第1話:悲劇の始まり
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第1話:悲劇の始まり
老婆の語りは、細くしわがれた声で、だが不思議なほどよく通る声だった。
「……鬼は人を食う。そう言われていたよ。けれどあたしの見た鬼は、誰より人らしかった――」
それは、あの霞の濃い年のことだったという。
山里の村に暮らす少女・澪は、森で傷を負った鬼と出会った。
角を持ち、金の瞳をしたその青年の名は、“宵”。
最初は恐れていた。けれど宵は、何も言わずただ痛みに耐え、少女の差し出した水に、かすかに微笑んだ。
その日から、澪と宵は山の奥で密かに会うようになった。
誰にも知られぬように、短く、けれど深く――
やがて、二人は許されぬ一線を越えてしまう。
人と鬼、愛し合ってはならない。
それは、はるか昔から続く禁忌だった。
澪の腹に、新たな命が宿った時、全てが変わった。
「村を出よう」
宵がそう言った。人の地から遠く離れた山奥で、静かに暮らすのだと。
澪は頷いた。
しかし、人間は――いや、村はそれを許さなかった。
ある夜、澪の家が焼かれた。
「鬼に魅入られた女」「穢れた者」
澪の腹の子は、鬼の血を引くとされ、村の“清め”の名のもとに追放された。
宵は、澪を守るため、ひとり村に立ち向かう。
角が伸び、瞳が赤く染まり、鬼の本性が現れる――
だがそれは、「怒り」ではなかった。
愛が、彼を鬼に変えたのだった。
燃える村の外れで、澪は最後に彼の背を見た。
「宵……」
名を呼んでも、彼はもう振り返らなかった。
老婆は語る。
「あの時、あたしは、たしかにその背を見たのさ。人のように、泣いていた――鬼の背をね」
蝋燭の火が、ふと揺れる。
老婆の瞳に、一瞬、金の光が宿った気がした――