届かない声と、届いた気持ち
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
今日のバイトは理系くんと入れ違いで、私が入るころ、理系くんはランチ営業を終えて帰る。
冬なのに嘘みたいにあたたかい夕方。
風もなくて、本当なら過ごしやすい一日のはずなのに、私は心底憂鬱だった。
――というのも。
「ねえ、お姉さん。ご飯でも行かない?」
「だからこれからバイトだって言ってるじゃないですか」
ナンパだ。まじりっけなし、下心100%のナンパ。
「えー、バイト先どこ?」
「……それ、言うと思います?」
ちょっと急いでたから、いつも通らない近道を使ったのが間違いだった。
繁華街の端っこ。人通りはあるのに、なぜか“助けて”って声が出しづらい道。
男は、冗談みたいにへらへら笑いながら、私の前に半歩だけ出る。
完全に塞がれてはいない。けど、横を抜けるのが妙に怖い。
「ほらほら、せっかくだしさ」
「……急いでるんで」
私には理系くんがいるのに。
――そのとき。
遠くに、いつものパーカーを着た理系くんが見えた。
助けて。
でも、喧嘩になったら困る。理系くんはたぶん、身を挺して守ってくれる気がする。
でも。
「り――」
叫ぼうとした瞬間、彼と目が合う。
確かに合った。
合った――はずなのに。
理系くんは、視線をほどくみたいに一度だけまばたきをして、そのまま駅のほうへ歩いていった。
助けて、の声は胸に詰まって届かなかった。
――でも、スルー?
男の声が耳に入らない。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
(男と話してるのに、気にならないってこと? 私のことはどうでもいいのかな……)
急に喋らなくなった私を不審に思ったのか、男は一瞬よそ見をした。
その瞬間を見計らって、横を走り抜けた――けど。
理系くんのことでいっぱいな私は、もうナンパ男のことなんか頭に残ってなかった。
たぶん過去一番、死んだ顔をしていたと思う。
【理系くんSide】
あれ、文系ちゃんだ。
でも、隣にいたのは――友達?
距離が妙に近く見えて、声をかけたら逆に困らせる気がした。
邪魔しちゃいけない。
そう思って、僕は表情すら見ないまま、その場を離れてしまった。
(あとで、“無視したわけじゃない”ってLINEを送ろう)
バイト帰りの電車の中。
さっきの文系ちゃんが、頭から離れない。
――そのとき、バイト先の先輩からLINEが届いた。
『なあ、文系ちゃん駅前でナンパされてなかった?』
鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
いや、殴られたほうがマシだったかもしれない。
……ナンパ?
あれ、ナンパだったのか。
軽率な自分に腹が立つ。
僕は慌てて文系ちゃんに電話をかける。
――出ない。
本来ならバイト中の時間だから出なくてもおかしくない。
なのに、恐怖だけが思考を支配していく。
(逃げられただろうか。怖い思いをしただろうか。僕は――)
僕は電車を降りて、反対のホームへ走った。
合理的に考えられない。
駅を出て、タクシー乗り場を探す。
普段使わない駅だから、見つけるのにも時間がかかる。
やっと見つけて、飛び乗った。
「どちらまで?」
「……えっと、〇〇って居酒屋へ」
距離にしたら十数分。
なのに永遠みたいに長い。
店の前に着くと、窓の向こうに文系ちゃんが見えた。
鈍感な僕にさえ分かるくらい、元気がない。
不安と、申し訳なさと、後悔と。
全部が一気に爆発した。
「文系ちゃん!!」
【文系ちゃんSide】
夕方の、まだお客さんも少ない店内に、理系くんの声が響き渡る。
「――え。理系くん!?」
「ナンパに遭ったって!? 大丈夫!? 怪我はない!? 嫌なことされてない!?」
理系くんが、こんなに大きな声で話すのも、こんなに悲しそうな顔をするのも、初めて見た。
理系くんの愛を疑ったことを謝りたいほどに。
まっすぐ私を見てくれて、全身で心配してくれている。
それだけで、胸の中の冷たいものが溶けていく。
「……店長」
キッチンの奥で呆然としている店長に、私は声をかけた。
「ちょっと体調が悪いので、早退してもいいですか」
多分いま、笑顔を隠せていない。
でも、この状態の理系くんを放っておけなかった。
「……ああ。今日は何とかする」
空気を読んだ店長が、うなずいてくれる。
後ろでは理系くんが、「体調悪いの!? やっぱり何かされた!?」って、まだ焦ってる。
私は理系くんの手を握って、エプロンをしたまま店の外に出た。
みんなの視線のないところで言いたいことがある。
「理系くん、ありがと。ほんとに何にもされてない。大丈夫」
「……ほんとに? でも早退って」
「うん。理系くんと帰りたかったから仮病使っちゃった」
店長にバレバレでも、そんな無粋なことは言わない。
「……ごめん、文系ちゃん。友達だと思った。邪魔したら困ると思った。……でも、違った」
落ち込む理系くん。
私も見捨てられたと思って、落ち込んだのは事実。だけどね――理系くんも、そんなこの世の終わりみたいな顔しないで。
「ねえ、理系くん。一緒に帰ろう」
「……うん、分かった」
私はここで、一番可愛い笑顔を込めて、理系くんに言った。
「これからは、理系くんが私を守ってくれるよね?」
「もちろん」
大声じゃない。
でも、今までで一番強い声だった。
このあと、お店でしばらくの間からかわれて、二人で赤面することになるんだけど。
そんなことは些細なことだと思えるくらいに。
私は、届かなかった声のかわりに。
届いたぬくもりを、ぎゅっと握りしめていた。
二人に嫌な思いを指せるの、作者的にもツラいところがあります。




