第8話 保健室は聖域
温泉行ってきました、いつか温泉回を書いてみたいですね。
「はぁっ!」
覇気に満ちた亜梨紗の声が、俺の耳に届く。その声が聞こえると同時にボンっ! と分厚く、柔らかい者を殴った時特有の音が聞こえる。イメージとしてはあれだ、羽毛布団を殴った時のような。
「せりゃあっ!」
「まだ蹴りが甘い! もっと相手を殺す気で殴るのよ亜梨紗ちゃん!」
「死ねぇっ!」
再び……今度は、布を殴ったような音ではなく、爆竹が破裂した時のような音が聞こえる。だが、亜梨紗よ……流石に叫ぶ時の表現がストレート過ぎやしないだろうか。
「そう、その調子! 今のコツは掴んだね? あと十回はその威力をキープよ!」
「うん、お姉ちゃん!」
元気良く、とても生き生きとした様子で亜梨紗は蹴りを再開する。
彼女の両手には赤色のグローブが嵌っていた。それでいて運動に適した黒いスポーツパンツ、黒いスポブラを纏い、マットのようなものを持った先生らしき女性とトレーニングをしていた。
「なんで、こんな事になったのかなぁ……」
俺はその様子を少し離れた場所で眺めながら、ため息を吐くのだった。
時は少し前に遡る。
「はぁ……やっぱ保健室だよなぁ」
俺は放課後となり、保健室にて休んでいた。保健の先生は現在校内の見回りをしており、俺は保健委員という大義名分の元、ベッドの上でゆっくりとくつろいでいるのである。
「学校の保健室って、どうしてこんなに居心地が良いんだろ……まるで実家のような安心感……今すぐ眠りそうだ……」
基本的にこの朝桐学園では屋内のほとんどにエアコンが設置されている。生徒たちの学ぶ環境を整えるため、だそうだ。
それはこの保健室も同様である。しかし、保健室の空気というものは教室にはない謎の安心感がある。だからこそ俺は、ゆっくりとリラックスできていたのだが……
「うわっ、見事に溶けてるわね……」
「…………悪魔よ、この神聖な場所から即刻消え去りなさい、あと五分くらい」
俺は指で十字架の形を作り、部屋に入ってきた人物に向けた。
「誰が悪魔よ、天使でしょ? というかむしろ、天使様とお呼びなさい」
「天使ってよりは、悪魔だお前」
「潰すわよ」
若干キレた様子の亜梨紗が保健室の入り口に立っていた。
「それで何の用? 保健の先生は今いないよ?」
「みたいね。それはそれで都合がいいわ」
「は?」
亜梨紗はそう言うと、俺のいるベッドに近寄り……。
「脱いで」
「…………はぁ!?」
とんでもない爆弾発言をしてきた。
「ここ学校ですよ亜梨紗さん!?」
「だから?」
「保健室!」
「むしろ都合がいいわ」
「都合がいい!?」
ストレスで理性が壊れたのだろうか。亜梨紗はどこも取り乱した様子はなく、淡々と俺に服を脱ぐよう強要してきた。
「ほら早く脱いで、さもないと強制的に脱がすわよ」
「いやいやいや、怖い怖い怖い!」
ベッドの隅で枕を盾に亜梨紗から距離を取ろうとするが、逃げられない。
「脱げ」
「それ本来男が言うセリフだよね!? なんでそんなに冷静なの!?」
顔色一つ変えることなくベッドに上がってくる亜梨紗。俺のいるベッドは保健室内の壁際……つまり、逃げ場はどこにもない。亜梨紗は、俺の着る制服のボタンに手を伸ばす。
「雄介、私わがまま言う子は嫌いなの。今すぐ脱ぎなさい……じゃないと……」
「じ、じゃないと……?」
「治療できないでしょ」
「……治療?」
コクリと頷く亜梨紗。よく見ると、その手には湿布が握られている。
「私がもう少し早く駆け付けていれば、雄介はこんな怪我しないで済んだでしょ? 多少の責任は感じてあげてるんだから、大人しく治療されなさい」
「…………俺、てっきり襲われるのかと思った」
「変態」
「うぐっ!?」
混じりけのない罵倒の言葉に、心が痛む。
「と、というかなんでいきなり治療?」
「いや、今日の体育の授業でアンタの様子を見てたけど、どうにも腕の動きが不自然だったから気になって」
「な、なるほど……」
ちなみに、今日の授業はマラソンだった。腕を使わない授業内容だったのが幸いし、特に休むことなく授業に参加していた。しかし、腕を動かすとやはり少し痛いようで、腕の動きがぎこちなくなってしまったのだ。
「ほら、早く脱ぎなさい」
「り、了解です……」
俺は言われた通りに、ブレザータイプの制服を脱いだ。もちろん、上だけである。
「うん、思ったよりも腫れが引いてる。多分、三日もすれば治るんじゃないかな?」
包帯越しに越しにひんやりとした手の感触が伝わる。
「じゃ、湿布張るよ」
「頼む」
保健室に常備してある湿布を使って亜梨紗は手際良く俺の身体に湿布を張り、包帯を巻いた。
「ほい終わり。本当ならもっと早く治っても良いんだけど……アンタ、腕を酷使したでしょ?」
「…………」
心当たりがあるため、俺は亜梨紗から視線を逸らした。
「はぁ……大方、ボランティアで腕を酷使したでしょ?」
「なんで分かるんだよ……」
「あの日の服装から察するに、土木系……それか設営系かな? あの駅の近くでヘルメットを使うってなると……デパートの近くの劇場、工事現場……もしくは」
「いや怖い怖い、なんでそんな的確に当ててくるんだよ!?」
