あっちを向いて
――コツ、コツ、コツ。
静寂に支配された深夜のデパートに一人分の靴音が響き渡る。
辺りは完全な闇に包まれている。幽かに非常灯の明かりが見えるのみで、たとえ一メートル先に人間がいたところで全く気付かないだろう。
静寂、暗闇。人は形のないものを最も恐れる生き物だ。日が沈んでから見る曖昧模糊としたものに自らの想像を当てはめて勝手に恐怖する。
だが、もしも白日の下で見たソレが想像していたものより異様だったとしたら……?
――コツ、コツ、コッ……。
規則正しく聞こえていた足跡がふいに止まる。俺は大きく息を吐き出した。
(驚かせるなよな……)
突如、真円の光によって浮かび上がったマネキンの顔に思わず懐中電灯を持つ手が震えてしまった。止まっていた足を再び動かしながら心の中で溜息をつく。
割のいい仕事だと思って応募したら、体より先に精神の方にダメージが来る仕事だった。夜の学校がいい例だが、本来人がいるべき場所が全くの無人だとやけに不気味に感じるものだ。おまけに普通なら数人が交代で勤務する見廻り警備員は今日も俺一人。
一筋の光が作り出す様々な形の陰影にびくびくしながらポケットに手を突っ込み、見廻りルートが書かれた新米用のマニュアルを取り出す。
それを片手に階段に向かおうとした時、エレベーターの階数表示が目に留まった。
――6階
光の灯ったプレートを凝視する。この時間、エレベーターの電源は落ちているはずだ。それにさっきまでは……。
エレベーターはだんだんと俺のいる1階へと降りてくる。
手元のマニュアルに何か書かれていないかと目を落とし、懐中電灯の光に目を細めながらページを捲っていく。
――チーン
静まり返ったフロアにエレベーターが到着した事を告げる間抜けな音が響き渡った。続いてドアが開く音。
マニュアルを注視しながらエレベーターの中に入り、停止ボタンを探そうと目線を上げた時、短い悲鳴が口から洩れた。
「ひっ……!」
そこに女が立っていた。壁を向いて。
俺は体を硬直させたまま女を見る。長い黒髪を腰まで垂らし両腕を脇にだらんと下げて、“壁と額が今にもくっつきそうな位置”に立っている。その異様な光景にしばし呆然としていたが、扉が閉まる音で我に返った。
静かに上昇を始めるエレベーター。冷たい汗が背中を伝う。
こんなに気味の悪い沈黙は未だかつて経験したことがない。声をかけようと何度か口を開いたが、喉のあたりで言葉が詰まったまま出てこない。
それに、無言の背中から感じる強烈なプレッシャー。こいつは出会ってはいけない類のモノだ……頭の中で警報が鳴る。
(早くここから出してくれ……)
そう思うが女から視線を外せない。もし一瞬でも目を離して振り返った時、女がこちらを向いていたらと思うと怖くてたまらなかった。
気が付くといつの間にかエレベーターは止まっていた。女に視点を固定したまま後ずさるように降りると、まるで見えない誰かに操られているようにエレベーターはまたもや1階に向かって動き出した。
ふー、と安堵の息を漏らして懐中電灯の光を前に向ける。そこに照らされた光景を見た瞬間、全身が鳥肌立った。
四方の壁一面、床から天井に至るまで炎に舐められた後の無残な焦げ跡を晒していたのだ。そうだ、ここは6階だ……。
今から約二週間前、6階の家電製品売り場で火災があった。原因は落雷によるショート。その不始末の責任をどういう訳か取らされたのが当時の警備員数名だった。俺は彼等の唯一の後釜というわけだ。
さっきの女を思い出してぞっとする。まさか……そんなはずはない。頭の中で何度もそう繰り返す。夜中になぜか突然作動したエレベーターも、事故以来お客用のエレベーターでは6階へ行けないようになっていることも無理やり頭から追い出して下り階段へ向かう。
背後でチーン、という音が聞こえたような気がしたがそれを確認に行く勇気は俺には残っていなかった。
そのまま警備室に戻り、扉を閉めてようやく一息つく事が出来た。
一体あれは何だったんだ……? もう今夜は他の見廻りは止めてしまおう。そんなことを考えているうちにあることを思い付いた。
戸棚のカギを外し、無数のファイルの中から過去の業務日誌を探す。欲しいのは二週間前の記録だ。
あった! 一冊の記録帳を抜き出し、中を確認する。しかし……。
なんだ、これ。
事故のあった二週間前から俺が赴任する一週間前までの記録がごっそりなくなっている。このデパートの夜間警備員は通常四名だ。そのうち二名は事故の後すぐにクビになった。だから、普通ならそこに俺を入れた合計三人で分担して業務をするはずだったし、上からもそう聞いていた。だからこそ勤務初日に自分一人で仕事をしろ、と言われた時は大いに困惑したものだ。
結局その二人は俺の勤務直前に仕事を辞めてしまったらしい。それ以上の話は教えてもらえなかった。しかし、なんで勤務記録まで……。
首をかしげつつも机に戻り、引出しから先週使い始めたばかりの新しい記録帳を取り出して今晩のチェック項目を埋めていった。
全て書き終わって、何とはなしにページをぱらぱらとめくっている時にそれに気が付いた。最後の方に何かが書かれている。
それは失われたはずの業務記録のコピーだった。欄外にこう記されている。
『おそらく本来の日誌に記された業務記録は抹消されるだろう。その時のためにこれを残す』
俺は椅子に座り直し、取り憑かれたように後の文を追っていった。
○月×日
