第4話
春の午後。風が柔らかく木々の間をすり抜け、庭に咲く花々を揺らしていた。
その少女が現れたのは、そんな穏やかな時間だった。
ふわりと広がる淡い桃色のドレス、光を透かすような金髪、姿勢は凛としていても、どこか怯えたような表情を浮かべていた。
「柊エリカ様……ですよね?」
ドアの前に立っていた少女は、名乗る前から私を知っていた。
聖女候補ルミナ・ルシアナ。王都でも高名な神殿家系に生まれた、神の声を聞くと言われる少女。
その瞳の奥には、淡い水色に混じるように“祈る者の孤独”が揺れていた。
「ようこそ。よければ、お茶でもいかがですか?」
私は彼女をサロンに案内した。マリアが用意してくれたミントティーが香り立ち、窓から差し込む光にカップが淡く輝いている。
ルミナは、カップを両手で包むように持って、ぽつりと言った。
「私、恋をしてはいけないんです」
その言葉は、ほとんど息のように小さかった。
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「聖女は、神に心を捧げる者とされています。
“俗世の情に染まれば、神との交信は途絶える”と。
だから、私は……誰にも想いを寄せてはいけないって、ずっと教えられてきました」
彼女はカップの中を見つめながら、まるで自分に言い聞かせるようにそう語った。
「でも、好きになってしまった人がいる。……だから、苦しいんですね?」
ルミナは震えるまつ毛の影から、ゆっくりと私を見た。
「はい。
その人は、火災の中で私を助けてくれました。
皆が逃げていく中で、真っ直ぐに私の手を取って、出口まで導いてくれて……。
それだけじゃありません。“奥にまだ人がいる”と私が伝えたら、迷いなく引き返していったんです」
その時の光景が、いまも彼女の中で息づいているのだと伝わってくる。
「……私は、あの瞬間に恋をしました。
でも、“恋は不浄だ”と教え込まれてきた私は、それを罪のように感じてしまう。
だから、あなたの噂を聞いて、どうしてもお会いしたかったんです」
「私が“恋をしない”から?」
「はい……。あなたなら、私の気持ちを否定しないと思ったから」
私はゆっくりと、彼女の前に身を乗り出した。
「ルミナさん。私にできることなら、何でも言ってください。
……でも、ひとつだけ質問させてください。
“恋をしてはいけない”って、誰が最初に決めたんでしょうか?」
彼女は一瞬、言葉に詰まった。
「それは……神殿の教典に。
“聖女は清らかであるべき”と、“恋は心を乱すもの”だと……」
私は、そっと懐から小冊子を取り出した。
「この資料、昨日王宮の文官さんからもらったものなんですけどね。
昔、恋をしていた“聖女”がいたって、書いてあるんです」
ルミナは目を見開いた。
「そんな……記録、見たことありません」
「正式な教典には残ってないんですって。
でも、古い修道文書には記されていた。
名前は、“アナスタシア”。
数百年前の戦乱期に、ある若き王に恋をし、その愛の中で神託を得たとされています」
私はそのページを開いて、彼女に渡した。
《愛は祈りと同じく、神に捧げる心である。
恋をした私は、神と人とを結ぶ架け橋になった》
ルミナは手を震わせながら、その文字を読み上げた。
「……こんな聖女が、本当に……?」
「恋は“俗”だなんて、誰が決めたんでしょうね。
神様って、そんなに心の狭い存在じゃないと思います。
誰かを大切に思う気持ち、それが祈りと同じくらい純粋だったなら……
むしろ神様は、そんなあなたを愛してくれるはずです」
彼女の目に、また涙が浮かんだ。
でも、今度は迷いではなく、確信に近いものを宿していた。
「……だったら、私、変わりたい。
この想いを“間違い”だと思わずに、生きてみたい」
「その一歩、きっと神様も応援してくれますよ」
私は手を差し出し、彼女の手に重ねた。
ルミナはその手をぎゅっと握り返した。
「ねえ、エリカ様……」
「うん?」
「もしよければ、これから時々、お話してもいいですか?
私、“恋ができない”あなたに、もっと教えてもらいたい。
想いを伝えるために、何ができるか……」
私は優しく笑った。
「もちろん。私でよければ、いつでも」
その日、ルミナは心から笑った。
その笑顔は、祈りよりも美しく、光のように私の胸を打った。