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死者へのセレナーデ  作者: 愛理 修
3/8

3 実嶺

 冴木孝行さえきたかゆきは、鵜次の大学でのゼミ仲間のひとりであった。それほど親しかったわけではないが、いまでも賀状のやりとりはあるし、ゼミのOB会でも何度か顔を合わせていた。卒業後は中堅の会社に就職し、いまはそこの経理マネージャーと聞いている。転職を繰り返し、あげくに歩合制のセールスマンの鵜次とは大ちがいであった。

 しかし、その冴木の愛妻が男とラブホテルとは。

 男のあとをつけ、住所と名前を確認してアパートに帰った鵜次は、とうに零時を過ぎているにもかかわらず、コンビニの袋をテーブルに置くと、着替えもそこそこに押入れから手紙の束を取り出した。調べると、思った通り、三年前に冴木からもらったハガキは取ってあった。結婚を報告する写真ハガキのなかで、ウエディングドレスに身をつつみ、笑顔をこちらに向けた花嫁は、さきほど彼が目撃した女だった。名が実嶺みれいと記されている。その花嫁の隣では、冴木が自慢げに微笑している。

 三年前の結婚式の華やかさが思い出される。二人はあのとき幸せの絶頂に見えた。ケーキカットにキャンドルサービス、祝福の声と頬を染める花嫁。鵜次はつくづく冴木が羨ましかった。自分にもこんな日がくるのだろうかと思った。

 それがいまじゃどうだ。おまえの可愛い女房は、今夜ほかの男に抱かれていたんだぞ。ざまあみろ。

 鵜次はハガキの花嫁をじっと見つめた。そうしていると、彼女がさも自分に対して笑いかけているように思えてくる。この笑顔を、一度でいいから俺のものにできたらどんなに素敵だろう。そう思うと鵜次は心が浮き立つのをおぼえた。

 そんなことできるわけがないじゃないか。しかし、自分がなにを望んでいるのか。それを叶えるためにはどうすればいいのか、彼にはすべてわかっていた。

 蛍光灯に照らされた畳敷きの一室で、鵜次は飽きることなく花嫁を見続けた。

 昭和×年の三十七歳の誕生日は、鵜次にとって忘れられないものとなった。


 それから六日たった夜、鵜次は冴木のマンションを訪ねることにした。もっと早く訪ねたかったのだが、気を落ち着かせる必要があった。迷いがあったのも事実だ。住所は今年もらった賀状で調べた。子供はできておらず、結婚の際に購入したマンションに、夫婦二人で住んでいる。事前に電話はしない。近くにきたので寄ってみたことにするつもりだった。

 仕事を終え、洋菓子店でロールケーキを購入すると、鵜次はその足で書店に入った。本を読む習慣などないので勝手がわからない。なんでもいいんだからと、適当な書棚に目を走らせた。背表紙を見ているだけで頭が痛くなる。ミステリコーナーらしい。『幻の女』という文庫本が目に止まり、鵜次は唇をすぼめた。タイトルが象徴的な意味を持っているように思える。出会ったことのない、しかしずっと憧れ続けてきた女のイメージが胸の内に広がっていく。いまの鵜次にとって、幻の女とは実嶺そのものであった。翻訳小説だが、読むつもりはないのでかまわない。鵜次はその本を手にするとレジへと向かった。

 冴木の自宅があるマンションに着いたのは、九時ごろだった。前に立った鵜次は、大きさも含め、そのりっぱさに驚いた。上に伸びたレンガタイルの外壁。アーチを潜ってすぐに、常夜灯が照らす洒落た前庭が設けられている。エントランスは装飾に金色が多用され、それがシャンデリアの光を受けて煌めいている。もちろんオートロック式で、インターホーンを通して、住人に扉を解錠してもらわなければ中に入ることはできない。

 同じ大学を出て同じ年なのに、この差がどこからくるのか鵜次には不思議だった。自分のみすぼらしいアパートを思うと、怒りにも似た嫉妬心がふつふつと込み上げてくる。なんであいつばかりがいい思いをするんだ。趣味で、株とか先物取引でひと山当てたという話を聞いたことはあるが、それだけでは納得がいかない。ツキのある奴はいつまでもついていて、ない奴はいつまでもそのまま、そう思える。

 ちくしょう、いまにみていろ。本当にみじめなのはどちらか思い知らせてやる。

 インターホーンのボタンを押すと女の声で応答があり、鵜次が名を告げると、やや間があって正面のガラス扉が解錠された。

 エレベーターで七階に昇った。ちょうど冴木が、ドアの前で背広姿の二人の男を見送るところだった。男たちは冴木に頭を下げると、鵜次を一瞥し、足早にエレベーターのほうへ歩いていった。どことなくうさんくさい感じのする二人だった。冴木がそのうしろ姿をじっと見つめている。

「誰だい? 用事があるんだったらこのまま帰るけど」

 鵜次が言うと、冴木はメガネをかけた顔に気さくな表情を見せた。

「とんでもない、きてくれて大助かりさ。おまえがきてくれたおかげで、うるさい奴らを追い払うことができたぐらいだ。さあ、遠慮しないであがれよ」

 冴木はがっしりした身体を脇に寄せてドアを大きく開くと、鵜次を中へ通した。

「えらく久しぶりだよな。で、今日はどういう風の吹きまわしなんだ」

 鵜次の差し出した手土産のケーキをキッチンに運んだあと、リビングのカーペットに座りながら冴木が聞いてきた。

 部屋の造りだけでなく、家具や調度品も高価そうなものばかりだ。ガラス戸のついた飾り棚には高級そうな陶磁器やカットグラスが並べられ、角のテレビも大画面がウリの代物だ。まったく、優雅な暮らしをしてやがる。

