第3話
異世界に来て、一週間が過ぎた。
最初は何もかもが非現実的だった。だけど、朝に鳥の声で目覚めて、庭を散歩して、マリアが淹れてくれるミントティーを飲むこの生活に、私は思いのほかすぐに慣れてしまった。
もちろん「勇者として召喚された」という事実は、いまだにピンとこない。
戦う力もない、魔法も使えない、できるのは人の顔色を見て話を聞くことくらい。
なのにこの国の人たちは、私に何かを“期待”しているらしかった。
そんな曖昧な立場のまま、静かな時間が続いていたある日の午後だった。
「お願いです、会って話すだけでも……!」
玄関先で、緊張と苛立ちが入り混じった若い女性の声が響いた。
控えの間から見えるのは、華やかな赤髪の少女と、沈黙を貫く黒髪の青年。
案内役の兵士が困ったように目を向けてきたので、私は玄関へと歩いた。
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二人の名前はすぐにわかった。
エリザ・ラインハルト。侯爵家の令嬢で、次期当主候補。
ヴァレン・シャルマン。伯爵家の三人息子の末っ子の若き文官で、才気ある青年と評判らしい。
元々は婚約者同士だったが、最近になってヴァレンが急に距離を取るようになり、エリザは不安を募らせているという。
彼女は、私が“恋に左右されない勇者”だと聞いて、何かヒントを得られないかと押しかけてきたらしい。
「私たち、別れたいわけじゃないんです。……なのに、どうしてうまくいかないのか、もうわからなくて」
私は、少しだけ二人と距離を取り、目線を合わせて言った。
「じゃあ、少しお話を聞かせてくれませんか? できれば、二人とも」
二人は驚いたように顔を見合わせたが、やがてゆっくりと頷いた。
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応接室で話を聞くと、原因は明白だった。
エリザは、“会うこと”や“話すこと”に恋愛の実感を求める人だった。
一方、ヴァレンは内向的で、言葉にしない愛情表現を重視していた。
政治や文書の仕事に没頭するあまり、彼女への返答も会う時間も後回しになっていた。
エリザは言った。
「私は、ただ“会いたい”って何度も伝えたのに……。返事がないまま、気づけば何週間も会えていなくて。そうなると、不安だけが募ってしまって……」
ヴァレンは小さくうつむき、申し訳なさそうに口を開いた。
「僕には、恋愛の仕方がよくわからない。……でも、あなたのことを思っていないわけじゃない。ただ、それを伝える方法が……」
私はゆっくりと息を吐いた。
「お互いが、お互いを想ってるのに、伝わらない。そんな時に必要なのって、派手な言葉じゃないんですよ」
二人が私を見た。
「……“同じ時間を共有すること”。たとえば、週に一度、決まった時間に同じ場所に行く。それだけでも、十分伝わると思うんです」
エリザが目を瞬かせる。
「……何も話さなくても?」
「ええ。ただ、同じ空の下にいる。それが、恋を続けるための“土壌”になることもありますから」
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それから数日後、私は庭園で、再び彼らの姿を見かけた。
二人はベンチに並んで座っていた。
何か話しているわけでもない。けれどその空間には、明らかに“空気の柔らかさ”があった。
花が揺れ、風が通る。
そのたびに、エリザの赤い髪がふわりと揺れて、ヴァレンがわずかに彼女に視線を向ける。
(うん、これでいい)
私はそっと庭の奥に引っ込み、二人の時間を壊さないようにした。
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その日の夕方、別の来客が訪れた。
王都の内政を司る文官、エリク・バーネルだった。
彼は私の“召喚の経緯”について文献を調査していたらしく、正式に面会を求めてきた。
「あなたが召喚された“勇者”という存在について、少々ご説明を。
従来、勇者とは剣を振るい魔物を倒す存在とされてきましたが……
今回、あなたに期待されているのは“精神的調停者”としての役割です」
「調停者……?」
「ええ。国同士の不和、種族間の断絶、個人の情念の暴走――そうした“心の衝突”を収め、平和を繋ぐ存在。
あなたのように“恋愛に揺れず、感情に呑まれない存在”は、世界の均衡にとって極めて稀有です」
私はその言葉を聞いて、静かに理解した。
(私は恋をしない。だけど、だからこそ、誰かの感情の外に立って、見守ることができる)
私の人生はずっと、恋を知らない人生だった。
でも今、ようやくわかってきた。
それは決して“欠落”ではなかったのだ、と。
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その夜、マリアが紅茶を淹れながら言った。
「エリザ様、すっかり笑顔が戻ってましたね」
私はうなずいた。
「うん。きっと大丈夫だと思う。……恋をするって、時々すごく難しいことだけど」
「エリカ様は、本当に恋をしたこと、ないんですか?」
「ないよ。でも、それでも思う。恋をしている人の心が動く瞬間って、本当にきれいだなって」
マリアは笑って、「それって、すごく素敵な視点だと思います」と言った。
私はカップを持ち上げて、空を見上げる。
今日も月が、静かに私たちを照らしていた。