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死者へのセレナーデ  作者: 愛理 修
5/8

5 ドライブ

 約束の時間までもうすぐだった。鵜次は腕時計で時間を確認すると、心待ちに顔をほころばせた。

 実嶺から連絡があったのはあの日から二日後のことである。女友だちの来訪であの日はそのまま帰ってしまい、けっきょく彼女の裸を拝むこともできなかった。それでも約束通り連絡があったのは幸運に思えた。

 今夜の午後十時、マンションから北に位置する××霊園の前。それが実嶺の指定してきた時間と場所だった。待ち合わせ場所が霊園前であることに驚いたが、それなりの理由はあった。

 実嶺が立てた密会の段取りは、彼女が車で鵜次を迎えに行き、そこから友人に借りた山間の別荘に向かい、そこで鵜次と二人で一夜を明かすというもので、それでいくと霊園前は、別荘までの道筋の途中にあって、誰にも見られる心配のない場所として最適らしかった。

 別荘まで手配してもらい、そう説明されると、鵜次としても反対する理由はなにもなかった。それどころか、予想外の浮き浮きな展開だ。実嶺と一晩二人ですごせるだけでラッキーなのに、しかも別荘でなんて、想像するだけで舞い上がってしまう。冴木には女友だち同士でその別荘に遊びにいくとしてあり、密会は今回限りの一度だけにして欲しいと、彼女は言い添えていた。

 それにしても、えらく淋しい場所だと彼は思った。いくら人目につかないにしても、やはりここ以外に適切な待ち合わせ場所はなかったのか。

 背後を振り返ると納骨堂の屋根がみえ、それを取り囲むように、シルエットになった無数の墓石が並んでいる。月がかかっているが、樹木のせいで、鵜次のいるあたりはかなり暗い。人けはまったくなく、目の前の道を時折車が通過していくのさえも、かえって淋しさをつのらせている。目を遠くに向けると、人家の明りがぽつんぽつんと点在している。しおれた花と湿った土の匂いが、霊園のほうから漂ってきている気がした。風が吹きぬけ、樹木の梢を揺らす。

 鵜次はぶるっと体を震わせると、気をまぎらわすようにこれからのことを考えた。

 どうすれば実嶺が喜んでくれるか、それが問題だった。自分がしょせん脅迫者であるのはわかっていた。弱みにつけこんだうす汚い奴であるのも事実だ。それでも彼は、少しでいいから実嶺に気に入られたかった。今夜が二人にとって忘れられない夜になることを願っていた。ワイングラスを傾けながらの会話、そっと身を寄せ合う二人、なにもかもが美しく、彼が顔を近づけると、実嶺は潤んだ眼差しを向け、なにも言わずに目蓋を閉じる。それが彼の願いだった。

 HAHAHAHAHA!! 笑ってしまう。虫が好いにもほどがある。チビでデコッパチハゲの俺には、不釣り合いもいい話だ。そんなことは百も承知している。百も……。

 しかしそれがしたかった。安っぽいドラマみたいでもいいから、そんなことを一度でいいからしたかった。

 見上げると、頭上の生い茂った樹木の葉の間から、あのときの夜のように月が冴え星が瞬いているのが覗けた。鵜次の頭にあのホテルの名が浮かんだ。 

 ――セレナーデ。

 それがどういう曲をさすのか彼にはわからない。それでも、それが恋の曲であることぐらいはわかる。語感からしてロマンチックなものを思わせる。そう、いまの俺の気持ちがそうかもしれない。俺はセレナーデしているのかもしれない。鵜次は目を閉じピアノを弾く真似をした。音の無い旋律が霊園の中へと流れていく。死者たちが耳を澄まし、亡者の声が曲に重なる。黒と白の鍵盤が、鵜次の指に合わせてさざ波のように上下し、燕尾服に身をつつんだ鵜次は、軽やかに、思いのたけを込めて曲を奏でていく。

 その曲が終わらないうちに、目のくらむような車のライトが鵜次を直撃した。

 まぶしさに顔を歪め、右の掌をかざす。

 荒々しい唸りを立てて、黒っぽいセダンが彼の前で停車した。

 鵜次が指の間から覗くと、運転席側の窓が開き、黒いキャップを目深にかぶった男が顔を見せた。最初彼には男が誰かわからなかった。ライトに目も眩んでいた。しかし声を聞いた途端、総毛だった。

