本は微笑む
ある男が図書館で暇を持て余したように適当にふらついていた。
本を手に持ってはパラパラめくり、棚に戻す、を繰り返していた。
くたびれた男は暇ではなかった。ただ、色々な物事が進まなくて、もどかしさに熟考もできないし、気ばかりが急いていた。
胸の真ん中の痛みが伴うざわめきが、静まってくれない。
ため息をついたところでこのもやもやは消えない。
意味もなく図書館を歩き回ってもなんともならないのは分かっているが男にはどうしようもなかった。
歩き回り聞いたことも無い作者の書いた見たことも無い本を開きながら、男は気づいた。
男が最後に図書館を訪れたのは5年以上前のことだった。
俺は、どうやって本を読んでいたんだっけ?
何とも言えない虚しさが男を襲う。
かつては希望と喜びで本を開き、ワクワクしながら次を待ち遠しいと思いながら、本を閉じる。そんな生活を幼い頃にしていた気がする。
だが今はどうだろう。やらなきゃ行けないことばかりで、楽しいなんて、ほんの少し。生活が妙にかわいていて、つまらない。
ああ、俺は何が好きだったんだっけ……。
頼りない足取りで棚をさまよい歩く。
ふとある本に男は目を奪われる。
その背表紙は古びていてタイトルは見えなかった。それに、男にはそんな本に見覚えはなかった。
それなのに、ああ、開きたい。そんな衝動におそわれ手を伸ばしてしまった。
その本を手に取ると妙に古臭い本の香りが鼻をついた。
とんと記憶にないが、幼い頃にでも読んだ本だろうか。
男はさわると軋む表紙を開く。
そして目に飛び込んだものに驚きで固まった。
見開きの挿絵だろうか、目に飛び込んできたのはページ半分くらいの黒枠の中に佇む女の背中だった。
妙に丸っこい、エプロンを着た主婦のような親しみのある姿だった。なぜ古びた本に主婦の背中を使ったのかは不思議だが、その写真自体は別に珍しいものではないはずだ。
だが、男はその写真から目を離せない用だった。
なんで、と声もなく唇が動く。
白黒の写真のその背中に男は見覚えがあった。
ふっくら柔らかな、後ろ姿。
パサついた髪は無造作に束ねられ、エプロン姿の背中に流されている。
母さん。
声にならず空中に消えたその言葉は、確かに男の口からこぼれた。
彼がまだ若いときに永遠にいなくなった母親が、そこにいた。
少し丸みを帯びた背中、写真の中のその背中は、かつて男が妹に頼まれて買ったエプロンを身につけていた。
なぜ、こんなところにと思う前に動揺で本を落としそうになる。
最初は目の錯覚かと思った。けれど、違った。
かすかに、ゆっくりとその身体は揺れ動いていた。
いや、違う。
振り返ろうとしていた。
通常の感性なら本を閉じるべき、だったのだろう、だが男は閉じなかった。
疲れていたのだ、何もかも。
友達には裏切られ、恋人に振られた。
仕事では毎回怒られて、自分は必要ない人間だと毎回刻み付けられているようだった。
母さん。
連れて行って欲しい。
そんなことさえ思っていた。
母は、振り返る。
もどかしいほどゆっくりと。
記憶にあるより若い、健康そうな母の横顔。
父が出て行ってから、働き通しで寝ているところを見たことがなかった。
食べるのも苦労した時期もあった。
だけど奨学金をとれたこともあり、なんとか大学まで行かせてくれた。
溢れていく思い出の中の母は、いつも疲れていて幸せそうには見えないから、涙が出そうになった。
ゆっくりゆっくり体が顔が、自身と向き合う。
思えば、最近母のことを考えることが少なくなっていた。
お盆やお彼岸は、墓参りに行くが、それだけだ。
怒っているのだろうか。
そう考えるとひどく胸が痛んだ。
そう考えている間にもじわりじわりと顔が見え始めていた。
時間をかけて振り向いた母は、
ただ優しく笑うのみだった。
まるで、白昼夢からさめたように、気がついたら、棚の間でただの本を持ちつったている自身がいた。
驚いて先ほどの本を見ても、ただの主婦の後ろ姿の写真なんてなくて、読んだこともない古びたエッセイだった。
あまりに疲れ切っているせいだと思い、またさらにどんよりとした気持ちになった。
半分夢心地のまま、その本を棚に戻そうとして、なんとなく惜しい気持ちになる。
本当になんとなく、この本を読めば、また母に会えるような気がしたのだ。
それに、今のことが白昼夢みたいなものだとしても、何でも良いから、何かときめいていた。
気がつけば憂鬱さは薄れ、ページを開く楽しみが胸に溢れる。
さあ、図書館のカードをだそう。
そうして母を家に連れていこう。
わくわくとした軽い足取りで足早に男はカウンターに向かっていった。