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第1話前編

新連載です。ぜひ1話だけでも読んでみてください。


 会場の扉を開けた瞬間、轟音のような歓声と音楽が耳を突いた。山田香織は思わず顔をしかめる。


 土曜日の夕方、都内某所のイベントスペース。職場の同僚、美咲の結婚式二次会だ。断ろうと思った。本気で断ろうと思ったのだが、美咲から「香織さん、絶対来てくださいね。寂しいから」と直接言われてしまい、断りきれなかった。


 香織は今年で三十一歳になる。派遣社員として都内の商社で事務をしている。コロナ以降も会社には通っているが、飲み会や社内イベントはほぼ全てオンラインか中止になった。プライベートで友人と会うことも激減し、気づけば休日は一人で過ごすことが当たり前になっていた。


 美咲とはそこまで親しいわけではない。同じ部署で仕事をしているだけの関係。でも美咲は社交的で明るく、香織のような地味な派遣社員にも気さくに話しかけてくれる人だった。だからこそ、断れなかった。


 会場に入ると、すでに大勢の参加者で賑わっていた。華やかなドレスやスーツを着た男女が、グラスを片手に談笑している。新郎新婦を囲んで写真を撮る声、久しぶりの再会を喜ぶ声、カップルらしい二人組のイチャイチャした会話。


 香織は居心地の悪さを感じながら、受付で名前を告げた。スタッフに席を案内されるが、そこには知らない顔ぶればかり。新郎側の友人らしいグループが盛り上がっているが、香織は誰も知らない。


 とりあえず席に座り、配られたウーロン茶を手に取る。隣の席の女性が話しかけてきた。


「美咲さんとはどういう関係なんですか?」

「あ、職場の同僚です」

「そうなんですね!私は大学の友達でして」


 その後も何度か質問され、香織は曖昧に答える。会話を続けるのが苦痛で、「ちょっとお手洗い」と席を立った。


 本当はトイレに行きたいわけではない。ただ、あの場から離れたかった。


 廊下に出ると、ようやく静かになった。香織は深く息を吐く。肩の力が抜ける。


 窓の外を見ると、夕暮れの街が見えた。十月の終わり、少し肌寒い。香織は腕を抱きしめながら、廊下の隅にある椅子に向かった。


 ここでしばらく時間を潰そう。十分くらい経ったら戻ればいい。


 椅子に座り、スマホを取り出す。SNSを開くと、タイムラインには友人たちの投稿が流れてくる。子供の写真、恋人とのツーショット、結婚式の写真。


 香織はそれらをスクロールしながら、何も感じない自分に気づく。


 羨ましいとも思わない。寂しいとも思わない。ただ、どこか遠くの世界の出来事のように感じる。


 こういう感覚が、いつからだろう。昔はもっと、友達の幸せを素直に喜べたような気がする。でも今は、ただスクロールして、「いいね」を押して、それで終わり。


 香織は小さくため息をついた。


 そのとき、廊下の反対側から足音が聞こえた。顔を上げると、一人の男性が歩いてきた。


 三十代前半くらいだろうか。紺色のスーツを着て、少し猫背気味に歩いている。顔は悪くない。むしろ整っている方だ。でも、どこか疲れたような、居心地悪そうな表情をしていた。


 男性は香織に気づくと、少し驚いたような顔をした。


「あ...すみません」


 そう言って、男性は香織の隣の椅子に座った。距離を置いて、二つほど空けて。


 しばらく沈黙が続く。お互い何も言わず、ただ廊下の静けさに身を任せている。


 香織は横目で男性を見た。スマホを見ているわけでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めている。


