8 崩れる
冴木孝行のマンションを、二人の刑事が訪ねたのは金曜の午後九時である。
ひとりは四十代の刑事で、もう片方は、髪をクルーカットにした屈強そうな若い刑事だった。
二人は入ってすぐの応接間に通され、在宅していた冴木本人がその対応にあたった。冴木の妻の実嶺がコーヒーをテーブルに並べて部屋を出ると、冴木のほうから口を開いた。
「なにか伯母の事件でわかったのでしょうか」
沢口と名乗った年長の刑事が相好をくずした。名刺には県警の警部とある。紺のスーツを着こなし、髪には櫛目が入っていて、刑事という言葉でイメージする野暮ったさはない。会社勤めのOLが理想の上司に選びそうな大人の男の雰囲気と、シェパード犬を思わせる俊敏さを身につけている。若手の刑事のほうを、筑紫野署の大門と沢口は紹介していた。
「じつは今夜おうかがいしたのは、あなたの大学時代の友人の鵜次虫男さんの件でして。それより、奥様はずいぶんとお綺麗なかたですね」沢口は実嶺が消えたドアを、意味ありげに見てから冴木に向き直った。「鵜次さんはご存じですね?」
「もちろん。大学でゼミが一緒でした。彼があんなことになるとは思ってもいませんでした。しかし刑事さん、あれは事故だったんじゃないんですか。そう聞きましたけど」
「鵜次さんが亡くなったのはご存じなのですね。事故というのは、どなたから聞かれたのですか」
「そうですね。誰だったのかはおぼえてませんが、同じゼミ仲間からだと思いますよ。鵜次が亡くなった内容の電話を数人からもらいましたから、その際に、酔って川に落ちたらしい、溺死で事故らしいと聞いたのだと思います。葬儀が佐賀でしたので、出席せず弔電ですませましたから、電話で聞いたのは間違いないはずです」
「鵜次さんと最後にお会いになったのはいつですか」
「ずっと会っていなかったのですけど、鵜次が亡くなる少し前、去年の十月の終わりごろですか、近くにきたので寄ってみたと、ひょっこり訪ねてきたのが最後でしたね」
「そのときの鵜次さんの様子はどうでしたか。気になった点とかありませんでしたか」
「べつに。普通でしたよ。互いの近況を話して雑談しただけです」冴木は口調をあらためて続けた。「刑事さん、先にお断りしておきますが、私は鵜次とゼミが一緒だっただけで、友人と呼べるほどの間柄ではないんです。日ごろから連絡を取り合っているわけでもありませんし、せいぜい年賀状のやり取りをしている程度の仲です。鵜次のことを聞かれても、私にはほとんど答えることができないと思いますよ」
「なるほど。では、質問を変えますが、博多区住吉×丁目平和アパートに住まわれている、杉浦保という人物に心当たりはありませんか。××電化社のサービスセンターに勤務の方です。修理の部署ですね」
冴木はメガネ越しに、視線を宙に向け考えるような仕草をしてから、首を横に振った。
「おぼえがありません。初めて聞く名です」
「じつはこの人物の、いま言った住所と名前を控えたメモが、鵜次さんのアパートから見つかりまして」
「それが私となにか関係があるんですか」
「いや、そういうわけでは。ただこの杉浦なる人物と鵜次さんが、どう調べても結びつかないものですから、私たちとしても気になっているわけです」
「それでしたら、その人のところに直接話を聞きにいったほうが早いでしょう」
「もちろんそうしました。しかし杉浦さんのほうも、困ったことに、鵜次さんのことはまったく知らないという返事なんです」
「それじゃあ、私になおさらわかるわけがありませんよ」
冴木は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
若手の大門刑事が、眉ひとつ微動だにせず、そんな冴木をじっと見つめている。
「おっしゃる通りです。あなたにわかるはずがありません。ところがここに、興味深いことが浮かび上がってきたんです。遠慮なくご馳走になります」
沢口はコーヒーを口にした。
