摩擦と慣性
理系くんと文系ちゃん。
理数系の話題は理系くんが強くて、文系歴史系は私が得意。
動物は二人とも好きだし、私がオタクだからアニメや漫画の話題も行ける。
時事系は理系くんが把握している。
二人揃えば無敵――だと思ってた。
足元が氷になるまでは。
「――いてて」
これで何度目だろう。
強かに打った腰をさすりながら、壁に手をつき立ち上がる。
冷たい氷と、しんと冷える空気が頬を刺す。
「文系ちゃん大丈夫……?」
そう言う理系くんの立ち姿も、生まれたての子鹿のようにぷるぷる震えている。
「氷の上で立ってられるだけでスゴイよ理系くん」
――私たちはスケートに来た。
都内にあるスケート場。
とても来やすいし、近くに国立競技場もあって、駅を降りた瞬間に少しテンションが上がる。
二人とも初めてのスケート。
重いスケート靴に驚きながら入ったスケートリンクは、東京の冬より圧倒的に寒くて。
軽快に滑る人たちが氷を削る音が、リンクに響き渡っていた。
ネットで紹介されてるのを見て軽い気持ちで来てみたけど、想像以上に難しかった。
「地面の摩擦力を恋しく思ったのは初めてだ」
「立ってることすらできないとは思わなかったよ……」
――と言うかね。
「ちょっと私、自分の引きこもりっぷりを甘く見てた」
「僕もこんなに動けないとは」
私たち二人とも、絶望的に運動オンチだった。
二人とも、ほぼずっとスケートリンクの外周の壁から手を離せない。
「手を離そうとするとすぐ滑るんだけど、なんで」
「……物理的にいえば、摩擦係数がほとんどない氷の上に立てるわけがないと思う」
「――だよね」
なんて言いながらも、理系くんは果敢に壁から手を離す。
「重心を低く……体の中心線を意識して……」
生まれたての子鹿が、そのままの姿勢で遠ざかっていく。
手を離した瞬間に転ぶ私に比べたら、立ててるだけで本当にすごい。
でも、あれ大丈夫?
「理系くん! 壁から遠ざかってるけど戻ってこれる?」
「……………あ」
氷の上に立つだけで必死で、自分が勝手に遠ざかってることに気付いてなかったらしい。
そして。
慌てた理系くんは盛大に転んだ。
それはもう、周りで普通に滑ってる人たちが驚くくらいド派手に。
「わー、理系くん大丈夫!? 話しかけてごめん!」
「いてて。だ、大丈夫」
たぶん大丈夫ではない。
そもそも壁がなければ立ち上がれないのだ。
どうやって戻ってくるんだろう。
……あ。なるほど。
理系くんは四つん這いのまま、私の方に戻ってこようとする。
二足歩行の子鹿が、四足歩行になった。
いやいや、こんなこと言ってる場合じゃない。
その時。
軽快に滑るお兄さんたちが、二人で子鹿――理系くんを助けに来てくれた。
まさかの助け舟に驚いた四足歩行の子鹿――理系くんが慌てて、助けられながらもう一度転んでた。
「オレたち北海道出身なんで滑れますけど、最初は立つだけでも難しいですよね」
お兄さんたちはそう言ってくれた。
たぶん、助けられた恥ずかしさで耳まで真っ赤な理系くんへ、フォローしてくれたんだと思う。いい人たちだ。
私は、少しチャレンジしようと、壁から手を離す。
そして、すぐに転びそうになって。
「文系ちゃん、あぶない!」
私を支えようとして手を出してくれた理系くんを巻き込んで、一緒に転んだ。
冷たくて硬い氷の上に座りながら、少し呆然として。
「私たち運動オンチすぎない?」
「だね」
顔を見合わせて、ひとしきり笑った。
そのあと、一時間くらい滑ってスケート場を出た。
「……慣性の法則を実感できる、いい体験をしたね」
「あはは」
近所のおしゃれなカフェで、反省会だ。
理系くんは、頼んだケーキを頬張りながら口を開く。
「あんなに滑れないなんて……」
「うん。私もビックリした」
あのあと、二人とも何度も転んだ。
今でも手やお尻が痛い。
でも理系くんの方が何倍も転んでたし、同じお兄さんに、さらに二度救助されてた。
「文系ちゃん。嫌じゃなければまた来よう」
「――うん」
あ。理系くんの素敵なところがまたひとつ。
そういえば本も苦手で読まなかったらしいのに、私に合わせて読み始めて。
いまではすっかりハマってくれていた。
新しいことを始めることに躊躇がない。
「摩擦係数の小さい氷の上での最適な立ち方を考えなきゃ」
摩擦があるから立っていられる。
当たり前のことが当たり前じゃなかった。
「慣性があったほうが運動姿勢は安定するはずだから、たぶん前に滑ったほうがいいんだ」
「そもそも私たち、運動不足すぎない?」
「――確かに」
私たちの関係も、慣性に合わせてゆっくり進んでいく。
そこに二人の推進力を加えれば、安定するのだろうか。
目の前のちょっぴり負けず嫌いな男の子を、愛おしく思いながら。
私はもう一度、全身にアザを作る覚悟を決めた。
心からの笑顔とともに。
次は手を繋いで滑れますように。




