、ソニア!?」
涙でぼやけた視界のなか、クロードがぎょっとしている。いきなり泣き出したソニアに驚いているのかもしれない。嬉しくても涙は出るものなのに。
「……お、おかみっ、さんっ」
ソニアは切れ切れに言葉を紡ぐ。
“我儘”を口に出すのはまだ少し怖かったけれど、腕のなかの小さな温もりが勇気をくれる気がした。
「………………ぃ」
顔を俯けたソニアの口から漏れたのは微かな声。それでもクロードにはちゃんと聞こえたのか、ふわりと頭を撫でられる。
我儘を言ったのはソニアだというのに、まるで良く頑張ったと褒められているようで……やっぱり涙が出た。
◇◇◇
「おおかみさん、おおかみさん!」
「何だ?」
「わんこのなまえ!」
「あ? そいつの名前? ……もう付けたのか?」
「ううん。わんこ、なまえないの。だから、おおかみさんがつけて?」
「……自分で付ければいいだろ」
「そにあ、おおかみさんがつけてくれたなまえすきだから、わんこのなまえもおおかみさんがつけて?」
「………………」
「………………」
「…………ルーで、いいんじゃねえか」
――――その日から、“るー”と嬉しそうにペットの名を呼ぶソニアの姿が見られた。
安直!




