第8話
陽光が大きな窓を通り抜け、書院の白壁にやわらかい光の筋を描く。その木漏れ日は穏やかで、すべてをやさしく包み込むようだった。
ローズウッドの床に、ひそやかに開かれた絵具箱には、重たく濁った茶色や灰色。少女画家はそれを前に、瞳を閉じてうつむいている。
私は静かに近づき、柔らかい声で告げた。
「――おはよう、ノア」
彼女ははっと驚き、筆を止めた。絵具箱の蓋が逆光に輝き、朝の静けさを少しだけ乱す音がした。
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ノア・レインフォード(22)は、緑がかった栗髪を後ろでまとめ、ワンピースには淡い絵具の跡が点々とある。
「エリカ様…ご挨拶が遅れてすみません」
彼女の声は消え入りそうに小さかった。隣のイーゼルには、炎のような黒と灰の混合が広がる。
「この色たちが、ノアさんの心のままなのだと感じました」
ノアは目を伏せながら頷いた。
「家族を焼く火と灰が消えず、この筆も、心も、暗いままなんです」
私はそっと言葉を添えた。
「でもあなたは、“誰かを想う心”がある。だからこそ、この肖像画を頼まれたんでしょう?」
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ノアは見つめた先のキャンバスで小さくため息をつく。
「16歳のとき…火災で両親も弟も失ったんです。
以来、心が色を忘れて――、絵を描くことが怖かった」
黒が染みついたパレットを見る彼女の肩が震える。
「エリカさんには…どうしてあんなに平穏に、誰かを想えるんですか?」
私は目を細め、そっと答える。
「恋をしない私でも、“誰かの幸せ”を願う心は持てます。
ノアさんは、その“願い”を筆に乗せられるはずです」
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次の日、私は淡いブルーをチューブから搾り出し、彼女に手渡した。
「まずはこれを、キャンバスに“静かな円”で描いてみて」
ノアは筆を濡らし、小さな円を描いた――深い青が、湖のように広がる。
「これは、“悲しみが静まる湖”だと思います」
彼女の言葉に、私は微笑んだ。
「そう。青は、悲しみではなく“癒し”の色にもなる。
あなたが描く青は、ノアさんの静かな強さを映すんです」
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別の日、私は小さな木板に白いチョークで大きな円を描いた。
「これ、どうかな?」
ノアは首をかしげる。
「真っ白――空白です。でも、ずっと暗かった心には…怖いです」
私は静かに答えた。
「怖くていい。空白は“描き足す”ためにある。光も、優しさも、未来の色も――あなた次第で描いていける」
その言葉に、彼女の指がわずかに震えていた。
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その夜、私は書院の灯りの下で一服していた。ノアがそっと寄り、「エリカ様は、本当に――誰かを想うことができるんですね」と呟く。
私は頷きながら、ペンで柔らかな緑を紙に走らせる。
「“恋緑”って色があるんだよ。
君が今感じている“安心”や“穏やかさ”にはこういう色が似合うと思って」
ノアは驚きの表情。彼女のキャンバスに、淡い恋緑がそっと零れ落ちる。
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ついに肖像画本番。大きなキャンバスの前でノアは震える手で筆を握っていた。
背景にまず薄青と白のグラデーション。ドレスには恋緑、その裾には淡い黄色とピンクで花を描きこむ。
彼女は最後の一筆を置き――そっと息を吐いた。
「これが…誰かの“幸福”を願う色。
エリカ様の“祈り”を、この絵に込めました」
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完成した絵の前で、私は静かにうなずきながら涙をこらえる。
「ありがとう、ノア。これは“祈りの肖像”です。
絵が誰かを救うことは本当にある。そして、あなたの心も、この絵が救っている」
彼女は顔を上げ、目に光を取り戻していた。
「エリカさん…私に、色を戻してくれて、ありがとうございます」
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書院の夜、私は言葉をそっと紡ぐ。
「友情にも、こういう深さがあると思います。
恋じゃない。でも、尊い思いだと」
ノアは穏やかに目を細め、「ええ、私は――誰かに“寄り添う”ことができて幸せです」とこたえる。
二人の間に漂うのは、恋ではない“愛”そのものだった。
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肖像画は後日、王宮中庭に飾られ、訪れる人々に安らぎを与えた。
私とノアはまた書院で過ごす。彼女は水彩とキャンバスを愛おしそうに眺めていた。
「次は誰のために色を描くの?」と問いかけると、ノアは笑って答えた。
「エリカ様の“次の祈り”のために、色を用意しておこうと思います」
彼女の瞳はもう、深い青と緑に満ちていた――色が戻った証だった。