安全率
今回のサーカス。
とある市役所前にあるイベント広場を使ったサーカス公演だから、駅を出てからオフィスビルの横を歩いてた。
でも、赤と黄色の派手な巨大テントを目にした瞬間、日常は綺麗さっぱり消え去って。
入り口に赤絨毯が敷かれてるものの、大きな音楽がなってるわけでもなくピエロが歩いてるわけでもないのに、私は瞬時に日常を忘れてサーカスの世界に引き込まれた。
左隣では理系くんが珍しく、目をキラキラさせてテントを見上げてる。
「ねえ、文系ちゃん。このテントさ、カラフルで大きなツノが4つあって手前の入り口の小さな2つのツノが頭みたいで、まるで文系ちゃんの好きなアレみたいじゃない?」
「アレ?」
「そう。前に図鑑を見せてくれたカラフルな海の生物」
理系くんが多弁だ。
きっとテンションが上がってるんだ。
「ウミウシ? 確かに、ウミウシに似てるかも。可愛いねウミウシテント」
「そう! ウミウシだ! 最初はカタツムリかと思ったんだけど、もっと適切な生き物がいた気がして」
ウミウシが好きなんて、一度しかしたことない会話を覚えててくれたんだ。
消えた日常の中から、私たちの関係だけ一切消えてないことが嬉しくて、また少し頬が熱くなる。
私は理系くんの袖を掴んだまま、チケットを渡してエントランスゲートをくぐる。
まず目を引くのは写真スポット。
等身大のリングマスターと一緒に写真が撮れるようになってて、サーカスっぽい雰囲気が一段と高まる。
お手洗いは野外フェスとかで使われるような移動式のものが並んでて。
まさにテントが移動式で、常にここにあるわけじゃないのを物語ってて。
夢の中にいるような空気をさらに強めてくれてた。
正面には売店。元気な外国人の店員さんが『イラッシャーセー』てカタコトの日本語と溢れんばかりの笑顔で集客してる。
私たちは相談の上、キャラメルポップコーンだけを買った。
私たちの前で、さっきの黒髪ロングのお姉さんたちが同じキャラメルポップコーンを買っていた。
けど、あまりに綺麗な彼女のほうを意図的に見ないようにしてる理系くんの誠実さと、でも私を見つめるわけでもない不器用さに、また心が暖かくなる。
テントの中はスゴかった。
暖房が効いているのか、意外に中は暖かい。
でも気温なんか感じないほどの威容に言葉を失う。
「――テントの天井まで7から8メートルくらいかな。あんなに上までハシゴがかかってる」
理系の言う方を見ると、梯子と言うには心許ない、細い紐と棒を組み合わせたモノが天井から下がってた。
「あんなに上まで行くの!?」
「うん。たぶん空中ブランコだろうね」
実は高所恐怖症の私。
高いところを見ると手にじんわりと汗をかくくらい高所が苦手だ。
私が登るわけでもないのに、少し心臓が冷える。
理系くん楽しんでるし、怖いかもなんて言えないな。
――ふと、高すぎる天井を見上げる私の左手が暖かい手に包まれる。
「――大丈夫。こういうのは安全率を高めに取ってあるから」
優しい笑顔で微笑みかけてくる理系くん。
あのね。察する力、高すぎない?
あんな高いところから落ちたらどうしようとか、いろいろ考えて怖くなってた私。
理系くんのおかげで怖さが全然なくなってしまった。
「理系くん、安全率って?」
「使用想定よりも強めにマージンを取って設計することなんだけど、倍くらいの負荷がかかっても空中ブランコは壊れないはずだよ。安心して」
壊れるかどうかを心配はしてなかったけど、人が失敗するよりも機材の心配をするところが理系くんらしくて。
「サーカスっていう非日常の中で、理系くんだけが現実みたいに隣りにいてくれるのが、すごく幸せ」
感情が口に出た。
理系くんは少し照れた様子で目を伏せて。
「――僕もね。憧れだったんだ。彼女とサーカスに行くの。だから――すごく幸せだ」
このあと「あ、誰でもいいってわけじゃなくてね! 文系ちゃんなら一緒に楽しんでもらえると思って、文系ちゃんだから嬉しい」なんて気遣いを見せる理系くんの優しさに満面の笑顔になった私は。
「ねえ理系くん! 早く席に座ろう! 私たちちょっと邪魔になってるかも」
満面の笑顔で理系くんを座席に押し込めた。
サーカス本編に続きます。