あの時に出会っただけでそこまで情報を引き出されたと思うと、単純に怖かった。このままではいけない。そう思った俺は、話を切り替えた。
「と、というか亜梨紗って怪我の治療上手だよな!」
「まぁ、習い事で慣れてるからね」
特に誇るようなこともなく、普通に告げる亜梨紗。
「そういえば会った時も言ってたな、習い事で慣れてるって……お前、何の習い事やってんの?」
「ふっふ~ん、何の習い事だと思う?」
挑発的な笑みを浮かべる亜梨紗。
「う~ん……スパイ、殺し屋、ヤクザか暴走族……あ、マフィア?」
「そうね、まず貴方の息の根から止めようかしら?」
「すんませんでした」
目が……マジだった。俺はこれ以上の失言をする前に謝罪した。
「それで、結局なんの習い事してるんだ?」
「ボクシング」
「あぁ、なるほど……そういうことね」
とても納得だった。というか亜梨紗にボクシング……なんというか、鬼に金棒としか思えない。
「姉が経営してるボクシングジムに行ってるのよ。そこでボクシングを習ってる」
「へぇ……」
「興味あるの?」
「え?」
なんとなく聞いた話のはずなのに、何故か嫌な予感がした。
「興味あるでしょ? 興味あるわよね? 興味があると言いなさい」
「いやなんで脅迫してるみたいになってるんだよ!?」
「興味があると言いなさい。というか言え」
言葉の一つ一つに圧が込められている。これ、多分興味があるって言わないとずっと繰り返すやつだ……
「ち、ちょっとだけ興味があるなぁって……」
「なら今日も行く予定だし、来なさい」
「いや、俺今日ボランティア……」
「その怪我で続ける気? ボランティア先の人に止められなかったの?」
「…………」
「あ、もう止められた後なんだ……」
「うん……」
秒でバレた。というか、亜梨紗に助けられた次の日にバイトに行くと、腕を怪我したことがバレたうえに悪化してしまい、怒られたのだ。その際、完治するまでの休養を言い渡されたのだ。
「それじゃ、今日は私に付き合ってね?」
「嫌です」
亜梨紗の申し出を、キッパリと断った。要は詐欺と同じである。危険な申し出には乗らない。生きる上でこの上なく大事な処世術である。
「へぇ、そんなこと言うんだ」
亜梨紗のウィスパーボイスが、一段低くなった気がした。おかしい、暖房がしっかしと聞いているハズなのに、鳥肌が止まらない。
「あ、そういえば雄介って今裸よね?」
「まぁ……上だけね……」
「私、雄介の制服を持ってるよ」
「まさかお前……」
俺は亜梨紗の治療を受ける上でブレザー、制服のシャツ、下着のシャツを脱いでいる。全部長袖系の防寒特化装備だったせいで、脱がないと湿布を張れなかったのだ。
「私、雄介の制服欲しいなぁ♪」
すがすがしいまでの笑顔で俺の脱いだ制服を抱きかかえる亜梨紗。
「人質なんて最低だぞ亜梨紗ぁ!」
「特に使い道はないけど欲しかったのよね~」
「使い道ないなら返せよ!」
「う~ん、どうしよっかなぁ、雄介が付き合ってくれたらなぁ……」
「…………お前さ、ホントに良い性格してるよな」
「えへへ~それほどでも~」
「あぁもう分かったよ! 付き合ってやるから制服返せ!」
「付き合ってやるから?」
「……付き合うので返してください」
「やった~♪ ありがと雄介!」
俺は、亜梨紗の脅迫に涙ながらに頷くことしかできないのであった。
「あらあら~、青春ねぇ~」
その様子を、保険の先生が見ていたがために誤解が生まれてしまうのだが、それはまた別の話。
こうして俺は現在、亜梨紗の姉が経営するボクシングジムに来ていたのだ。
「よう坊主、久しぶりだな」
「あ、お久しぶりです店長さん」
なんと、あの時の激辛ラーメン屋の店長もこのボクシングジムに通っていたのだ。
「ようこそこの街の地獄へ……終わらない打撃、無限の蹂躙、悪魔の巣窟へ……」
「……な、何があったんですか?」
あの強面の店長が、死んだ目で某灰になったボクサーのようにベンチに座ってぶつぶつと言葉を溢している。
「聞くな……見ればわかるから……」
「は、はぁ……」
「おい、次はあなたの番だよ! ちょっと私と変わって!」
突然、ラーメン屋の店主さんが亜梨紗の相手をしていた人に呼び出される。
「り、了解であります!」
「あ、店長さんか。私の相手、よろしくね♪」
「ひっ」
大の男が亜梨紗にガチビビりしている……
店長さんは簡素なスポーツウェアを身にまとい、打撃を受ける用のマットを装備し、戦場に赴く戦士のような面構えでリングへと向かった。
「オラァっ!」
「ぐはぁっ!?」
その数秒後、荒ぶる亜梨紗の声と、店長さんの悲鳴が響いた。オイ、今店長さんが亜梨紗に蹴られて一瞬浮いたぞ。
「いやぁ、まさか亜梨紗が同級生……それも男を連れてウチに来るとはねぇ」
突然、ベンチに座って傍観していた俺に声を掛けてくる人物が現れた。
「あ……天使さん、どうも」
「あっはっは、友梨奈でいいよ、その呼ばれ方はあまり好きじゃないからさ」
ケラケラと楽しそうに笑いながら話しかけてきた人物……亜梨紗と同じ黒い髪と赤い瞳。
亜梨紗のような裏表を感じさせない朗らかな様子のその人物の名は……天使友梨奈。
正真正銘の、亜梨紗の姉である。