『少年の日の思い出』
「ねえ、理系くん」
私は隣を歩く理系くんに声をかける。
「なに?」
「この間、動物園で蝶を見て思い出したんだけど」
「うん」
「ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』って小説覚えてる?」
理系くんは記憶を手繰ろうと、明後日の方を見る。
「知ってる? じゃなくて覚えてる、なのか」
「うん。少年が友達の蝶の標本を盗んで壊しちゃう話」
「……あ。授業でやった……気がしないでもない」
これは多分曖昧だろうな、と微笑ましく思いつつ。
学校によっては授業でやってない可能性もあるのかなと思い直して、私は話を続ける。
「友達の蝶を盗んで、しかも壊して。そっと戻したけど、罪悪感に苛まれて、ちゃんと謝りに行って――って話なんだけど」
「あー、そんな話やった気がする。中学くらい?」
「そうそう。それでね」
私は記憶を頼りに言葉を続ける。
「童話ってだいたい謝れば許してもらえるのに、この話は一切許してくれないの」
「……そうだっけ」
「それで相手の子に、『そうか、そうか。君はそういうやつだったんだな』って言われる」
この言葉、今でも心に刺さってる。
「たぶん子供心に、無意識に尊敬してた相手から、罵りでもなく、軽蔑される恐怖。当時はちゃんと分からなかったけど、相当えぐられたと思うんだよね」
「その言葉、文系ちゃんに言われたら、たぶん立ち直れないと思う」
妙に真剣に受け取る理系くんが愛おしくて。
ちょっとからかいたくなってしまった。
「浮気したら言ってあげる。冷たい目で『そうか、そうか。君はそういうやつだったんだな』って」
「やめて!」
二人で歩きながら、同時に笑い出す。
浮気なんて強い言葉を使っても、二人で笑い合える。
こういうのを信頼と呼んでいいんだろう。
「理系くんは子供の頃の失敗ってある?」
「……ある」
「なに?」
一瞬躊躇したような理系くんが、一呼吸置いて口を開く。
「幼稚園の頃。母さんが『猫の手も借りたいほど忙しい』って言うから、近所の猫を追いかけ回して捕まえたんだけどさ」
「え、なにそれ可愛い」
「前日に雨が降ってたから全身泥だらけ。でも猫を捕まえたから褒めてもらえると思って、ドロドロのまま満面の笑顔で猫を差し出したんだ」
「うん、そしたら?」
「『猫の手も借りたいときに、仕事増やしてくれたわね』って。爆笑された」
「あはは」
「結局『ありがとね』って頭を撫でられたんだけど」
いい話すぎる。
これを失敗として記憶してる理系くんも可愛い。
「文系ちゃんは無いの? 失敗」
「ある」
「聞きたいな」
自分の失敗を話すのは気恥ずかしいけれど。
理系くんには、ちょっと聞いてほしくなってるから不思議だ。
「小さい頃“プリンセス”に憧れてて」
「いきなり可愛いな文系ちゃん」
「フリフリのスカートが欲しくて、お気に入りのワンピースにハサミを入れちゃって」
「え。それでどうしたの?」
「台無しになったワンピースを見て、自分で号泣。お母さんも呆れてた」
結局、アニメキャラのドレスを買ってくれたんだっけ。
ワンピースをダメにしちゃった罪悪感を思い出した。
ヘッセの書いた“僕”が最後に自分の宝物を全部壊した気持ち、今ならなんとなく分かるかも。
なんの贖罪も許されず、ただ罪悪感だけが心に残るなんて地獄だ。
互いの失敗を笑い合える理系くんに感謝しながら、理系くんの笑顔を見上げる。
「文系ちゃんは昔も可愛かったんだな」
「あ、昔“も”って言ったね」
耳を真っ赤にして慌てる理系くんの姿に、子供の頃の自分がちょっぴり許された気がした。




