糾える縄の如し
【理系くんSide】
うまくいかない日、というのはなぜか存在する。
悪い方の確率が、たまたま同じ日に重なっただけなんだろう。
占いはあまり信じない。
だって今日の占いは「運勢最高」だったから。
「――この課題ね。“対数軸で”表を作れって書いてあるよね」
朝イチ。
教授の第一声がそれだった。
一週間かけて書いたレポート。
評価はD。
再提出。
「内容はいいんだよ。データの集め方も丁寧だし、考察も悪くない」
ショックで教授の言葉が頭に入ってこない。
声が遠くで聞こえる気がする。
「でも、課題の意図が見えてない。論点がズレてる」
出題の意図の読み取り。
確かに苦手だ。
ただ、内容的に高校化学の延長みたいに見えたから、油断した。
データ集めが楽しくて、時間をかけたのに。
そもそもの見せ方を間違えていた。
“対数軸でプロットして直線になるかを見る”
そこが課題の芯なのに、僕は生データのまま表を作って、「相関があると思います」みたいな結論を書いてしまっていた。
「再提出……いつまでですか」
「明日ね」
参った。
今日はこれから文系ちゃんに会う予定だった。
今からやり直せば――会うまでに間に合うだろうか。
……これが、よくなかった。
気付けばデートの時間ギリギリ。
文系ちゃんはレポートのためなら、遅刻しても仕方ないって絶対言ってくれる。
だからこそ、その優しさには極力甘えたくなかった。
(走ろう――!)
完全に忘れていた。
昨日降った雪で、地面が凍っていたことを。
足が、空振りした。
次の瞬間、体が横に流れて――肘から落ちた。
痛い。
というより、手袋の中が熱い。
立ち上がった瞬間。
遅刻、という文字だけが頭の中に残った。
(血……?)
見ないふりをして走った。
痛みよりも、会う時間を雑にしたくない気持ちのほうが勝ってしまった。
【文系ちゃんSide】
私はページをめくる指が、急に重くなるのを感じた。
『炎の魔女よ。なぜ俺の言葉が届かない!』
若い錬金術師が叫ぶ。
魔女は答えない。
答えないまま、炎だけが広がっていく。
そして、やっと知る。
天涯孤独だと思っていた魔女に、
たった一人、大切な存在がいたことを。
妹。
魔力を持つからと、実験材料にされていた。
助け出した時には、もう遅くて。
魔女は言う。
『孤独のままなら、つらくなかったのに』
――私は、そこで本を閉じた。
暖かさを知らなければ。
人の心を持たなければ。
失う辛さなんて、知らずに済んだのに。
魔女の言葉が、私の胸に刺さったまま抜けない。
もし家族や理系くんを失うとしたら。
私は耐えられるのだろうか。
そんなこと、考えたくないのに。
考えてしまった。
【理系くんSide】
あちこちにアザを作って、やっとたどり着いた待ち合わせの駅。
このあとはネットで見つけた美味しそうなパンケーキを、二人で食べに行く予定だった。
なのに。
電車が降雪のため運休。
踏んだり蹴ったりとは、このことだ。
「理系くん、このあとどうしようか」
どこか、文系ちゃんの元気がなく見える。
僕も散々な一日で、元気が出なかった。
でも二人でいる時間を雑に扱いたくなくて、必死に頭を回転させる。
「……いつもの喫茶店で、ゆっくり本でも読もうか」
こんな普通のことしか言えない自分に落ち込む。
文系ちゃんが元気がないときは、せめて彼女の好きなものに触れさせてあげたい。
そう思って提案した――のだけど。
【文系ちゃんSide】
心なしか、理系くんの元気がない。
彼がここまで分かりやすく落ち込んでいるのは珍しい。
私も私で、さっきまで読んでた本に心を引っ張られて、明るさが発揮できずにいた。
「理系くん、このあとどうしようか」
こんな気の利かない言葉しか出ない自分に落ち込む。
「……いつもの喫茶店で、ゆっくり本でも読もうか」
“本”というワードで、さっきの『炎の魔女』が一気に蘇る。
普段ならこんなに引きずらないのに。
好きな作品だからこそ。
好きなキャラクターたちだからこそ、感情移入しすぎてしまっていた。
あ、だめだ。
こんなタイミングで泣いてしまう。
【理系くんSide】
え。
文系ちゃんが泣いた。
僕が泣かせた?