あの痛ましい事故から一夜が明けた。昨日のうちに佐藤と佐野の二人は解雇されている。確かにエレベーターの定期点検を怠ったのは俺達のミスだ。しかし、それには俺達四名が等しく関わっている。おそらく折を見て残った俺と工藤もクビにするつもりなのだろう。
証拠不十分で罪に問われなかっただけでもありがたいと思うしかない。
……何を書いているんだ俺は。この日誌は一週間ごとに提出する決まりだ。それまでに訂正しなくては。だがどこかにこの思いをぶつけなければ俺はおかしくなってしまいそうだ。
○月×日
工藤の様子がおかしい。エレベーターで女を見たと言って心底怯えている。試しに俺も行ってみたが当然ながら電源は落ちていた。おそらく罪悪感から生まれた妄想か何かだろう。
○月×日
工藤がしきりに何かをつぶやいている。『アレが近づいてくる。許してくれ、許してくれ……』同じことを何度も繰り返した後、俺を見てこう言った。
『お前には見えないのか!? もし、もしアレに出遭ってしまっても決して顔だけは見るな!』
幽霊でも見たというのだろうか。ばかばかしい。そんな事ある訳がない。
○月×日
工藤が死んだ。今朝の新聞に載っていた。彼の死因を知った時、俺は腰が抜けるかと思った。これはいったいどういう事なんだ!? あいつの言っていた事と関係があるのだろうか。
○月×日
エレベーターで女を見た。行けないはずの6階まで俺を誘導するかのように。あの女だ、間違いない。事故で死んだ唯一の被害者。エレベーターの中に閉じ込められてそのまま蒸し焼きにされた。工藤はあいつに殺されたのだろうか。なら、次は……。
○月×日
あいつが近づいてくる。怖い、怖い。たのむ、許してくれ。俺が悪かった。だから……死にたくない。助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれたすけて
全てを読み終わった後、俺は皮膚が泡立つのを感じていた。最後の日付は俺が赴任した一日前だ。なら、これを書いた人は……。
そんなばかな。なら、次のターゲットは俺なのか? しかし、これが真実だったとして俺にどうすればいいというのだ。それに事件の詳細を知っている人はもう……。
いや、最初にクビになった二人はどうだ? まさかと思ってパソコンでここ数日の新聞を調べてみる。そして、見つけてしまった。
“――店勤務の夜間警備員、焼死体で発見”
『焼死体』
その単語に目を奪われた。記事によると、二人は火事に遭った訳でもないのに全身に重度の火傷を負っていたという。当然殺人が疑われたが、燃焼促進剤の類は発見されず、何らかの薬品を使わずにこれほど人体を損傷させることは不可能だとして専門家も首を傾げているらしい。
……二人とも既に死んでいた。俺は今度こそ、深く考えず下調べもせずにこの勤務に就いた事を深く後悔していた。
呆然と画面を見つめていると、ふと扉の向こうから音が聞こえてきた。何かを引っ掻くような……。
大丈夫、きっと空耳だ。そう自分を納得させるために恐る恐る扉を開くと――
そこに、ソレがいた。
やはり後ろ向き……いや、少しだけ横を向いている。
「……っ!」
反射的に扉を閉める。そのまま鍵をかけて、ドアから最も遠い所にへたり込んだ。勘弁してくれ……。
ドアを見張ったまま一夜を明かした。日が照ってから扉を開けてみると、そこにはもう女の姿はなくなっていた。
朝日に霞む目を擦りながらアパートに向かう。憔悴しきった頭ではもはや何も考えることは出来なかった。
早くベッドで眠りたい。それだけを考えてエレベーターを待っていたが、開いた扉の向こうにいた女を見た瞬間に眠気は消し飛んだ。
即座に踵を返して階段を駆け上がる。家に入って鍵をかけてベッドに飛び込んだ。さっき見た女の姿が瞼から離れない。あいつ、昨夜見た時より顔がこちらを向いていたような……。
夢だ……起きればいつも通りの毎日だ。そう繰り返し呟いていたが、あの日誌に残された工藤という男の最後の言葉が頭にこびり付いて離れなかった。
午後六時。通常なら出勤する時間だが、俺はまだベッドに蹲ったままだった。このまま退職してしまおう。そうすればきっと……。
再び眠りについた俺を呼び起こしたのはチャイムの音だった。ぼさぼさの頭を撫でつけながら玄関に向かう。覗き穴の向こうに立っている人物を見た瞬間、鳥肌が立った。
なんで、どうして俺なんだ! 震える手でチェーンをかけて、部屋に飛び込み扉を閉めてこちらも施錠する。上下する肩をなだめながら振り返った時、ソイツは目の前にいた。
「ひぃぃっ!」
後ずさりしながら女を見る。もはや女は完全に横を向いていた。だが、その横顔は長く垂れ下った髪に遮られている。
「ふざけんなよ! 俺が何したってんだ!」
恐怖から出た悪態を吐きながら、女から目をそらした先にあったのは……。
鏡、だった。
見て、しまった。鏡に移された女の顔を。長い髪の下から覗く焼け爛れた皮膚、そして目を見………………
『――そいつに出遭っても決して振り返らせてはいけない』
読了感謝です。
正直自分では気にいっていない本作……。なぜって、ちっとも怖いと思えないんですよ。
元々恐怖系に耐性があるからか、ホラーだと意識して書くとダメですね。
その反面、【オリヅル姫】では予期せぬ反響がありましたが。
お読み下さった皆さんはどうでしたか?
怖くないでしょ、コレ。
というか、この作品は結構前に書いたものなんですが、今読み返すといろいろと粗が目立ちますな。
ちなみに最後の文が「見」で終わってるのは仕様です。
主人公の一人称なので、そこで文が途切れるということは…もう死(ry