「順を追って説明しますと、私どものある警部補が、再三杉浦さんを訪ねたのがきっかけでした。度々刑事にこられ、そのうえ何度も同じことを尋ねられた杉浦さんも、これにはほとほと困り果てていました。鵜次さんのことを思い出そうとしても、思い出しようがなく、逆に、かえってわからなくなってくる。そういう状態が長く続きました。そして今月になって、雑談のつもりで、ある話をされたのです。鵜次さんとは関係のないことだとしてですね。そして聞かせてもらった話というのが、じつに不思議な話なんです。
杉浦さんによると、昨年の十月に、街で見知らぬ女に声をかけられたのが始まりだったそうです。女はかなりの美人で、唐突に、話ができないだろうかと杉浦さんに言います。知らない女でも、美人からそう言われると男は弱いものです。それに女には、どこか思いつめた感じがあり、放っておけない気もしました。それで杉浦さんは、『フェアリー』という喫茶店に女と入ることにしたのです。
テーブルについても女はしばらく黙ったままでしたが、そのうちにようよう、じつは杉浦さんが、むかしつき合っていた恋人に瓜二つだと話し始めました。その恋人はバイク事故で呆気なく死んでしまったが、将来を誓い合った仲で、彼のことを思い出すといまでも胸が痛む。さきほどあなたを見かけたときは、それこそ心臓が止まる思いがした。もちろんあなたが彼でないことはわかっている、それでもどうしても声をかけずにいられなかったと、その美人は打ち明けたんですね。突然の死別で、いまでも彼が死んだことが信じられないことがある。彼が街の片隅で暮らしていて、偶然に出会うことがあるのではないかという、そんな思いがいつもしていたというようなことも言ったそうです。
そして、今日は時間がないから、後日もう一度会ってもらえないだろうか。勝手なお願いなのはわかっているが、もしあなたさえよかったら、一晩デートしてもらえないかと、杉浦さんの連絡先と名前を聞いて、その時は別れました。
その女から連絡があったのは六日ほどたった夜のことです。女は電話で日時を指定し、杉浦さんが半信半疑で待ち合わせ場所に行くと、すでに女が先にきて待っていました。午後七時です。女は最初あったときの装いとちがい、身体のラインを強調する赤いワンピースで、もうそれこそ蠱惑的でした。
まず女は、手にしていた紙袋を杉浦さんに差し出すと、この洋服に着替えて欲しいと頼みました。さすがに、ちょっといやだなと杉浦さんは思ったそうです。死んだ恋人の代理なんて、気持ちのいいものではないからですね。しかしこれだけの美人と一晩すごせるなら、多少は我慢しなければと、おとなしく女の言う通りにしました。地下街のトイレで着替え、着ていた服は、紙袋に入れてコインロッカーに預けました。女が最後の仕上げと、杉浦さんの髪型に手をくわえ、黒いフレームの度の入っていないメガネを顔にかけてくれる。そして杉浦さんを見つめると、これでそっくりと嬉しそうにうなずいたそうです。
それから杉浦さんと女の一晩が始まりました。
夜景の見えるレストランで食事をし、それから街の店々を見てまわり、ラウンジで酒を飲むというコースで、その間女は杉浦さんの腕を取り、さも以前からの恋人同士のように振る舞いました。そしてラウンジを出たあと、女のほうから誘いをかけるようにして、タクシーを利用して、二人で『セレナーデ』という名のラブホテルに入ったそうです。
杉浦さんはもう有頂天でした。たとえ死んだ恋人に似てるにしても、まさかホテルまで一緒に入るとは想像もしていませんでしたから、それこそ夢でも見ている気分でした。しかし杉浦さんが、女のすすめで先にシャワーを浴びて出てくると、女が突然泣きだしたのです。そしてじつは自分には夫がいること、あなたに抱かれたいと思ってここまできたが、いざとなったら、やはり夫を裏切ることができないと、さめざめと訴えてきました。これには杉浦さんもまいりました。自分から誘っておいていまさらと思いながらも、かといって、無理やり抱くのも気が咎めます。けっきょくは女をなだめ、なにもできないままにホテルを出たそうです。
