狼の牙 その一
共同生活にはルールが付き物だ。家族や仲のいい友人間でも必要なのだから、それが会ったばかりの他人同士とくればなおさらだろう。
もちろん、クロードとソニアの間にもルールが存在する。ただ、二人共相手に多くを求める性質ではないため、共に暮らしていくうえでお互いに課した条件はたった一つだけだった。
「絶対に、これには触れるな」
真剣な、やや険しいとも言える表情でクロードが告げる。
クロードが“これ”と言って指した物は、剣身まで黒く染まった剣――魔剣・グラムだ。彼が“黒狼”と呼ばれる所以でもあるそれは“認められた者以外を全て切り裂く”という少々物騒な代物だった。……まあ、グラムは魔剣のなかではまともな方だが。主人には忠実な魔剣なのだ。クロードがちゃんと魔剣の所有者として認められていれば問題にはならない。
「……っ、うん」
ソニアはクロードの厳しい声に一瞬息を飲んだが、すぐにこくりと頷く。
しばらくの間、クロードは探るようにソニアをじっと見つめた。しかし、ソニアが怯えるように軽く身を退いたのを見て、張り詰めた空気を溶かすように息を吐いた。
よくわからない怖い雰囲気――ひとはそれを殺気という――に知らないうちに気圧されていたソニアは、クロードが宥めるように彼女の頭に置いた手に安心して、いつのまにか俯けていた頭を上げる。
目が合うと“悪かったな”と苦笑された。
「魔剣に触れなければそれで良い。できるだけ、目に入れないようにしとけ」
「うん。……おおかみさんは?」
「ん?」
首を傾げて訊かれるが、クロードには何を尋ねられているのか見当がつかない。
「おおかみさんは、あぶなくないの?」
そう続けられたソニアの言葉で、クロードは彼女が何を聞いているのか気付いた。
どうやら、この小さな少女はクロードの身を心配しているらしい。他の誰かから言われたのであれば、あまりに的外れだと笑っただろう。だが、ソニアの不安そうな表情に、クロードどこかくすぐったい気がした。
「ああ、俺は……一応、これの所有者だからな。俺だけは傷つけられない」
「……?」
“よく分からない”といった眼を向けるソニアに笑いかけながら、今度はクロードが問う。
「追々教えてやる。……それで、お前からの条件は何だ?」
――俺と暮らしていくうえで、最もお前が望むことを言え。
ソニアの脳裏に、数分前のクロードの言葉が蘇った。言われたときは言葉の意味が理解できず戸惑ったが、その後すぐにクロードが噛み砕いて教えてくれたので、彼が何を訊いているのかは分かる。
自然と、考え込むように顔が下を向いた。
「…………っ」
ソニアはパッと思い付いた条件を口に出そうと頭を上げ、思い止まる。ソニアの身を案じる条件を出したクロードに、自分の贅沢な条件を告げることは憚られた。
「………………」
「どうした? 何でもいいから言ってみろ」
何か言おうと一瞬だけ口をぱくぱくさせた後黙ってしまったソニアに、クロードは言葉を促すように声をかける。
ソニアは、その柔らかい声音に背を押されるようにおずおずと口を開いた。
「……ほんとに、なんでもいいの?」
クロードはソニアを安心させるように深く頷きを返す。
「………………」
「………………」
しかし、ソニアはそれっきり黙り込んだままだ。
長い長い沈黙の後、クロードが“今日は諦めるか”と考え始め出したとき、緊張を解すようにソニアは大きく息を吸って吐いた。そして、静かな家の中でも掻き消えてしまいそうなほど小さな声で呟く。
「……―――――」
「!」
ソニアの呟きを正確に聞き取ったクロードは、思ってもみなかったことを言われたという風に目を瞠った。しかし、すぐに破顔して、俯いたままのソニアを抱き上げる。
「ああ、良いぞ。……約束だ」
いきなり抱き上げられて驚いた顔のソニアに笑みを向けて、クロードは宣言するようにそう答えた。
◇◇◇
ソニアがクロードと一緒に暮らし始めてから、早数か月。
ソニアは森の外に出ようとしない。クロードが街に誘っても、まだ両親を待っているのか悲しそうな顔で首を振るだけだ。
ただ一時期大泣きしていた……クロードが仕事に行くことに関しては慣れ始めてきているようだった。
現在、クロードは仕事で出掛けている。今回の依頼は四日の予定で、今日の夜には帰って来るはずだ。
クロードの帰りを心待ちにしながら、昼食を終えたソニアは寝台に横になって、最近お気に入りのカメの女の子が活躍する絵本を読んでいた。
「……っ!」
突然、隣で絵本を覗き込んでいたシュテファンの身体がびくりと跳ねた。バサバサと黒い羽根が音を立てる。
「……おおかみさん?」
「おそらくは。まあ、魔の森に来る人間はまずいませんし、クロードの旦那で間違いないでしょう」
ソニアの問いかけもシュテファンの返答も、もうお決まりのものである。
シュテファンは臆病な性格をしているため、ひとの気配を感じ取ると一瞬怯える。相手が自分より強い場合だと、過剰なくらい反応するのが常だ。
「ほんと?」
クロードが帰って来たと聞いて、ソニアの声が弾んだ。ずっと飾り紐を握っていた手に、ぎゅっと力が入る。
シュテファンの言い方からすると、気配を察知した相手がクロードだとは限らないが、この家にはひとも魔物も近づかないのでソニアの待ち人である可能性は高い。
「はい。あ、もうお帰りですね。……では、某も主殿の元に帰ります」
そう言って、シュテファンは悠々と大きな翼を広げた。そして、夕日が差し込む窓から飛び立とうとするシュテファンに、ソニアは寝台から身体を起こして笑顔で声をかける。
「きょうも、ありがとう! げんきでね」
「いえいえ。ソニアのお嬢もお元気で」
バサッとシュテファンが翼をはためかせて出て行くと同時に、音もなく家の扉が開かれた。
ソニアは入って来た人物を目に留めると、寝台から下りて扉の方へ駆けて行く。輝かんばかりの満面の笑みを浮かべて抱きついた。
「おかえりなさいっ!!」
「ああ、ただいま」
飛びついて来たソニアをなんなく受け止め、クロードは頬を緩める。勢いよく抱きついたために足が床についていないソニアを床に下ろすと、右手に持った袋を示した。
「飯買って来た。用意するから、ちょっと待ってろ」
クロードは魔剣を定位置に置いた後、そう言って調理台の方へ歩いて行く。
魔剣は下手なところに置くと床を斬ってしまうため、クロードはいつも決まった場所に置くようにしていた。岩ほども大きい魔石に漆黒の魔剣が刺さった姿は、Sランクの冒険者の住まいにしては質素なこの家の中でかなりの異彩を放っている。
「うん!…………あ」
ソニアは笑顔のまま、奥へと消えていくクロードの背を見送った。ふと横を見ると、いつもなら見ることすらないように注意している魔剣が目に入る。
一昨日読んだ絵本に登場した剣を思い出し、ソニアはその魔剣をじっと見つめた。黒い輝きを放つ、どこかクロードに似た雰囲気を持つそれに、吸い込まれるような魅力を感じる。
「……おおかみさんのけん」
ぽつりとそう呟き、魔剣の方へ一歩踏み出した。ごくりと喉が鳴る。
ソニアは魅入られたような眼で、目の前の魔剣へと手を伸ばした。
◇◇◇
「…………きれー」
「……っ!? ソニア、それには……っ!!」
――――慣れることが、良いことばかりだとは限らない。