 この人も、逃げてきたんだろうな。


 そう思うと、少しだけ親近感が湧いた。


 香織は思わず呟いた。


「...疲れますね」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。


 男性が顔を向けた。少し驚いたような顔。


 香織は慌てて言い訳した。


「あの、独り言です。すみません」

「いえ...」


 男性は少し笑って、こう言った。


「疲れますね」


 香織は思わず笑った。この人、わかってくれるんだ。


「ですよね」


 また沈黙が訪れる。でも今度は、少しだけ居心地のいい沈黙だった。


 男性が話しかけてきた。


「新郎新婦とは、どういう関係なんですか?」


 香織は少しホッとした。会話のきっかけをくれた。


「新婦の職場の同僚です。断りきれなくて...」

「あ、僕もです。新郎の大学の同級生で、そこまで親しくないんですけど」

「そうなんですね...」


 同じだ。この人も、断りきれずに来たんだ。


「実は私も、そこまで仲良くなくて。でも断れなくて」

「わかります」


 男性は頷いた。


「僕も断ろうと思ったんですけど、直接電話がかかってきて」

「私もです。『寂しいから来て』って言われて」


 二人は顔を見合わせて、少し笑った。


 不思議だった。初対面なのに、妙に話しやすい。


「あの、名前聞いてもいいですか?」


 男性が言った。


「山田香織です」


 香織は小さく会釈をした。


「佐藤健人です」


 健人も会釈を返す。


 佐藤健人。いい名前だな、と香織は思った。


「中、すごいですね」


 健人が会場の方を見ながら言った。


「ですね...あんなにテンション高く盛り上がれるの、すごいなって」

「わかります。僕、ああいうの苦手で」

「私もです」


 香織は安心したような顔で笑った。


「こういうイベント、いつも居場所がなくて」

「僕もです。壁際でドリンク持ってるだけみたいな」

「それです!」


 香織は思わず声を上げて、慌てて口を押さえた。


「すみません、つい」

「いえいえ」


 健人も笑った。


 この人、本当にわかってくれる。香織は少し嬉しくなった。


「久しぶりなんですよね、こういうイベント」


 香織がぽつりと言った。


「コロナ以降、ほとんど参加してなくて」

「僕もです。仕事も完全リモートになって、人と会うこと自体が減りました」

「わかります。私も事務職で、会社は行ってますけど、プライベートで人と会うことはほとんどなくて」


 二人はまた沈黙した。でも、その沈黙は心地よかった。


 廊下の窓から、夕日が差し込んでくる。オレンジ色の光が、二人の間を優しく照らしていた。


 会場からは相変わらず歓声が聞こえてくる。ゲームが始まったらしい。司会者の声が廊下まで響いてくる。


「そろそろ戻らないとまずいですかね」


 健人が時計を見ながら言った。


「そうですね...」


 香織も立ち上がる。二人は会場の扉の前で立ち止まった。


「あの」


 健人が声をかけた。


「もしよかったら、連絡先交換しませんか?」


 香織は少し驚いた。


 連絡先?この人と?


 でも、嫌な気はしなかった。むしろ、また話したいと思った。


「いいですよ」


 香織は笑顔で答えた。


 二人はスマホを取り出し、LINEのQRコードを交換した。


「また、連絡しますね」

「はい」


 そう言って、二人は会場に戻った。


---


 二次会が終わったのは夜の九時過ぎだった。香織は美咲に挨拶をして、会場を後にした。


 駅までの道を歩きながら、スマホを取り出す。健人とのLINEのトーク画面を開く。まだ何もメッセージは送られていない。


 何か送った方がいいのだろうか。「今日はありがとうございました」とか?


 でも、送ったら変かな。重いかな。社交辞令で交換しただけかもしれないし。


 香織は悩みながら、結局何も送らずにスマホをポケットにしまった。


 電車に乗り、窓の外を眺める。夜景が流れていく。


 健人のことを思い出す。あの疲れたような表情。でも、少し笑ったときの柔らかい顔。


 話しやすかった。不思議なくらい。


 でも、それだけだ。


 香織は小さく首を振った。連絡先を交換したからといって、何かが始まるわけではない。きっとこのまま何もせず、自然消滅するだろう。いつものように。


 自宅に着き、玄関の鍵を開ける。一人暮らしのワンルーム。誰もいない部屋に、ただいまと呟く。


 メイクを落として、部屋着に着替える。ベッドに横になり、スマホを見る。


 健人からメッセージは来ていない。


 香織は「まあ、そうだよな」と独り言を言った。


 でも、少しだけ、ほんの少しだけ、寂しいような気がした。


---


 翌日の昼過ぎ、香織はベッドで目を覚ました。


 カーテンの隙間から日差しが差し込んでいる。時計を見ると、午後一時。


 香織はゆっくりと起き上がり、キッチンに向かった。コーヒーを淹れて、小さなテーブルに座る。


 スマホを見る。LINEの通知はない。


「やっぱりな」


 香織は小さく笑った。


 結局、あの場の雰囲気で連絡先を交換しただけだ。お互い社交辞令みたいなものだろう。これから連絡を取り合うこともないだろうし、会うこともないだろう。


 香織はそう思いながら、SNSを開いた。


 タイムラインには、昨日の結婚式の写真がたくさん投稿されていた。幸せそうな新郎新婦、笑顔の参加者たち。美咲のアカウントにも、たくさんの写真が上がっている。


 香織はそれらを見ながら、ふと健人のことを思い出した。


 あの人も今、同じようにこの投稿を見ているのだろうか。


 そう思った瞬間、心臓がドキッとした。


 何か送った方がいいのかな。


 でも何を送ればいいのか。


 香織は十分ほど悩んだ末、思い切ってメッセージを送った。


『昨日はありがとうございました。おかげで最後まで乗り切れました』


 送信ボタンを押した瞬間、後悔が押し寄せてきた。


 変じゃなかったかな。重くなかったかな。


 香織はスマホを置いて、顔を両手で覆った。


「何やってんだ、私」


 そう呟いた瞬間、スマホが振動した。


 既読がついた。


 そして、すぐに返信が来た。


『こちらこそありがとうございました。僕も助かりました』


 香織はホッとした。よかった。変じゃなかった。


 でも、次は何て送ればいいのか。


 香織は悩んだ末、こう送った。


『あの廊下、居心地よかったですね』


 送信。既読。


 返信が来るまでの数秒が、やけに長く感じた。


『ですね。会場より断然よかったです』


 香織は少し笑った。


 この人、やっぱりわかってくれる。


 香織は勇気を出して、もう一通送った。


『また機会があれば、お話ししたいです』


 送信した瞬間、心臓が早鳴った。


 これって、誘ってるみたいじゃないか。変に思われないかな。


 既読がついた。


 でも、返信が来ない。


 一分、二分、三分。


 香織は焦り始めた。やっぱり変だったかな。重かったかな。


 そのとき、返信が来た。


『僕もです』


 シンプルな返信。


 でも、香織はそれだけで嬉しかった。


 その後、お互いから返信はなかった。


 香織はスマホを置いて、大きく息を吐いた。


 でも、不思議と、悪い気分ではなかった。


---


 それから数日、香織と健人のLINEは続いた。


 といっても、一日一往復程度。朝に送って、昼に返信が来る。夜に送って、翌朝返信が来る。そんなゆっくりとしたペースだった。


 内容も特に重要なことではない。「今日は寒いですね」とか「仕事疲れました」とか、そういう他愛もないやり取り。


 でも、香織はそのやり取りが嬉しかった。LINEの通知が来ると、心臓が少しだけドキドキした。


 これって、なんだろう。


 恋愛感情?


 香織は自分の気持ちがよくわからなかった。


 ただ、健人とやり取りしている時間は、楽しかった。


 

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