女は別れ際に、このつぎ連絡するときは、二度とあなたにこんな思いはさせないと言い、必ず連絡するから、そのときは今夜と同じ服装できてもらいたいので、服とメガネはそのまま預かっていておいてほしいと微笑んで見せました。
しかし、二度と女から連絡はなかったそうです。
いったいあの女はなんだったのだろうと、杉浦さんは言われています。あのときはそうは感じなかったが、いまになって思うと、女はたしかに妙だったということです。服を着替えてくれと言うなら、名前も教えてくれず、会っている間もよく時間を気にし、時折手帳を開いてはなにやら書き込んでいたりしたそうです。それでも美人なことは美人で、もう一度会ってみたいとも思うそうです。その女は、杉浦さんにとって幻の女なんですね。杉浦さんはいまでも、その女から預かっている洋服とメガネを大切にしまっているらしいですよ。さて、これが杉浦さんが、私どもの刑事に聞かせてくれた話というわけです」
沢口は大きく息をついて、冴木を見つめた。
「すみません。長々とひとりでしゃべって。退屈させましたか」
冴木は黙ったままメガネをはずすと、目尻を右手の親指と人差し指で押さえた。表情が険しくなっている。
「退屈ついでに、もう少ししゃべらせてもらいます。じつは、話はこれからが本番なのです」
メガネをかけ直す冴木を見ながら、沢口が身を乗り出した。
「最初に言いましたように、私たちがこの話を聞かせてもらったのは、あくまで雑談としてでした。話の流れで、たまたま女の話が出たわけです。杉浦さんが断られたとおり、鵜次さんの件とには、なんの関連もないはずです。もちろん話を聞いた刑事もそう思いました。しかしそれでも、その刑事はその話を調べてみることにしたんです。なにしろその刑事は、困ったことに好奇心の強いたちで、不思議な話には俄然興味がわくのです。それに、話の中に美人が出てくるし、鵜次さんの件にいささか退屈をおぼえていたのも、彼をそうさせた理由でした。
ところが調べてみると、またまたその刑事は妙な事実に出くわしたのですよ。話を確認するために、杉浦さんとその女がまわった場所を訪ねたのですが、行く先々の人たちから――」
沢口の目が射るような光を帯びた。
「それと同じことを、以前にも別な刑事さんから質問されたことがあると、聞かされ続けることになったのです」
少しの沈黙があった。沢口はコーヒーを再度口にし、大門は、なにかあったらいつでも動けるように構えていた。
沢口がカップを置きながら口を開いた。
「もうご説明の必要はないでしょう。その別な刑事が調べていたのは、あなたの伯母さんが殺された夜の、あなたのアリバイでした。十月×日は、杉浦さんと女がともにすごした夜で、あなたの伯母さんが亡くなった夜です。しかしそんなことがあるでしょうか。杉浦さんとあなたが、同じ日の同じ夜に、同じ時間に同じところをまわり、しかも連れている女性が同じ赤いワンピースの同じ女性だったなんていうことが」
沢口は目を細めて冴木を見た。
「どうやら、女が杉浦さんに言った死んだ恋人というのは、冴木さんあなたにそっくりみたいなんです」
「嘘だ」両手を膝の上で握りしめていた冴木が、ようやく言った。「どういう料簡か知らないが、その杉浦とかいう男は嘘をついているんですよ。じゃなかったら、そう、なにか誤解しているんだ。そのへんをちゃんと調べたらどうです」
「杉浦さんには、あの夜の女が、あなたの奥様と同一人物であることを、先日確認してもらいました。また『フェアリー』の従業員からも、杉浦さんと一緒だった女について、同じ証言を得ています」
「証拠はあるんですか。証拠は」
沢口は首を横に振った。
