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死者へのセレナーデ  作者: 愛理 修
2/8

2 目撃

 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。

 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。

 鵜次虫男うつぎむしおは、口の中で呟きながら家路を歩いた。

 月が中空にかかり、夜空は遠く澄んでいる。身体に染み入った闇が、無性に人の温もりを欲しさせる、そんな夜だった。

 ――ケッ! それがどうしたというんだ。

 鵜次は目の前の空間を蹴り上げた。

 仕事もつまらなければ、独り者で、帰ったところで誰か待っているわけではない。かといって、帰る以外することはないわけで、むろん、今夜を一緒にすごしてくれる相手などいるはずもない。それが鵜次には面白くない。苛立つし、頭にくる。今日は鵜次の三十七歳の誕生日であった。時刻は十一時を過ぎ、その誕生日ももう終わろうとしている。

 正直なところ、鵜次は人に好かれる男ではなかった。チビといわれてもおかしくないほどに背が低く、貧相なネズミを思わせる顔つきをしている。髪の毛は二十代のころから後退が進み、いまでは額ばかりが広がっている。ハゲチョロ、職場での彼は陰でそう蔑まれていた。毛の抜けたネズミの意だが、悲しいほどに適切な呼び名であった。そういった見た目に加え、小心者でひがみっぽく、いつも不平不満を口にしていたのでは、好感を持たれないのは仕方なかった。さきほど寄ったランジェリーパブでも、女の子にしつこくつきまとい、嫌われたあげくに店を追い出されたばかりであった。

 道路沿いのコンビニエンスストアーに入って、イカ天と成人向き週刊誌、それに缶ビールを買う。しょっちゅうこの店で買い物してやっているのに、ここの店員は愛想のひとつもない。客をなんだと思っていやがる。髪を長くした若い男の店員を前に彼はひとりで憤慨した。長い髪が、あてつけのようにさえ感じられる。殴りつけてやったらどれほど気持ちいいかと思うが、思うだけで、ハゲチョロの彼にそんな意気地はない。

 コンビニを出た少し先で右に折れ、ラブホテル街に入る路地を進む。そこを抜けたところに鵜次のアパートはあった。車二台がなんとか行き来できる幅の路地は、入りばなは電燈がひとつあるだけで薄暗く蛇行しているが、二十メートルほどいくと、道の両側を淫靡な色と明かりがあたりを染め上げている。その手のホテルが連なり、横文字とカタカナの混在したネオンサインと料金表がいやでも目につく。トピア、ロマンス、慕情、B&G、モナコ、桃色遊戯、ご休憩2500円お泊り5000円、サービスタイム、ショート1990円……。隠蔽された男と女の吐息と体臭が、見えずとも、そこかしこから流れ出ている。人けはなく、あたりはひっそりとしていた。まるで、みなで相談しあって音を立てないようにしているみたいだ。

 ホテルの窓明かりを横目で見ながら、鵜次は歯噛みした。

 ちくしょう、みんないいことやってやがんだろうな。シャワー浴びながらいちゃついて、裸で抱き合い、まさぐりあってんだ。それなのに……。

 それなのに、なんで俺だけがこんなつまらない思いをしなくちゃいけないんだ。どうしていつも俺ばかりが損をするんだ。いったいぜんたい、俺の誕生日におまえらなにしていやがる!

 拳を振り上げたようとした矢先、ホテルの一軒から、男女のカップルが出てくるのが、鵜次の目にとまった。慌てて鵜次は平静な様子をする。人前で奇矯な振る舞いをするのが恥ずかしいぐらいの分別はまだあった。

 出入り口のネオンの光が、出てきた二人の姿を闇の中に映し出していた。鵜次の位置から六メートルほど離れている。男はメガネをかけ、鵜次と同年配ぐらい、女は二十三、四歳ぐらいに見えた。男がわりと地味な格好なのに引き替え、女のほうは、身体のラインを浮きだたせた赤いニットのワンピースである。長い髪を背中に流し、幾分濃いめのメイクが、女の顔を夜目にも一段と映えさせていた。短めの裾からすらりと伸びた脚はふるいつきたいほどだ。

 くそったれが。あんないい女とよろしくしやがって。どうしたらあんな女と――待てよ、あの女、たしかどこかで。

 二人は鵜次に気づくと、目が合わないように顔を伏せ、それでもそこに佇んでいるわけにもいかないというふうにこちら側へと歩いてきた。女が恥ずかしそうに、男の腕に自分の腕をまわす。女のことが引っかかるが、鵜次も頭を下げ気味にして歩きだした。すれちがいざま、香水の匂いが鼻腔を刺激する。どうしても女が気になる鵜次は、立ち止って振り返った。

 あの女、たしかどこかで会ったような。たしか――そうだ! 冴木さえきの女房だ!

 やっと鵜次は思い当たった。三年前の結婚式にも出席したなら、ひとまわりほど年の離れた相手だったことをよく覚えている。その時の写真のハガキももらったはずだ。

 すると、相手の男は冴木だったのか。女のほうばかりに目がいって、男はちらっと見ただけだが、そういえばメガネもかけていたし、うしろ姿の背格好といい、冴木だったのだろう。

 鵜次は二人のうしろ姿に目を凝らした。そのとき女が話しかけ、男がメガネをかけた横顔を見せた。鵜次の心臓がぴくんと跳ね上がった。男は似てはいるものの、彼の知っている冴木孝行ではなかった。

 浮気、不倫という言葉が脳裏に閃いた。いままでの憂鬱さが吹き飛び、一気にアドレナリンが全身を駆け巡る。二人が出てきたホテルのネオンを読みとると、鵜次はあとをつけだした。本能的な行動だった。知り合いの人妻の不倫現場を目撃するなんて、そうそうあることではない。

 そうとは知らずに二人は、いま鵜次が歩いてきた路地を腕を組んで歩いていく。女が男の肩に頭をもたせかけ、男は女のなすがままに任せている。二人は鵜次が曲がった通りまでくると、足を止め向かいあった。

 鵜次は暗がりに身を潜めて様子をうかがう。

 通りの外灯と走行する車のライトが、二人の顔を明るく照らす。気品ある細い眉に、ややつり上がり気味の目。女はたしかに記憶にある冴木の妻で、男は冴木ではない。冴木よりいくぶん痩せているし、年も若そうだ。女がなにか言い、男がうなずく。鵜次の場所からは声までは聞こえない。やがて女が左のほうへ歩きだし、男はそのうしろ姿を未練ありげに見つめていたが、メガネをはずしてポケットにしまうと、女とは反対の右へと歩きだした。

 二人の姿が視界から消えると、鵜次は急いで通りまで走り、左右に視線を走らせた。まだ女と男のどちらも見える。女が冴木の妻であるのが間違いないなら、彼女の帰る場所はわかるはずだ。男がどこの誰かを知るほうが、この場合得策に思えた。鵜次は先をいく男のあとを追うことにした。

 もしかしたら、これはまたとない幸運かもしれない。神様が、誕生日だから少しばかり気をきかしてくれたわけだ。コンビニの袋から缶ビールを取り出し、それをチビリチビリ飲みながら、鵜次は嬉々として男のあとをつけていった。

 二人が利用したホテルのネオンを鵜次は記憶に刻んだ。赤と紫のネオンは、『ホテル・セレナーデ』となっていた。

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