7 砂木
鵜次虫男の溺死体が発見されたのは、昭和×年十一月×日のことであった。御笠川に浮かんでいる遺体を、早朝ランニングの住民が110番通報したのが始まりだった。
泥酔のあげくに誤って川に転落したものと最初は思われたが、後頭部に打撲の跡があることや、ズボンが足首まで下がっていたことなどから、犯罪の可能性もあるとして所轄署で捜査が進められることになった。しかし一週間が経過しても有力な情報を得ることはできず、事故死とも殺人とも判断のつかない宙ぶらりんの状態が続いた。
殺人とした場合、捜査員を特に悩ませたのは動機であった。鵜次の評判は良いものでなく、ありていにいえば人に嫌われるタイプのものである。しかしだからといって、殺人の動機が発生するような人物でもない。人に疎んじられ陰口をたたかれるが、ただそれだけの取り柄のない男、それが捜査員の印象だった。あんな奴を殺しても、なんにもなりませんよ。鵜次を知っている者は一様にそう述べた。ハゲチョロという、蔑視の呼び名も耳にした。
それでは事故死かというと、後頭部の打撲の件を含め、死亡当日の仕事を終えてからの鵜次の足取りがつかめないこと、多量のアルコールが胃から検出されているにもかかわらず、鵜次がそれを飲んだ場所、または店を特定できないことなど、不明な点が多すぎるのが捜査員たちの気になった。どこで川に落ちたのか、それすら判明していない。御笠川沿いでの情報収取に専念したが、それでも有力な目撃情報などは出てきていないのが現状だった。
鵜次本人が、人づき合いが悪く、自分のことを人に話すことがなかったのも、捜査の妨げとなっていた。つまり、そもそも聞き出すことのできる個人情報が、わずかしか集まらないのだ。佐賀で長男と農家を営んでいる両親も、遺体引き取りの際に、ここ七年ばかり鵜次とは音信不通だったのでなにも知らないと、首を振るだけであった。死亡当日の鵜次は妙に嬉しそうで、ひとりでふくみ笑いしていたという聞き取りもあったが、それがなにを意味するのかはまったくわからなかった。
さらに一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。事態に進展はなく、なんらかの理由で後頭部を強く強打したのち誤って川に転落したか、もしくは犯罪に巻き込まれ故意に川に突き落とされたもの。そう判断がなされた。
そしてこの時点で鵜次の事件は、所轄署から県警の砂木のもとへと連絡がなされた。
砂木は福岡県警で、キャリアの落ちこぼれと渾名される二十代後半の警部補である。通常キャリアは、警察大学校を経て警察署での見習い期間終了後警部に昇進するのに、そうならずいつまでも県警の警部補止まりでいるためだ。撫で肩の小柄な体形で、チャコールグレイのスーツを愛用し、埴輪のような安穏な顔をしている。捜査一課に配属しているが班には入っておらず遊軍扱いだ。鵜次の事件みたいな、結論がはっきりしない、もしかしたらなにかあるかもしれないと思われる事件を、要請があったら調査するのも砂木の仕事のひとつであった。
砂木は、所轄署から送られてきた報告書を読むことから始めた。調査はかなり細かい点まで行き渡っていて、間然するところがないように思われる。それに、亡くなった鵜次という人物は面白味のない人物で、事件のどこにも華やかさがなく、砂木にとってもいささか退屈なものであった。しかしそれでも、一箇所だけ興味を持てる部分を見つけることができた。
それは、自宅で発見されたメモについてであった。手帳かメモ帳あたりから破り取ったと思われる一枚の紙に、つぎのような文字が金釘流で記されている。
博多区住吉×丁目 平和アパート 杉浦保
メモそのものは珍しいものではなく、内容にしても、人の名前と、その人物の住所と思われるものが書かれているだけだ。ただ奇妙なのは、そのメモの人物と鵜次が、まったく結びつかないことであった。仕事上の関係もなく、まして個人的な知り合いでもなく、どこから見ても他人と考えるほかなかった。所轄の刑事がメモにあった杉浦を何度か訪ねたが、当の杉浦からも、鵜次は見ず知らずの他人という返事を得ることしかできないでいた。
しかしメモを書いたのが、筆跡からみて鵜次本人である以上、事件に関係があるかは別にして、そのメモになんらかの意味があったのはたしかである。
砂木は、事件を担当した刑事たちに直接話を聞き、現場を見てまわったのち、さっそく杉浦保と会うことにした。
しかし砂木が訪ねたところで、杉浦の返事が変わることはなかった。出身地から始め、学生時代を経て現在に至るまでの記憶を振り返ってもらっても、杉浦には鵜次に思い当たることはなにも出てこなかった。だがそれであきらめる砂木ではない。事件とは関係ないのかもしれないが、とにかく興味のおもむくままに、粘り強く調査を進め、推論を繰り返すのが砂木のやり方である。杉浦の言葉に嘘はないというのが、砂木の判断だった。そうなると、一方的に鵜次が杉浦のことを知っていたと考えられる。それがどういうことだったのかを明らかにすることが、解決の糸口になりそうな気がした。というより、実際のところ、砂木の手持ちのカードはそれしかなかった。
