父さん、満員電車はすし詰めじゃなくてアレ……
翌朝。
満員電車に運ばれ、高校の最寄り駅に降り立つと、僕はそのままプラットホームのベンチに腰かけた。学生さんや勤め人さんが足早に行くのを見送りながら、一呼吸。
「……な、なるほど。これが満員電車」
満員電車は寿司詰めと父は言った。しかし、僕は違うよ、と一人ゆっくり首を振る。
寿司詰めなんかじゃない。そんな生易しいものではない。
「手ごねハンバーグって、こういう気持ちなんだろうなぁ」
まず電車に乗り込む、人の量がおかしかった。
明らかに入れない質量が、一体どんな魔法か、するすると電車に詰め込まれていく。この時点で、僕の前には、お腹がせり出したサラリーマンがいて肉圧を感じていた。走り出したらもっと大変だ。
四方八方から人の体に押し潰され、急ブレーキがかかると、お腹に肘鉄が突き刺さり、ときに、息もできぬ、ぬぬ。
死ぬ、死ぬ、で、電車に殺されるぅぅ……と思ったのが数分前。
「い、生きててよかったよぉぉ……!」
前かがみになって、僕は自分を抱きしめる。
トウキョウコワイ、トウキョウコワイ、コワイコワイ。
空気を吸って吐いて、自分を落ち着かせようとする。しかし、つい思ってしまうのだ。
空気が違う、と。
梅雨の、湿度の多い空気はねっとりとしていて、全身にからみついてくる。北海道にも梅雨の時期はあるけれど、東京と比べると、もっと乾いていた。
僕は、今まで自分がいかに澄んだ空気の中で育ったかを痛感する。餌付けすれば白鳥がずっと居座るような自然の中に、今までいたのだ。
「帰りたい……」
昨日、ラジオは聞けなかった。
それが堪えていた。
自分の部屋から飛び出て電波を探したけれど、受信できなかった。
もちろん録音もできていない。これまでずっとずっと、番組を録音し続けていたというのに。
大好きなラジオが満足に聴けない土地。
思い描いていた幻想が、ガラガラと音をたてて崩れ、僕は絶望感でいっぱいだった。
ラジオが聴けないの、つらすぎる。こんなところじゃ、ラジオ友達なんてできるわけないっ。
そう、思ったときだった。ふいに、口笛が聞こえたのは。
澄んだ高音。優しいハーモニー。
これはっ!
僕の心臓は、鷲掴みにされた。なぜなら、その音楽は、非常に聞き覚えがあったからだ。
慌てて体を起こすと、つぶらな大きな瞳と目があう。
プラットフォームの後方からゆっくり歩いてきたのは、僕と同い年くらいの少女だった。
風にそよぐ、真っすぐで艶やかな髪。透けるように、白い白い肌。
お人形さんのように整った顔は、表情が乏しく近寄りがたい。しかし彼女の薄桃色の唇が、たしかに口笛を鳴らしていた。
っ……この子、絶対にラジオが好きな子だ!
彼女の吹いている曲は、ラジオのジングルだった。聞き間違いようもない。
ジングルというのは、ラジオのコマーシャルの開始や終了、楽曲やコーナーの切り替えのときなどなど、番組の節目に流れる、短い音楽のことである。
「あ、あの! 君っ!」
気づけば声をかけていた。不審な顔をされたが、僕はそのまま問いかける。
「その曲って、金曜カントリーシングルの、ジングルだよねっ? 好きなのっ、ラジオ!?」
心臓がどきどきしている。
嬉しくて嬉しくて。
同志に会えたのが嬉しくて、僕はバカみたいに笑み崩れてしまったのだけれど、返ってきたのは沈黙だった。
少女は冴え冴えとした黒目がちの瞳で僕を凝視した後、一瞬、口を開いたが、言葉を発しなかった。
なぜか、少し哀しそうな顔をしているような気がして、僕が何も言えないでいると
ヒュー……ヒュルルル、ヒュルル……!
口笛を吹いてまた歩き出す。
チェックのギャザースカートが揺れている。こげ茶の革鞄には、イチゴのキーホルダーが光っていた。
しばらくして、彼女の華奢な背中は見えなくなった。