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 自分の斜め横に座り、器用にシャープペンシルを操るアキを、見ないふりをして見つめる。

 時計の針は既に、二十一時を指している。こんな時間になっても自分の家に帰らず、ダンの部屋に置きっ放しになっていたダンには小さいパジャマを羽織り、一緒に高校の課題を解いているアキに、違和感しか覚えない。ダンの前世の幼馴染みであるはずのアキが、この世界にしっかりと溶け込んでいることにも。

 ダンの家族がこの家に引っ越してくる前から向かいに建っていた古い家に住む老夫婦が、アキ――日比野(あきら)――の父方の祖父母。アキの母は既に亡く、海外赴任が多い父は自身の両親にアキを預けているらしい。いつの間に、そんな設定が? ダンと同じ特進科に溶け込んでいるアキを見ても、もう一人の幼馴染み、ミカと三人で、小学校の時からずっとつるんでいたと聞かされても、どこか納まりの悪さを感じてしまう。だから、というわけではないのだが。

「微積、解けるか?」

 確か、ダンの前世であるあの世界では、三次方程式を解くことができれば『数学者』であるともてはやされていた。そのことを思い起こしながら、アキに小さく、尋ねてみる。

「教科書に、解き方、載ってるから」

 ダンの部屋の真ん中に置かれたテーブルの上の、数式が並ぶノートの横に広げられた本を指し示しながら、アキはダンを見て微笑んだ。

 ダンの目の前にある顔は、まさしく、かつて机を並べて様々なことを一緒に学んだ幼馴染みの顔。小学校の頃からずっと、アキはミカと共にダンの横にいた。……裏切りなど、犯すことなく。ダンがそう錯覚しかけた、次の瞬間。

「記号は見たことないものだけど、無限大や無限小は、お師匠様も色々考えていたみたいだし」

 再び俯き、積分記号をノートに刻みつけたアキの言葉が、ダンの幻想を打ち砕く。

「こっちの『sin』とか『cos』とかも、測量に必要だからってお師匠様に教わったよね」

 小さく響いたアキの声に、ダンは何とか頷いた。

「この『log』っていうのは、見たことないけど」

「aを底とするbの対数。a^x=bという方程式を満たす解を表している記号」

 続く、ダンの様子を気にも留めないアキの疑問に、半ば上の空で解説を返す。やはり、アキは。

「アキ……」

「最初はね、ダンを殺すよう、言われたんだ」

 主語の無い、しかし衝撃的な言葉に、思考が止まる。

「でも、それは、嫌だったから」

 そのダンの耳に、アキの声が小さく響いた。

 ダンの祖父である先王の死後、ダンの暗殺計画が持ち上がっていることを知ったアキは、計画の首謀者であるダンの父、あの世界の現王を説得し、ダンを、自らが編み出した魔法でこの世界に転移させた。気を失わせる程度の毒の入った飲み物をダンに飲ませたのも、異世界に転移させる時にダンが混乱を起こさないよう、配慮したため。

「この世界なら、魔法は無いけど、機械が発達しているから、あの世界で生きているより面白いんじゃないかと、思ったんだけど」

 ダンの部屋をゆっくりと見回したアキの、光る瞳が、ダンをじっと見つめる。

「やっぱり、あの世界の方が良い?」

「……いや」

 そのアキの、どこか責めるような視線に気圧されし、ダンは小さく首を横に振った。ダンがあの世界に拘るのは、ダンを殺そうとした父が憎いから。そして、ダンを裏切ったアキに対して、冷たい熱を抱いていたから。アキに対する蟠りは、今は無い。

「そう」

 良かった。微笑んだアキの唇が、大きく開く。ふわりと大きく伸びをしたアキは、課題をテーブルの上に広げたまま、ダンのベッドに潜り込んだ。

〈全く〉

 しばしばダンの部屋に泊まるアキのために現世の母が用意してくれている布団が、部屋の隅に積み上げてあるのに。肩を竦めてから、アキの、小さな肩に軽い羽根布団を掛ける。あの世界でも、アキは、ダンの豪奢なベッドに潜り込むのが好きだった。すやすやと眠るアキの柔らかい髪をそっと撫でると、ダンは通学用の鞄から件のノートを取り出した。

 手垢のついたページを、アキに気付かれないように無音でめくる。アキに対する怒りは、無い。……だが。

 顔を上げ、時計を確かめる。向こうでは、王は廷臣達に囲まれて政務を行っている時間だ。もう少し待ってからの方が良い。自然な欠伸を噛み殺すと、ダンは暖かい、アキの横に滑り込んだ。

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