「実嶺じゃなくて、悪かったな」

 冴木孝行の声だった。

 逃げなくては。咄嗟に鵜次はそう思った。しかしあまりに驚いて、足がすくんでいるのか動くことができない。まさか、実嶺じゃなくて冴木がくるなんて。

 冴木は車から降りると、鵜次の前に立ちはだかった。黒のトレーナーに黒のズボン、それに黒のキャップと、冴木は全身黒ずくめだった。コンタクトにしているのかメガネをかけてなく、そのため鵜次には、すぐに冴木だとわからなかったのだ。

「いい晩だな」

 冴木は白い歯を見せて話しかけてきた。霊園のほうを見、あたりに視線を走らせる。

「生憎と実嶺がこれなくなって、替わりに俺がきたというわけさ。どうだい、月夜のドライブとしゃれこもうじゃないか」

 有無をいわせない凄みのある言い方だった。少しでも逆らえばどうなるかわからない恐ろしさを全身から発している。そのせいか、鵜次には冴木がやけに大きく見えた。身長といい、肩幅といい、鵜次よりひとまわり大きい。

「早く乗れよ」

 冴木が運転席側のドアを開く。逃げるのを用心してか、車の反対側にはいかせないつもりらしい。冴木に対して罪悪感もあり、なにもできないまま鵜次は車に乗り込んだ。鵜次が助手席のシートに座るのを確認してから、冴木は再度あたりに目を配ると、黒豹のように身体をすべらせて運転席に着いた。

「さあ、ドライブだ」

 冴木が車を発進させた。

 長い間、二人とも押し黙ったままだった。どこを走っているのか、鵜次には見当もつかない。同じところをぐるぐる回っているような気もするし、かなり遠くを走っているような気もする。というより、いまの鵜次には、どこを走っているのか考える余裕すらなかった。はっきりしているのは、冴木が淋しい道を選んでいることだけだった。対向車が少なく、車窓からは闇につつまれた景色しか見えない。

 鵜次は懸命に考えていた。どうすればこの場をうまく切り抜けることができるのか。実嶺でなく冴木がきたからには、冴木はすべてを知っているのか。いったい俺をどうするつもりだ。考えれば考えるほど、鵜次はこれから先が不安だった。

「実嶺からなにもかも聞いたよ」

 冴木が前方を見つめたまま、ようやく口を開いた。

「このところ様子がどうも変だったんで、今夜しつこく問いつめてやったら、洗いざらいしゃべってな。もちろん男がいることも、おまえが何をしたかも、全部聞いてしまった」

 冴木が一瞥し、鵜次は首をすくめた。

「ま、おまえのことはとりあえずおいとくとして。まず実嶺だ。俺がいながら他に男を作るなんて許せると思うか。しかも、そうなったのはみんな俺のせいで、こうなった以上別れましょうとくりゃあ上等じゃないか。あの女、さんざん俺の悪口を並べ立て、終いには嘲笑いやがった。そんなことが許せると思うか」

 鵜次は慌てて首を横に振った。

「そうだよな。許せるはずがないよな。それで俺もカッとなって、気づいたときには――実嶺は死んでいた」

 ぞっとした。全身にさむけが走り、思わず両腕で自分を抱きしめた。実嶺が死んだ。そんな馬鹿な。横にいる冴木が彼の知っている冴木でなく、得体の知れない怪物に感じられた。しかもそれは息をし、手を伸ばせばほんのすぐのそこにいるのだ。

「聞いてるか鵜次」

 冴木の押し殺した声が、いきなり飛んできた。

「俺は実嶺を殺してしまったんだぞ。もちろん俺だってそんなつもりはなかった。そのう、なんていうかはずみっていうやつだ。しかしそれでも、殺してしまったのは事実だ」

 鵜次は気が変になりそうだった。冴木が実嶺を殺しただなんて、俺はどうすればいいんだ。

「さて、それでつぎにおまえというわけだ。おまえは俺の女房をレイプしようとし、おまけに俺の大事なカーペットに染みを作っちまった」

 頭の中で、カーペットにこぼれたコーヒーの茶色い染みが広がった。そうか、それで冴木は気づいたんだ。心臓を素手で握られたようだった。なにか言わなくてはと思いながらも、口をぱくぱくさせるだけで言葉にならない。膝が震え、デコに汗がにじんだ。

「ハハハハ、安心しろよ。いまの俺は冷静さ。なにもおまえまで殺そうとは思っちゃいない。それより、いいか。おまえは今夜俺のマンションにきて、朝まで俺とずっと一緒だったんだ。いいな。つまりおまえには、俺のアリバイの証人になってもらうというわけさ。こうなったのも、ある意味おまえのせいだ。それぐらいのことは、やってくれるよな」