 冴木は相変わらず気さくな表情を浮かべ、目はそれとなく鵜次を観察していた。学生時代からそうだが、メガネの向こうの目は冷ややかさをたたえている。もしこの男が愛妻の不貞を知ったらどういう態度を見せるだろう。それを想像すると、鵜次は一瞬さむけをおぼえた。

 学生時代、冴木らと飲み屋街を歩いていた際に、一度だけ与太者ふうの男にからまれたことがある。アルコールのせいもあっただろうが、そのときの冴木の狂暴さは、自分たちでさえ震え上がるほどだった。メガネをはずしたと思うと、冴木はいきなり男に殴りかかっていた。倒れた相手を蹴りつづけ、仲間と一緒に止めなかったら、警察沙汰になったのは間違いなかった。細面の、穏やかさを感じさせる顔立ちをしているが、それとは不釣り合いに身体のほうはがっちりしている。高校生のときに、ラグビーをしていたと聞いている。

「べつに用はないけど、近くにきたから寄ってみたのさ」

 鵜次は首を縮め、手にしていた文庫本をうしろに置くと、話題を逸らすように続けた。

「それより、本当に邪魔じゃなかったのかい」

 冴木は右手を振った。

「さっきも言った通り大助かりなんだよ」そして、言いにくそうにつけ加えた。「あの二人、刑事なんだ」

「刑事って、あの刑事かい」

 目を丸くする鵜次を、冴木が可笑しそうに笑った。

「刑事にあれもこれもないだろう。刑事といえば刑事だよ。じつは、先日伯母が殺されてな。物取りの仕業らしいんだが、いろいろ聞かれて大変なんだ。しかも同じことを何度も繰り返し聞いてくるから、いい加減うんざりさ。伯母は亡くなったおふくろの姉にあたる人で、身寄りというのは俺しかいないから、ま、仕方ないんだけどな」

 冴木の家が母子家庭だったことは知っていた。その母親も、冴木が結婚する前に死去しているはずである。

 冴木はメガネをずり上げ、鼻にしわを寄せた。

「もうよそうぜこんな話。それより今日はゆっくりできるんだろう」

 返事にためらっていると、キッチンから冴木の妻の実嶺が姿をあらわした。

 鵜次は慌ててうつむいた。彼女が目的だったのに、いざ本人があらわれると、うしろめたさをおぼえた。

 なにもありませんがと、テーブルの上に、ビールとグラスにつまみが並べられる。思い切って顔を上げると、すぐそこに実嶺の微笑んだ顔があった。写真ハガキで見た、あの顔だ。気品のある細い眉、ややつり上がり気味の目、美しいラインの鼻梁。化粧が薄く髪をうしろでひとつに束ねているせいで受ける印象はちがうが、双子でもないかぎり、あの夜の女であるのはたしかだった。グレイのプルオーバーを下から持ち上げる胸の隆起が、やわらかな曲線を描いている。

「おい、どうかしたのか」

 惚けたような様子の鵜次に、冴木が声をかけた。

「いや、べつに……」鵜次はニヤリとした。底意地の悪いものが胸中に芽生える。「じつは、おまえの奥さんの顔を見にきたんだよ」

 わざと本当のことを言ってみる。が、冴木はジョークと解釈すると大げさに笑った。

「そうかい。それなら、遠慮せずにたっぷりと見ていってくれ」

 実嶺が冴木を軽くぶつ真似をしてみせた。そしてビールの瓶を手に取ると、まんざらでもない顔で鵜次にすすめた。視線がまともにぶつかり、それだけで身体の内側が熱くなる。グラスを持ち上げながら、鵜次は照れたように顔を伏せた。

 それから一時間ばかり談笑し、帰りには実嶺が玄関先まで見送ってくれた。

遠慮がちに実嶺が言った。

「妙なことを聞くようですけど、最近どこかでお会いしてませんか?」

 最前から気になっていたことをようやく口にした。そんな感じだった。

「いいえ。今夜お会いするのが結婚式以来ですよ。奥さんみたいなきれいな人を見かけていたら、忘れるはずがないじゃないですか」

「まあ、鵜次さんったら、本当に口がお上手なんですね」

 鵜次の思惑に気づくことなく、頬に手を当てて実嶺ははにかんで見せた。

「もし奥さんに姉妹でもいらしたら、紹介してくれませんか」

「もういやですわ、でも残念ながらわたしひとり娘なんですの」

 姉妹もいないとなると、実嶺があの夜の女であることは決定的だった。

 マンションをあとにした道で、鵜次はたまらず両腕でガッツポーズをした。彼女の秘密を俺は知っている。そう思うと、飛び上がりたいほど嬉しかった。わずかながらも実嶺が自分を記憶しているらしいこともラッキーであった。一言で、すぐに彼女は、俺とどこで会ったかを思い出すにちがいない。

 さて、これからどうするかだ。つぎに訪ねるときが肝心だ。鵜次は置いてきた文庫本のことを考えた。口実を作るために、わざと忘れるために用意した本だった。あの本がある限り、好きなときにいつでもマンションを訪ねることができる。むろん今度行くときは、彼女がひとりでいるときだ。

 さきほど目の前にした実嶺の姿が心中によみがえった。すらりとした肢体にくびれた腰。布地を持ち上げる艶めかしい胸のふくらみ。笑うと両頬にえくぼができ、白い歯がこぼれる。それは十代のころから、鵜次が待ち焦がれてきた女の姿だった。もしかしたら、俺は恋をしているのかも。彼はそう思った。

 『幻の女』という、忘れてきた本のタイトルが浮かんだ。しかしいまの鵜次にとって、その女は幻でなく、望めば、明日にでも両腕でかき抱くことのできる存在だった。

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