第7話
初夏の王宮庭園――他の花が眠りにつく時間にもかかわらず、真紅のバラだけは朝露に濡れてひっそりとその気高さをたたえていた。
霧のように立ちこめる朝露の向こうに、白燕尾を纏った公爵、アルベルトが立っていた。
彼の声は静かだったが、朝の空気を切り裂くほどの存在感を放っている。
アルベルトは深く一礼し、バラの香りを含んだ息を吐きながら口を開いた。
「柊エリカ嬢――君に、僕の妻になってほしい。
あの日、神の前で君を見たとき、世界は止まって、君がすべてになった。
だから、君と正式に結ばれる覚悟を示したい」
彼の視線は真剣そのもの。眉間には意志が宿り、唇には揺るがぬ決意が浮かんでいた。
私は静かに息を吐き、目を細めながらも、毅然と答えた。
「断ります。
結婚…それに、“恋人”としても興味はありません。
私は恋をしたくないしできないので、“妻になる”という選択肢を取るつもりはありません」
私の声は低く、しかし一切の揺らぎがなかった。
その一言に、アルベルトはまるで重い石に躓いたかのように、一瞬よろけた。
彼は一歩前に進み、声を強める。
「誤解しないでほしい。
僕にはすでに正妻と側妾の関係にある二人の妻がいる。
一夫多妻が許されるこの国で、その形を保ちつつ、君を“第一の妻”に迎えたい。
君は僕の“心の妻”である――それだけは変えたくない」
彼の声には、驚くほどの真剣さと、真摯な祈りすら感じられる。それだけに、拒絶が彼には苦痛なのだとわかる。
その沈黙の中、彼の眉間に亀裂のような影が落ちた。
目元がわずかに曇り、唇を一瞬噛んだのだ――
「どうして…?誰も拒むことのなかった僕が、君だけに――
本気で求められても…それでも歩み寄れないほど…君のことが…」
その吐息は、まるで初めて本気で想った相手に断られた男の、それだけの重みを帯びていた。
アルベルトは小さな箱をそっと取り出し、差し出した。
「これは“僕と君を結ぶ象徴”――クイーンローズの翡翠の指輪だ。
受け取ってくれるまで、君を追い続けるつもりだ」
箱の中で翡翠は朝の光を受けて穏やかに輝く。
けれど私は冷静なまま、箱を背に押しやった。
「遠慮します。持っていたいのなら、どうぞお返しします」
彼は呆然と立ち尽くし、胸を打たれたように見えた。
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その後数日、公爵は朝から晩まで付きまといを始める。
庭園で花束を捧げる、図書館では並んで本を回し合い、食堂では一緒に席について料理を薦めようとする。
私は淡々と拒絶の言葉を続けていくが、その真剣さに、私も内心では困惑していた。
「こんなにも…一人の女性に“真剣”に向き合える人がいるとは…」
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ある夜、公爵はエリカに拒まれすぎて自分の価値がないように感じ始めていた。
書斎の鏡前で、静かに呟く。
「…恋に敗北した気分だ。
君は、誰にも求められないのに求められた…それは、僕が一番欲しかったもの…なのに君は…」
その弱々しさは、公爵が今までは見せなかった、確かな人間味を含んでいた。
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数日後の午後、アルベルトは執務室で私を呼んだ。
朝陽が差し込む中、彼は真剣に私を見つめ、低く穏やかに言った。
「エリカ…。恋人にも妻にもできないなら、せめて“パートナー”として僕の隣にいてほしい。
君の“恋をしない”人生に、僕の知性と誠意を加えさせてほしい」
その言葉は、愛ではなく、敬意と信頼から発せられたものだった。
私は静かに言葉を返す。
「ありがとうございます。
けれど、それもお受けできません。
理念を支える人との距離すら――私には“譲れない一線”があるのです」
彼の表情が揺れる。だがその瞳は、揺るがない決意を伝えていた。
「――敗北か。
君を守りたいと思ったが、それを君が必要としていないことを知っただけだった。
それでも君の隣にいたかった。
僕は…、自分を変えるしかないな。」
その言葉は空々しくなく、むしろ岳のように重く、成長の芽に満ちていた。
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翌朝、庭園に差す朝光の中、彼は静かに立っていた。
私が通りかかると、ほんの一礼。
「おはようございます、エリカ様。
これからは…ただ遠いところから、あなたのことを応援しています
私はいつでもあなたの味方です。」
私は穏やかにうなずく。
「ありがとうございます、公爵様」
それだけの会話の余韻が、庭いっぱいに広がっていた――