4 訪問
三日後、鵜次はふたたびマンションを訪ねた。
平日の昼下がりである。こういう際には、歩合制のセールスマンという職業は便利だった。ある程度の自由な時間をいつでも作ることができる。
一時間ほど前に、忘れた本を取りにうかがってもよいかと電話を入れておいた。
「ええ、かまいません。今日出かける予定はありませんから」
電話での実嶺の声に、彼を疑う様子はない。
それでもマンションのインターホーンを前にして、根が小心者の鵜次は緊張した。
いよいよだ。彼女と二人きりになれる。嬉しい反面、怖くてたまらない。掌がじっとりと汗ばんでいる。まるで、告白前の中学生みたいだ。拒絶されたらどうしようかと、恐れが先行している。実際に拒絶されたときの、あのいたたまれなさ。この年になって、あんな思いだけはごめんだ。今回は相手の弱みを握っている。だから大丈夫だ。それでも彼は不安だった。このまま帰ったほうがいいかもしれない。そしてすべてを忘れる。そんなことできるはずがない。こうなったら最後、一か八かだ。
掌を上着で拭うと、鵜次はインターホーンのボタンを押した。
すぐに応答があり、呆気ないほど簡単に入り口のガラス扉が解錠された。エレベーターの中で、鵜次は冷静でいようとした。それでも、実嶺の顔やちょっとした仕草が、記憶と想像が混じり合って浮かんでくる。
しかし生身の実嶺を前にすると、イメージは霧散し、指でじかに触れることのできる彼女がそこにいるだけだった。
「たしか、この本ですよね」
玄関口で、笑みと一緒に本を差し出す実嶺を鵜次は見つめた。今日はVネックの薄手のセーターにカーキ色のパンツ、長い髪を紺色のリボンで結んでいる。
「じつはですね」鵜次は本を受け取りながら慎重に言った。「本なんかどうでもいいんです」
実嶺が不審そうに眉をひそめるのを目にして、鵜次は途端に怖気ついた。早くやるんだと焦りが生じ、彼は乱暴に口走った。
「見ちゃったんだよ!」
鵜次の急な口調の変化に、実嶺の両肩がびくっと持ち上がる。
「この前の夜、あんたが男とラブホテルから出てくるのを、俺見ちゃったんだよ。あんたと男が出てきたとき、背の低いコンビニの袋を手にした男とすれちがっただろう。あれが俺さ。おぼえているだろう」
みるみる実嶺の顔から血の気が引いていくのが見てとれた。目を見開き、意志に関係なく唇が震えている。あの夜のことを、彼女は明らかに思い出していた。
息をつき、なんとか口を開きかけた実嶺を彼はとどめた。
「だめ、だめ。相手の男の名前も住所もメモして取ってあるんだよ。しらばっくれようたって、そうはいかないからね。まあ、とにかくあがらしてもらうよ」
鵜次は靴を脱ぎ、実嶺を押しのけるようにしてあがりこんだ。
「そ、そ、そんな……やめてください。人を呼びます」
狼狽した実嶺が叫ぶ。しかしその声は弱い。
「ああ、呼びたければ呼べばいいだろう。そうなったら困るのはどっちだい」
鵜次はわざと声を荒げた。
「いいかい。俺はあんたの浮気がばれようとどうしようと痛くも痒くもないんだぜ。それでもいいんだったら、さあ遠慮はいらない、いくらでも人を呼びなよ」
実嶺はうつむいたまま、首を悲しそうに横に振った。
「わかりゃいいんだよ。わかりゃ」
鵜次はリビングに入るとカーペットの上に胡坐座りし、ネクタイをゆるめた。前回は部屋の雰囲気に気圧されたが、いまはそうではない。そんな鵜次を実嶺がうらめしそうに見つめている。
「折角きたんだし、とりあえずなにか飲ましてもらおうかな。大きな声出して、喉乾いちゃったんで」
実嶺はなにか言いたげに両手を握りしめていたが、唇をきつく結ぶと、くるりと背中を見せキッチンへと姿を消した。
鵜次はほっと息をついた。急にどっと汗が吹き出し、ハンカチで首筋と広めの額を拭う。心臓がいまになって、大きく脈打っている。いざとなると、あんなふうに脅し文句がすらすらと自分の口から出るとは意外だった。本当のところ、乱暴なことはしたくなかった。実嶺の悲しむ顔は見たくない。しかしこうでもしなければ、実嶺のような女が、自分を相手にしてくれないのはわかりきったことであった。時間がたてばわかってくれるさ。最初がどうであったとしても、そのうち、俺が彼女のことを好きなのだということが、きっと彼女にもわかってもらえる。それが大事なんだ。鵜次は、自分にそう言いきかせた。
キッチンから、トレーにコーヒーカップをのせた実嶺が出てきた。コーヒーを淹れるだけにしては、時間がかかっている。ひとりになってそれなりに考えたらしく、さきほどより落ち着きを取り戻していた。膝を揃えて座ると、トレーごとコーヒーを差し出し、鵜次を真っ直ぐに見つめてきた。