どうしよう。
何が悪かったんだろう。
浮かない表情をしていたかもしれない。
つまらなそうに見えただろうか。
「文系ちゃん、あの……」
「――ごめん、理系くん。違うの」
違う?
でも言葉に、僕を責める色がない。
僕はそれを文系ちゃんの優しさだと受け取った。
僕はゆっくりと文系ちゃんの背中をさする。
指先が震えないように、力を抜いて。
「ごめんね、文系ちゃん」
文系ちゃんの震えが、彼女の背中から伝わってくる。
「一週間かけたレポートが再提出になったのと」
僕はなるべくゆっくり話す。
「雪道で転んだのと」
自分の1日を咀嚼するように。
「僕が企画したのにパンケーキ食べに行けなくて」
なんだ。不運じゃなくて、全部自分が悪かったんだ。
「……全部、申し訳なくて。ちょっと元気失ってた」
「――え」
「でも、文系ちゃんの顔を見たら、ちゃんと元気出たから。だから……泣かないで」
「違うの、理系くん。私――」
「違う?」
「うん……さっきまで読んでた本が悲しくて」
「……うん」
「大切な人が死んじゃう話だったから……」
文系ちゃんはゆっくりと息を吸い込む。
「理系くんの手から血が出てるの見えたら、余計に悲しくなっちゃって」
しまった。
ケガしてるか見る余裕もなかった。
いや、見ないふりをしてた。
「……文系ちゃん、ごめん」
「謝る必要はないよ」
「…………」
「でもね――ケガするくらいなら、遅刻してくれたほうが悲しくない」
その言葉が、痛いくらい優しくて。
僕の胸の奥に、ゆっくり沈んだ。
【文系ちゃんSide】
理系くんは、自分が辛いときでも、私を労ってくれた。
私の好きなものを、差し出してくれた。
たぶん、彼なりに一生懸命だった。
不器用なくらい真面目に。
禍福は糾える縄の如し。
幸と不幸は、撚り合わさった縄のように交互にやってくるって言うけれど。
理系くんに出会えてからは、感じる不幸よりも、もらってる幸福のほうが多すぎて。
不幸が細くて、幸福が太い。
そんな偏った縄になってる気がした。
「……理系くんに出会えてよかった」
口から出て、あとで自分がびっくりした。
物語の主人公に、
『出会わなければ良かったなんて、そんなこと絶対にない』
って言ってあげたかった。
なのに、いま私は。
理系くんに向かって、それを言っている。
理系くんの耳が、みるみる赤くなる。
痛いところをかばうみたいに、でも必死に平気な顔をして。
それが可笑しくて。
それが愛しくて。
私は、胸いっぱいの幸せを感じた。
【理系くんSide】
「理系くんに出会えてよかった」
そんなストレートな言葉を、僕が受け取っていいのだろうか。
今日みたいに、うまくいかない日ですら、
文系ちゃんは僕を責めないで、救ってしまう。
僕の中で、幸福が増えていく。
指数関数みたいに。
気付けば、加速度がついている。
文系ちゃんの背中をさする手から、じんわり伝わってくる熱が、いま僕が生きてることを、僕に教えてくれた。
不運も、痛みも、間に合わなかったパンケーキも。
全部が絡まって、ほどけなくて。
それでも、最後に残ったのは――
(……文系ちゃんに会えてよかった、ってことだ)
僕は口にする代わりに、背中をもう一度だけ、そっと撫でた。
糾える縄のその先に、今日の僕らがちゃんと結ばれている気がした。