 鵜次は何度もうなずいた。ここはとにかく逆らわないことだ。

「よし、これで話は決まった。それじゃ、さっさとすませてしまおうぜ」

 冴木がハンドルを左に切って、スピードを上げた。

「なに、口約束だけでは信用できないんで、おまえに死体の処理を頼もうと思っているのさ。死体はうしろのトランクにつんである」

 なにもかもが信じられなかった。鵜次はおそるおそる車の後部を振り返った。いま自分が乗っている、この車のトランクに死体がつんである。そんな恐ろしいことがあっていいのか。それに処理とはいったいなんのことだ。

「死体で悪いが」

 冴木がふくみ笑いをもらした。

「おまえに、実嶺を抱いてもらおうと思ってな」

 鵜次の口から悲鳴がほとばしった。


 二十分ほど走らせて、冴木は車を停止させた。

 道の右側は緩やかに傾斜した川原で、左は倉庫みたいな建物が並んでいる。どこかの配送センターみたいだが、いまは明かりが消え、無人なのが感じられる。しかも裏手だ。

「さあ着いたぞ。早いとこすまそうぜ」

 冴木がグローブボックスから二組の黒手袋を取り出すと、一組を鵜次の膝の上に放った。

 外出した実嶺は、運悪く変質者に襲われ殺されたというのが冴木の筋書だった。そのため死体には凌辱の跡がないといけない。服が裂け、素肌が露出し、体内からは冴木のでない精液が検出される。その凌辱行為が、冴木が鵜次に与えた役目だった。

 しかし死体を抱くなんて、考えただけで、鵜次の歯はがちがち鳴り、いまにも気が狂いそうになる。途中で何度も鵜次は冴木に詫び、それだけは勘弁してほしいと頼んだ。実嶺に対する思いは淡い恋心であり、それに今夜はこの間のことを謝ってそのまま別れるつもりだったと、必死にとりすがった。が、冴木に聞く耳はなかった。死体を抱かせることで、妻を寝取ろうとした男に報復しようとしているみたいだった。

 それでも死体を抱くなんて――。

「早くしろよ」

 冴木にせっつかれて、鵜次は手袋を両手にはめた。隙を見て逃げるしかない。とにかくここは、おとなしく言うことを聞くふりをして。

 冴木に続いて車を降りた鵜次に、冴木が言った。

「ズボンをおろせ」

 鵜次は口をあんぐりと開けて冴木を見た。夜目にも、冴木の目が異様に光っているのがわかった。

「おまえが逃げないための用心さ。ズボンを膝まで下げたら、そう簡単に走れないだろう。それに第一、ズボンをおろさないと女は抱けないしな。わかったら、さっさとしろよ」

 歯を食いしばりながら鵜次はズボンを下げた。そのみっともない姿を見て、冴木が声を立てずに笑った。

「人の女房を寝取ろうとする奴には、お似合いじゃないか」

 鵜次を先に歩かせるかたちで、二人は車の後部にまわった。鵜次はズボンを下げているため、よたよたとしか歩けない。冴木がトランクを開けた。毛布にくるまれた物体が、そこに横たえられていた。端から白い手が覗けている。

 鵜次の目から涙があふれ出た。なぜ泣けてくるのかわからなかった。自分の恋した女がそこで死んでいて、しかもそれをいまから抱くと思うとたまらなかった。脚が震え、腰が引けた。立っていられるのが不思議だった。月の光があたりを照らし、川の流れる音がする。

 セレナーデ。鵜次の脳裏にそれが浮かんだ。

 そう。もしかしたら、これが俺のセレナーデなのかもしれない。死んだ女との愛。それが俺のセレナーデかも。月明かりの川原で、恋した女の死体を抱く。まさに死のセレナーデだ。鵜次は鼻をすすり、涙を肘で拭った。それでも涙はとめどなくあふれ出る。これまでの自分の惨めな人生が思い出された。いいことなんて、ひとつもなかった。わかった、わかった。それが俺に与えられたセレナーデなら、見事にそれを演奏してやろうじゃないか。きっとその曲が終わるころには、俺は気が狂っているだろう。しかしそれでも演奏してやろうじゃないか。それが俺のセレナーデなら。

 鵜次は震えながら毛布を開いた。

 その手を、白い手がつかんだ。

 鵜次が喉の奥で叫びを上げるのと、実嶺が半身を起こすのは同時だった。月の光を浴びた実嶺が、こちらを見ながらぞっとする笑みを浮かべ、その刹那鵜次は頭に一撃をくらった。

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