「残念なことに証拠はまだありません。ただ私どもには、女が杉浦さんに預けた品物があります。衣服からは無理でしたが、メガネのフレームと服が入っていた紙袋から、杉浦さんのではない指紋がいくつか発見されています。ここは、奥様の指紋との照合にご協力いただきたい。それに衣服のほうも、それがどこで販売され、購入したのはどんな人物だったかを現在捜査中です。あっ、そうそう、こちらのクローゼットも拝見させてもらえると有難いのですが。もしかしたら、預かっている服と同じものが、もう一人分入っていたりしてですね」
扉の向こうで、女の泣き崩れる声がした。
「どうやら、奥様も話を聞いておられたみたいですね」
沢口の言葉が合図であるかのように大門が立ち上がり、実嶺のもとへと応接室を出た。
冴木はぐったりしてソファにもたれかかった。なにも言わないが、観念した様子がありありとうかがえた。
沢口が言った。
「どうして伯母さんを殺害したりしたのです」
冴木は沢口を見やって、バカなことを聞くなというふうに、声を立てずに笑った。
「もちろん金ですよ。金。あの婆ァ、しっかり貯めこんでましたからね。先物がこげついて、にっちもさっちもいかなくなって、それでつい会社の金に手を出してしまったんです。それで借金を頼みにいったら、俺が唯一の身寄りだってのに、けんもほろろで、あげくに馬鹿にして笑いやがった。その時、殺してやりたいと思ったのが最初です。伯母さえ死ねば遺産も手に入って、金の心配もなくなりますしね。しかし、まだ真剣に殺そうと思っていたわけじゃない。やりたいが、うまくいくはずがない。そう思ってました。
そんなころに、杉浦のことを知ったんです。知らない男から、居酒屋で間違われたのがきっかけです。人違いだと言ってもなかなか信用してもらえず、免許書を見せてようやく納得してもらいました。男は、自分の高校の同級生で杉浦保という奴にそっくりだったもんでと謝り、高校名とか、歳とか、バスケット部だったとか、卒業後は会っていないとか、しゃべってくれました。もしかしたらその杉浦が利用できるのではないかと考えたのは、世の中には、よほど俺と似ている奴が実際にいるんだと思ったときです。そんなに似ているなら区別がつかないんじゃないか、と思いついたんです。
それで調べてみると、ああ、それは興信所に頼みました、俺でなく妻の実嶺を行かせて、知人の代理できたのだが、男と女の事情がある以外は詳しいことは言えないが、××高校の卒業で今年三十四、五歳の杉浦保という人物の、現在の住所と素行調査、それに写真を依頼しました。で、その調査報告で杉浦の写真を見て、これなら俺のアリバイの替え玉に使えると思ったわけです。知人ならともかく、一度や二度しか見たことのない人物だったら、俺と杉浦の見分けなんてつかないでしょうからね。刑事さんも承知の通り、実際にそうなり、俺のアリバイは成立しました。ラブホテルに入ったというのが特に効果があって、自分の女房を男とそんなところにいかせるはずがないと思ってくれたみたいです。ホテルの防犯カメラの画像も、解像度が悪くて、俺そっくりに映っていたらしいです。伯母が殺されたというだけじゃ、俺と実嶺のことが報道されることはないので、興信所や杉浦に気づかれる心配はありませんでした。まったく、鵜次の野郎さえいなければ、なにもかもうまくいったのに……」
冴木は一旦口を閉ざしてから尋ねた。
「しかしどうして、杉浦は実嶺のことを話したりしたんですか?」
「偶然です。杉浦さんのことを書いたメモが、『幻の女』という題の本の間に挟んであって、そのうえで、鵜次さんの誕生日が十月×日であることが、話の場で連続して出現し、幻の女と日付とが重なり、その流れで、杉浦さんも雑談として、自分が十月×日に体験した幻の女のことを話したわけです」
冴木は鼻を鳴らした。
「よくわからないが、けっきょく、鵜次にしてやられたわけだ」
「鵜次さんはなにかのきっかけで、あなたと奥様のアリバイ工作に気づいた。そして脅迫してきたので、殺害せざるをえなくなった。ちがいますか?」
「そりゃ、とんだ誤解ですよ。あいつはただ……」
冴木は、大きく息をつくと、憐れむような目つきをした。
「夢を見たんですよ。女の夢をね」
了
最後までお読みいただいてありがとうございました。