2
「……今日も一人で部活?」
明るい声が、ダンの思考を中断する。
幼馴染みの、ミカの声。振り向かずとも、ミカ――佐々木美夏――の重いお下げが化学実験室の廊下側で揺れているのが、ダンには分かった。
「いや」
その声に、復讐の対象であるあの王が起居する王城の平面図に目を落としながら首を横に振る。
「課題。多量に出された」
しかしすぐに、ダンは無地のノートをパタンと閉じた。幼馴染みといえども、この、ダンが常に持ち歩いているノートの中身は、……見せられない。実際問題、この2、3日、新たな作戦をひねり出そうとしていた所為で、現世におけるダンの職務――長谷川暖という名の、とある進学校に通う高校生――を疎かにしてしまっている。「勉学に身が入っていない」と授業毎に叱られ、普段の倍になってしまった課題を、ダンは古いノートを隠すように実験用の広い机の上に積み上げた。
その課題の一つを開き、しかし同時に課題の下になったノートを引っ張り出す。ダンの背後には、誰の気配も無い。ダンが「部活」と称して占拠しているこの化学実験室は校門から離れた場所に位置しており、放課後にここを通る者は皆無。部活自体も、進学至上主義のこの高校では蔑ろにされていて、ダンが所属している「理科部」も、実質はダン一人が理科室の薬品を勝手に弄ぶだけの、ダンにとっては都合の良い存在になっている。邪魔をすると途端に不機嫌になるダンの性格を知り尽くしているからだろう、ミカも、既にいない。「幼馴染み」というものは、こういう時に楽だ。口の端を上げた瞬間、もう一人の幼馴染みの微笑んだ顔が脳裏を過ぎる。
「……!」
出かかった罵声を、ダンは分厚い天板の机を叩くことで飲み込んだ。ミカは、ダンの隣の家に住み、小学校から同じ学校に通っている幼馴染み。そして、あいつ、……アキ、は、一緒に育ったダンを裏切り、ダンを嫌う父の側につき、ダンに毒を盛った。
「魔法」というものが普通に存在した世界にある、とある王国の王太子。それが、ダンの前世。大きな石造りの王城で、王であった祖父に可愛がられて育ったことを覚えている。魔法と学問を愛していた祖父は、政の合間に学者に講義をさせ、孫であるダンにも、魔法の技と大量の知識を叩き込んでくれた。そして、祖父の周りに侍っていた学者の一人、博識な魔法使いが弟子として育てていたのが、アキ。
祖父の背中を見て、ダンは、将来自身も携わることになるであろう政を覚えた。そして、アキと共に、あの世界にある魔法の技の殆どと、新たな魔法を作っていく術を教わった。持ち上げられていただけかもしれないが、次の次の王として、素質も素養もしっかりあると言われ続けていた。だが。祖父の死後、新たな王となったダンの父は、対立していた自身の父が可愛がっていた息子のダンを忌避し、自身のもう一人の息子、ダンの弟に王位を継がせるために、アキに命じてダンを暗殺した。
微笑むアキから渡された杯の色が脳裏を過ぎると同時に、飲んだ液体が時間差で起こした全身の痛みがダンを襲う。実験用の机をもう一度殴ることで何とか全身の震えを止めると、ダンは色褪せたノートの、自分が書いた幼い文章に指を置いた。身体の内側から焼ける痛みに悶えたダンが次に目にしたのは、亡くなったはずの母の胸と、規則的な音を立てる、それまでに見たことの無い、四角四面の機器類。「魔法」の無い、石油と電気で動く機械が発達した世界に生まれ変わったことをダンがはっきりと意識したのは、文字が書けるようになった頃。前世で味わった裏切りと屈辱による冷たい熱を、意識したのも。
幸いなことに、理屈は分からないが、前世で習得した魔法は、魔法の無いこの世界でも使うことができた。自身を暗殺した父と、裏切った幼馴染みは、許せない。その熱に浮かされたように何年も試行錯誤を重ねた末、最近になってようやく、かつて自身が生きていた前世に赴く魔法を編み出した。暗殺された歳と同じ十七でこの魔法を作り上げた偶然には構わず、ダンは何度も、前世に向かった。……父に、復讐するために。
だが。再び脳裏を過ぎった幼馴染みの丸顔に、王城の平面図をなぞっていた指が止まる。これまでの暗殺計画はことごとく失敗している。おそらくあいつが、裏切った幼馴染み、アキが、ダンの次に長けていた魔法で王を守っているのだろう。冷たい熱が滾るのを、ダンは止めることができなかった。どうすれば、アキを出し抜いてあの父を殺すことができるだろうか? 夕刻の薄闇の中に消えてしまったノートの文面に息を吐くと、全く手を付けていない課題と手垢のついた件のノートを一緒くたに鞄の中に放り入れ、ダンは一人占めしていた化学実験室を出た。
重い鞄を背負い、家路につく。
考えることは、ただ一つ。……どうすれば、父一人を殺すことができるだろうか?
ダンの魔法を使えば、父が起居する王城を物理的に破壊し、重い石の下に父を沈めることができる。だが、この方法は、他の犠牲が甚大すぎる。何かを成すための犠牲は、なるべく少なく。それが、敬愛する祖父の姿勢。その姿勢だけは、崩したくない。ダンの試行錯誤は、現世の父母が迎えてくれる家に帰り、こざっぱりした自分の部屋の清潔なベッドに横たわるまで続いた。
眠りに落ち、再び目覚めるまでの間に、閃く。しかしのろのろと、ダンは重い鞄から古いノートを取り出した。……父を守るアキを、殺せば、あるいは。
かつてダンとアキに魔法の術を叩き込んでくれた師匠が使っていた部屋の隣にある小さな従者用の部屋を、アキは、師匠が老衰で亡くなってからもずっと使っていた。今も、使っているはずだ。幾度も描き直した、かつて暮らしていた王城の複雑な平面図を、夜明け前の光を使って辿る。時計の針は、午前六時を指している。今から向こうへ出掛けても、高校には遅刻しない。向こうは丁度夕刻だから、仕掛けるには丁度良い。床に投げ出していた制服を肩に引っかけると、父のために作っていた毒薬の瓶に、ダンは手を伸ばした。……自分を裏切ったアキを、許しておくわけにはいかない。瓶を持った手の震えを無視し、ダンは前世に赴く呪文を小さく唱えた。




