原色瀑布と蟻地獄
くさったしたい が あらわれた。
今では妻に財布を管理してもらっているのですが。
浪費家の僕は、無意味に、無用の長物を買い込んでしまうことがありまして、例えば、CD。
九十年代は最も大衆音楽が生産され消費された時代といえそうですけれども、僕は多感な時期をその中で過ごしたわけです。かかるがゆえ、ポップまたはアンダーグラウンドな大衆音楽に通暁しておりまして、いまだに熱を傾けてしまうんですよね。
そうして、まだ財布が自由になっていた近い過去、ダークサイとかゴアとか呼ばれるジャンルに十数万を費やしたことがあるんです。
これはトランスの一種、突然変異的傍流、ですね。
トランス。パラパラとか、ユーロビートに代表されるような、あの、トランス・ミュージックです。
しかしダークサイやゴアの場合は、きわめて、重く、暗く、アングラ感の強い味付けが特徴です。プログレ的な世界観を踏襲しており、ディストピアめいた晦冥に浸るのを主眼としています。
ダークサイ、とは、ダーク・サイケの謂いですし、ゴアとは、八十〜九十年代にハードドラッグまみれのレイヴが隆盛していたインドのゴアという地名を出自としていますから。推して知ることが出来るでしょうか。
明るい、快活な昂揚感とは世界を別にしています。
例えば。フランシス・ベーコン作品の原色の酸鼻と、エッシャー作品の精緻なる狂気をつき混ぜたような。暗鬱、猥雑かつ硬質な疾走を極めていますね。
で。僕は。
そんな音楽を垂れ流しながら。
数年前までは飲酒していました。
酔人における不慮の事故死を迎えたって、おかしくない場面も、数多くありました。
さておき。さておいて。
いや、さて、おかず。
こうした音楽に忘我し、無我へ。
原色の瀑布にうたれ、さかしまの悟り、蟻地獄の明鏡止水へ。
いまだに、そうなりたいと考えています。だからこそ、通い慣れた暗い道を、足が覚えていた黯い通りを、数年ぶりの感覚もなく、自然しぜんに、ふっと歩み出すように、毒々しいトランスに大枚はたいたんです。
不惑とはまさに名ばかり。
人生のページを繰る手は弛みなく止まりはしないが、僕はましらのように、その文字をまるで読めない。
ただ色彩を感覚しているんです。
嗚呼。
ヒア・ウィ・ゴゥ。
カマン・ディー、ジェイ。
致し方なく、生きた尸のような。
有り様で。
かんかんのう。