二度三度と訪ねるうちに、杉浦もほとほと呆れ返り、砂木とも顔馴染みになり、話は鵜次のことから離れだすことが多くなってきた。
「刑事さんもしつこいな。いいですか。仮にですよ。僕とその鵜次さんとやらの接点が見つかったとしても、それが事件解決へとならないこともあるんじゃないですか」
杉浦がそう言ったのは、年が明け、二月になってからだった。砂木が訪問するのは五度目だ。杉浦もいい加減うんざりしていた。
「ええ、そうかもしれません。ただ、関係ないものを消去していくのも捜査のひとつなんです。どうか、ご協力のほどを」
砂木が、屈託なく当然のように答えた。
「大変なお仕事だ。それに……」
杉浦は困ったようにこめかみを指で掻いた。どう対処したらいいのかわからないという感じが、如実に現れていた。
「僕のことをメモしていたのが、それほど重要だとは、どうしても僕には思えないんですよね。自分で言うのも変ですが、僕はたいした男じゃないし、人から一目おかれるような人物でもない。それともなんですか、そのメモはなにか特別なものだったんですか。たとえば、金庫に保管されていたとか、重要な扱いをされていたとか」
「いえ、そういうことはありません。走り書き程度の、ただのメモです。保管にしても、文庫本の間に挟まれていただけです。あ、そういえば、それも奇妙なんですよね。鵜次さんは小説なぞを読むことがない人だったんです。ですから、そんな本がアパートにあること自体不思議といえば不思議なんです。本棚もないなら、実際、アパートにあった本はその文庫本一冊だけでした。しかも、翻訳小説でしてね。どうしてそんな本があったのか、それも謎です」
自分でそう言いながら、砂木はふと気づいた。なぜ本はあったのか。読むためでないとすると、なぜあの本は必要だったのか。そしてその、読まれることのない本の間にメモが挟んであった。もしかしたら、メモと本の間になんらかの関連があるのではないか。だから、本にメモを挟んでおいた。可能性としてありえないことではない。これまでの聞き取りで、杉浦に本のことを聞いた者は誰もいない。まったく論理的でないが、試してみる価値はあった。砂木は言った。
「杉浦さんは本は読まれるんですか?」
「ずいぶんと読んでいないですね。学生時代はそこそこ読書家だったんですけど、いまはさっぱりです」
「メモが挟んであったのは、アイリッシュという海外作家の『幻の女』という翻訳ミステリの本だったんですけど、読まれたことはありませんか」
「『幻の女』ですか――読んだおぼえないですね。どういう話なんです」
本のタイトルが、いつになく杉浦の気を引いたような感じが砂木にはした。
「サスペンス小説なんですけど、妻の殺人容疑で死刑が確定した男を救うために、アリバイを証明できる、男と一夜をすごした女を、男の恋人が探しまわるというのが大筋です。その女が謎めいていて、その存在すらわからないので、幻の女というわけです」
「一夜をすごした幻の女ですか――」
感慨深そうに杉浦は呟いた。思い出したことがあるように、目は遠くを見つめている。
「どうかしましたか?」
「いや」杉浦は首を横に振った。「なんでもありません。それより、えっと、亡くなられた鵜次さんとやらは僕より二つ上でしたっけ」
話題を変えるために、なにげなく言ったというふうだった。
砂木は上着から手帳を取り出した。
「ちょっと待ってください。――ええ、昭和×年十月×日の生まれですからそうなります」
ひょうたんどころか、どこから駒が出るかは、誰の予想もつかないことだ。
「十月×日ですって!」
妙な表情でそう口にした杉浦は、一転、ひとりで笑い出した。呆然としている砂木を見て、まだ顔では笑いながら頭を下げた。
「すみません。偶然とはいえ、それが重なったもので。つい可笑しくなって」
「どういうことです?」
「たいしたことじゃないです。たまに偶然が重なって驚くことがあるじゃないですか。そんなことです。シンクロシティとかいうやつですよ。意味のある偶然の一致ってやつですか。幻の女が出たと思ったら、つぎに十月×日なんですから」
砂木は興味をおぼえた。
「よくわかりませんが、詳しく話してもらえませんか。ぜひとも聞いてみたいですね」
「いや、とんでもない。個人的なことですし、鵜次さんやらとは関係ありませんから。偶然符号しただけですよ。それに、キツネに化かされたような、みっともない話ですし」
それでも砂木が頼み込むと、杉浦も仕方なさそうに、笑わないでくださいよと断って話しだした。
たしかにそれは奇妙な話だった。キツネの仕業としてもおかしくない。杉浦が言うように、鵜次とは関係ないことのように思えた。どうやら、メモと本に関連はなかったみたいだと、砂木は心の内で苦笑した。
しかしそこまでわかっていながら、砂木がその話を調べてみることにしたのは、砂木自身、鵜次の事件に行き詰まりを感じていたからだった。こういうときは気分転換にかぎる。奇妙な話というのは、砂木の好むところだ。話の中心に謎めいた美人がいるのもいい。
それは、いかにも砂木らしい判断であった。