狼の牙 その二
吸い込まれるように、ソニアは魔剣に触れる。
自分の腕が切り落とされるような映像が頭に浮かんで――すぐに、それがただの錯覚だと気づいた。
「…………っ!」
熱い。初めに感じたのはそれだけ。
右腕の焼けつくような痛みに、ソニアは声にならない悲鳴を上げた。血の滲む腕はジンジンとした痛みをソニアに訴えてくる。
でも、それは一瞬のこと。
「触れるなって言っただろうがっ!!」
痛みはそんな怒鳴り声に掻き消される。
誰かに抱き込まれていると思ったソニアが顔を上げると、見たことがないほど怖い顔をしたクロードと目が合った。首を竦めて視線を逸らせば遠くに魔剣が見えて、瞬きの間にひらいた距離を訝しく思うより先にクロードに移動させられたのだろうと察する。
「………………」
「………………」
クロードは無言で立ち上がり、ソニアから離れた。ソニアが呆然としている間に、小さなガラス瓶……薬を手に戻って来る。
「………………」
怒鳴ってから一言も話さないまま、クロードはソニアの腕を取って薬を塗った。クロードが助けてくれたおかげで剣先がかすっただけで済んだようで、右腕の血はもう止まっている。
もっと近づいていたらどうなっていたのだろう。クロードの助けが間に合わなかったらどうなっていたのだろう。魔剣に触れる直前に浮かんだ自分の腕が切り落とされる映像。それはただの想像だったわけだが、あれが未来の姿だったかもしれないと思うと今さら震えがくる。
薬が傷に沁みた。再び痛み出す傷口に、ソニアは堪えるようにぎゅっと目を瞑る。
そうしてじっとしていると、ほどなくしてなんの痛みも感じなくなった。目を開けばいつもと変わらない自分の腕。数瞬前までは確かにあったはずの傷は、何事もなかったかのように消えてしまっていた。
「……おおかみ、さん?」
おずおずとクロードの顔を見上げるが、応えはない。クロードはじっとソニアの右腕を見ていた。傷があったはずの場所を、それこそ痛いほどの強さで。
しばらくしてから、押し殺したような声がソニアの耳に届く。
「――もう二度と、これに触れるな」
無感情な、けれど怒っているとわかる低い声。
恐ろしいと、思った。本能的な恐怖に身が竦む。
「……っ、ごめ、なさ……っ」
不明瞭な謝罪の言葉は相手に届いているのかすらわからない。
怒っているような、悲しんでいるようなクロードの表情を見ていられなくて、ソニアは俯く。傷ついた腕よりも、ただひたすらに胸が痛かった。
おおかみさんのほうが、いたそう。
息苦しいほどの沈黙のなか、そう思う。
痛みはもうとっくに消えているのに、なぜだかソニアは泣きたくなった。
◇◇◇
それ以降、とくに会話もないまま翌日を迎える。
夢の中でクロードに謝られた気がしたが、あれはソニアの願望だったのかもしれない。
いや、ソニアはクロードのあんなに悲しい声は聞きたくなかったから、ただの夢で良かった。ソニアはどんな形であれクロードの負担にはなりたくない。
「ソニア、そろそろ起きろよ」
いつもと同じその声音に、一瞬夢の続きを見ているのかと思った。
クロードと顔を合わせたくなくて……彼がいなくなっているかもしれないと思って寝台の上で丸まっていたソニアは、シーツからちらりと顔を出して声がした方をうかがう。
目が合うと、苦笑を返された。
「まだ眠いのか? もう朝飯はできてるんだ、さっさと起きろ」
くしゃりとシーツ越しにソニアの頭を撫でて、クロードは食卓の方へ去って行く。いつもと変わらない、というよりいつもより優しいクロードに、ソニアの不安は一気に晴れた。
ちなみに、いつものクロードならシーツを剥ぎ取るくらいはする。
「……おおかみさん」
寝台から身体を起こしたソニアの呼びかけに、クロードは立ち止まって顔だけ振り返る。
「どうかしたか?」
「…………おこって、ないの?」
「何がだ?」
ソニアはじっとクロードの顔を見つめながら、おそるおそる問いかけた。
クロードは何のことだかわからないというように首を傾げてから、ソニアに笑いかける。一見穏やかに見えるその笑みにはどこか陰があったが、ソニアはそれに気づかなかった。
ほっとして肩の力を抜く。
「そんなことより朝飯食え。食わないなら片付けるぞ」
「……お、おきる!」
からかうように言われて、ソニアは跳び起きた。ぐちゃぐちゃになってしまったシーツを整えてから、慌ててクロードの背を追いかける。
朝食を食べようと椅子に座ってから、ソニアはいつもの場所にあの魔剣がないことに気がついた。あるのは岩のように大きな魔石だけだ。魔石は、魔剣のことなどまるで知らないようにそこに鎮座している。
あの魔剣はどこにあるのだろうかときょろきょろと辺りを見回すと、昨日はなかった白い布が目に入った。何かを包んでいるらしく、中身はちょうど魔剣くらいの大きさだ。
「おおかみさん、あれ……」
ソニアが白い包みを注視しながら声をかけると、クロードは魔剣にも魔石にも視線を向けることなく答える。
「魔剣だ。近づいてもいいが、包みからは出すなよ。魔石は……無駄にデカくて邪魔だからな。前から捨てようと思ってたんだ」
以前、ソニアはクロードから魔石に魔剣を刺しているのは床を斬らないためだと聞いた。そうしていないと剣に触れたものがすべて斬れてしまうのだと。
だが、それならば、あの白い布は斬れないのだろうか。
「きれないの?」
「ん? ……ああ、布は斬れない。聖布だからな。俺が斬ろうとしないかぎり魔剣じゃ斬れない」
「せいふ?」
聖布は、教会でも高い地位に就く聖職者の祈りが込められた布のことだ。邪気を祓い、魔を鎮める効果があるが……もちろんソニアは知らない。
「魔剣が嫌ってるものの一つだ。嫌いなもの貼っ付けてると大人しくしなるんだよ、魔剣は」
クロードは魔剣を、嫌いな食べ物を前に黙り込む子どものように語った。あるいは虫が苦手な少女や勉強嫌いの少年を語るように。
その瞳に浮かぶのは怖れや忌避ではなく懐かしさで、それはどこか魔剣への親しみを感じさせる。
聖布を魔剣が嫌うものだと教えられたソニアは、くすみない白い布を見て小首を傾げた。
「……きれいなのに、きらいなの?」
純白の聖布は輝くような美しさだ。実際、若干発光している。それは祈りが込められたばかりであることを示しているのだが……もちろんソニアは知らない。
「綺麗だから嫌いなんだろ」
「……??」
意味がわからないとソニアがますます首を傾げると、クロードに苦笑された。
そして、いつものように一言。
「おいおい教えてやる。急いで知る必要はねえよ」
魔剣や聖布についてはよくわからなかったけれど、未来を約束するようなクロードの言葉にソニアは嬉しそうに破顔した。
◇◇◇
「悪かったな」
「…………んぅ、……おーかみさん?」
「起きるには早い。まだ寝とけ」
「…………ん」
「…………ソニア」
「………………」
「……もう、傷つけない」
――――傷つかないでくれと望むことは、ただの怠慢なのだと気づいた。




