森の弓道場
森の中は静かで心安らぐ印象が強い。しかし、本当の森は沢山の音で溢れかえっている。
木の葉が風に揺れる音、小鳥達のさえずりや、獣が地面を踏み鳴らす音。小さな虫達の会話に川のせせらぎ。
耳を澄ませば森の音楽家達が合奏を奏でている。
そんな自然の音楽に紛れて、時折り新たな音が鳴り響く。
短くもそれでいて辺りに心地よく響く高音、その直後に小さな太鼓を叩いたような音が鳴る。
そして、軽く心地よい音はしばらくすると再び鳴り響く。
その音は、森の中にひっそりと佇む小屋から聞こえてくる。
小屋は一面だけ壁がなく、吹き曝しの状態だ。壁のない方向に木々はなく、悪戯に風が吹き込んでくる。その中に落ち葉はなく清潔に保たれていた。
そんな小屋に一人の男が立っていた。髪を短く切り揃え、黒い道着を身につけていた。
男は足を扇のように広げて立ち、床を踏みしめていた。強い風が吹き込んでもその体が揺れることはない。何がぶつかっても動じないその姿は、地面に生える木を彷彿とさせる。
首から上は小屋の壁が無い方に向き、少し離れた土壁に注がれていた。土壁には木造りの筒が差し込まれている。
両手は肩の線に沿って伸び、右腕は壁のない方向を向いていた。
その手には、男の身長よりも遥かに長く、滑らかな曲線のある竹が握られている。
下弦の月の形状をしたそれには、黒い弦が張られていた。木漏れ日を反射して鈍く光っている。
男の左手の小指には竹でできた細い棒が挟まれていた。
男は両手を閉じる様に腰に運び、顔を正面に戻す。
そして、再び音を響かせるためゆっくりと動き始める。
男は朝から小屋に立ち、延々と同じ動作を繰り返していた。
両腕を持ち上げ、ゆっくり弦を押し開く。
静かな呼吸は男の耳にも入らず、周囲の木々が揺れる音だけが聞こえる。
そして、張り詰めた糸が切れる様に、革手袋をはめた左手が滑らかに後ろに動く。
その瞬間、弦が空気を切る高い音が響き、一歩遅れて土壁の方から太鼓の音が聞こえてくる。
何度繰り返したかのか、一際高い音を響かせると黒い弦は中央より千切れて床に落ちた。
それでも男は微動だにしない。一呼吸置いて手を淡々と腰に戻し、千切れた弦を拾い上げる。
男が上体を起こす動きに合わせて雫が滴り落ちる。無表情な目に溜まったものは静かに頬を伝っていった。
小屋は静かになり、辺りは自然の作る音だけが聞こえるだけとなった。
ここは知る人ぞ知る静かな森の弓道場。故人を弔う場所である。