序章 あかずきん
その日は良いことばかりだった。
父がいて、母がいて。
二人とも怖い顔で殴ったり蹴ったりしないで、ずっと笑ってて。
母が新しい赤い頭巾をくれて。
父が初めて見る甘いお菓子をくれて。
とっても、とっても、幸せな日。
この日がいつまでも続けばいいのに。
◇◇◇
「ここを真っ直ぐ行けば、お祖母ちゃんの家に着くからね」
母親はそう言いながら、少女がかぶっている頭巾を整えた。赤い頭巾から覗く淡い金色の髪は母親と同じもので、少女が母親似であることがよく分かる。
「気ぃつけていけよ」
どれだけ良い子にしていても不機嫌な顔しか見せなかった父親から、初めて優しい目を向けられた少女は嬉しくなった。
にこにこと笑いかければ、彼の無骨な手がやや荒く少女の頭を撫でる。そのせいで、母親がさっき直してくれた頭巾がずれてしまったが、少女は何も言わなかった。
「うん。……でも…」
躊躇いがちに両親を見上げる少女の目の前に広がるのは暗い森。
森を吹き抜ける風は生温かく、少女のところまで嫌な匂いを運んでいる。木立の間から今にも何かが出てきそうだ。ざわざわと風に揺れる曲がりくねった木を見る少女の胸は、不安に満ちていた。
行ったことも……会ったことすらない祖母の家に、彼女の両親は行けと言う。しかし、その理由を察するには少女は幼すぎた。
「まよっちゃったら、むかえにきてくれる?」
優しすぎるくらいに優しい今日の両親になぜだか不安が募っていく。怒られるかもしれないと思いつつ、その不安を口にした。
「ええ、もちろんよ」
見た目より幼い印象を与える舌足らずな言葉に母親が笑って答える。その貼り付けたような笑みを見ても少女の不安は増すばかりだ。
「ほんとに?」
「本当よ」
「……ほんとに、ほんと?」
モヤモヤとした感情を晴らしたくて確認するように何度も問いかける。そんな少女に痺れを切らしたのか、隣に立っていた父親が苛立たしげに舌打ちした。
「チッ、うっせぇな……いいから、さっさと行けよ」
頭の上から落ちてくる低い声に、ビクリと肩を震わせながら父親を見上げる。上機嫌に笑っていた顔は歪み、いつもの怖い顔に戻っていた。
睨まれるのが辛くて、すぐに視線を下に降ろす。
「……い、いってきます…」
端をギュッと掴んで頭巾を目深にかぶり、消え入りそうな声で言った。少女の声が小さすぎて聞こえなかったのか、両親はそれには何も言葉を返さない。
指で軽く頭巾の前を押し上げてうかがうように両親の方を見上げるが、二人ともすでに少女の方を見ていなかった。母親は遠くに見える街を眺め、父親は取り出した煙草をふかしている。
「…………っ」
両親が自分に関心をなくしたことを悟った少女は泣きそうになりながらも森へと歩き出した。
何度も振り返り、両親が後ろにいることを確認しながら進む。その姿はまるで引き留められるのを待っているかのようだった。
途中で立ち止まりつつも離れて行く小さな背がさらに小さくなっていく。少女のかぶっている頭巾だけが、暗い森に溶け込むことなく赤い点のように浮かび上がる。
それは、森がゆっくりと少女を飲み込んでいくようにも見えた。
もう後ろに立っているはずの両親の姿が見えないからだろうか。森へと進むほど少女が立ち止まる回数は減っていく。
しばらくすると少女の姿は完全に見えなくなった。
◇◇◇
「やっと厄介払いできたわ。あの子、戻って来たりしないわよね?」
「平気だろ。ガキ一人だ、すぐにくたばっちまうさ」
――――そうして、赤い頭巾をかぶった少女は森に捨てられた。