きれいだ。鵜次はあらためて実嶺に見惚れた。
「要はお金ですか」
鵜次は驚いた。彼女に言われるまで、そんなことは一度も考えてなかった。お金。それも悪くない。しかし、いまはそうじゃない。
「ま、そう硬くならないで。なにもそんなこと言ってませんよ。ただ俺は、奥さんと仲良くしたいだけなんですよ。いじめようとか、そんなことはこれっぽっちも思ってませんから。あの夜は俺の誕生日で……」
鵜次の真意がどこにあるのかを探るように、実嶺は目を細めた。
「だから……そのう……つまりなんて言うか。俺はただ、奥さんともっと親密になりたいだけなんですよ。わかるでしょう。俺は奥さんの秘密を知っているし、俺だって、奥さんと秘密をもちたくなるじゃないですか」
鵜次の意味するところに気づいて、実嶺は頬を引きつらせた。あからさまに嫌悪の眼差しを向けると、座ったまま反射的にあとずさった。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないですか」
鵜次が近づくと、いっそう実嶺は嫌悪をむきだした。
「いやよ、そばにこないで、ヘンタイ!」
鵜次はかっとなった。ヘンタイ呼ばわりは悲しすぎた。彼は素早く動くと、逃げようとする実嶺の足首をつかみ、勢いのまま覆いかぶさった。実嶺の抵抗は激しかった。身体をねじり、目茶苦茶に手足を振りまわす。トレーがひっくり返り、カップが転がる。鵜次は息を切らしながら、実嶺の両手を押さえつけると、彼女の耳元で声を張り上げた。
「ぜんぶばれてもいいのか! なにもかもわかっちまって! え、それでいいのか!」
実嶺の抵抗が静まった。横になったまま気丈にも鵜次を下から睨めつけると、顔をそむけ、あきらめたように目蓋を閉じた。荒い呼吸に合わせて、セーターの二つの隆起が波打っている。
鵜次は生唾を飲むと、おそるおそるそのふくらみの上に右手をかぶせた。心地よい動きが伝わってくる。少し指先に力を入れると、セーター越しに、やわらかく押し返してくる。
くぐもった嗚咽が実嶺の唇からこぼれ出た。目蓋がぎゅうとし、眉が激しく歪んだ。鵜次が首筋に唇をつけた瞬間、それが限界だったように実嶺が悲鳴を上げた。遠慮のない、切り裂くような声だった。ぎょっとし、誰かに聞こえたのではないかと、反射的に鵜次は上体を起こした。実嶺が下から、その鵜次を力任せに突き飛ばす。思わぬ反撃に、鵜次はバランスを崩してうしろに倒れ、そのすきに実嶺は鵜次から逃れた。そして壁際にいき、両腕を胸の前で交差させて身体を丸めると、背中を向けそのまま声を出して泣きだした。
「……お願いです。今日は許してください。き、今日だけはどうか……あとで必ず連絡します。だからお願い、今日だけは……」
言葉につまりながら、実嶺は涙声で訴えた。
そこまで言われると鵜次としても弱かった。いくばくかの抵抗は予想していたものの、実際にこうまで泣かれると気持ちが萎えていった。それにこれ以上追いつめると、どうなるか不安な気もした。
カーペットに目をやると、コーヒーがこぼれて茶色の染みを作っている。実嶺がキッチンから布巾を持ってきて、それを丁寧に拭きとりだした。目を赤くし、時折手の甲で涙をぬぐう。
「ほんとに連絡してくれるんですね」
ようやく鵜次が口を開くと、実嶺はカーペットの染みを見つめたままうなずいた。
仕方がないと彼は思った。たとえ嫌がられても、ある程度納得ずくで思いを遂げたかった。それだったら、彼女だって、いずれ俺の気持ちをわかってくれるかもしれない。しかしそうは思っても、このまま帰ったんではしめしがつかない気がする。口約束だけではどうも心許ない。鵜次は言い放った。
「それじゃ、せめて裸だけでも見せてもらいましょうか」
実嶺が布巾を持ったまま、救いを求める視線を向けた。涙は乾いてなく、目は赤いままだ。
鵜次はそれを冷たく見返した。
間があり、観念したように実嶺は立ち上がった。
「裸になるだけですね」
鵜次が無言でうなずくのを見て、実嶺はため息をついた。そして、手にしていた布巾を下に置くと、おずおずとした動作でセーターの裾に指をかけた。
「まず、髪をほどいて」
鵜次が注文をつける。実嶺は言われるままに、髪を結んでいる紺色のリボンをほどいた。頭を振って長い髪を自然に垂らすと、鵜次をうらめしそうにじっと見つめる。鵜次が先を促し、実嶺がふたたび裾を持ち上げる。セーターがゆっくり上がり、形のよいヘソが見え、なめらかな腹部が露出する。実嶺の息づかいまで、鵜次にはひしひしと感じられた。
人の来訪を告げるチャイムが、鵜次の期待を裏切るように場違いに鳴り響いた。