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死者へのセレナーデ  作者: 愛理 修
1/8

1 秋

 彼は夜の街を歩いていた。

 十月に入り、街には秋の気配が香りだしている。

 熱気と活気に満ちた夏は影をひそめ、枯れた、焚き火を思わせる空気が通りに漂い始めている。それは街行く人々の服装であり、足取りであり、街路樹であり、微風であり、ショーウインドウの陳列であったりした。

 夜は始まったばかりで、空は藍色めき、歩道は仕事を終えた人々で溢れている。足音と話し声が入り乱れ、二車線の道路からは車の走行音が響いていた。が、彼の耳にはいずれも遠い出来事のようにしか聞こえない。大勢の、勤めを終えて家路を辿る、通行人の一人に彼はすぎなかった。

 彼は独り身だった。五年前の初秋に離婚していた。いまにしてみれば、それが正しい選択だったのかどうかはわからない。子供がいなかったのは幸いだったと思う。しかし別れてからというもの、生活に張りがなくなったのは事実だった。淋しい気もするし、若さを失ったという気もする。いまは、職場とアパートの往復が生活となっていた。


 ――彼は視線を感じた。


 立ち止り、うしろを振り返り、周囲を見回す。雑踏のなかに見知った顔はない。誰も彼のことなど気にせず、追い越していくか、脇を通り抜けていく。周囲を、人影だけが行き来している。錯覚か。苦笑いし、彼もまた人の流れへと身をまかせた。

 女の声が呼びかけてきたのは、少し歩いてからだった。自分のことだと思わない彼は、そのまま歩き続けた。

 と、声が追ってきた。さきほどより大きな声で、彼をつなぎ止めるかのように。

「あのう……すみません」

 今度は彼も肩越しに振り向き、女がいることに気づくと、足を止め身体を女のほうに向けた。

「僕のことですか」

 女は黙ってうなずいた。

 初めて見る女だった。すらっとし、男を魅了する面差しをしている。ベージュのセーターに茶のスカート、女は秋の静けさを身にまとっていた。まだ若い、それでも落ち着いたところがある。上品な若奥様という感じか。女はなにも言わず、彼の顔にじっと視線を注いでいる。

「なんでしょう。僕の顔になにかついています」

 彼は困ったようにして言った。女の視線は彼を戸惑わせるのに十分だった。

「いえ……」

 非礼を詫びるように、女は目を伏せた。

 そのまま彼と女は黙り込んだ。街の往来で二人は人形のように立ちつくしていた。人波がそんな彼と女を無視して通りすぎていく。

 どうしたらいいのか彼にはわからなかった。なにが起こっているのかが、わからなかった。見知らぬ女に呼び止められて、いったいなにをしているんだろうと思う。しかし女の様子にはなにかワケがありそうで、このまま立ち去らせるのをためらわせてもいた。女が魅力的だということもある。

 彼が口を開こうとすると、女のほうから言った。

「……少し、お話しできませんか」

 女の申し出に彼は驚いた。誘惑めいた成り行きに瞳孔が開くが、警戒もする。

「すみません。僕、いま帰るとこで……」

「ほんの少しでいいんです。もしいまがダメなら……」

 女の口調には切羽詰ったような嘆願が込められていた。このまま別れることはできないというふうだ。なにが女をそこまで思いつめさせているのか、それを知りたい気もする。約束なり用事なりがあったら彼も断っただろう。しかし、それはなかった。

 上唇に舌先をあてがって彼はあたりを見回した。喫茶店の灯りが見え、あそこでいいですかと言って、彼は女と一緒に店内に足を踏み入れた。『フェアリー』という店名だ。

 観葉植物の傍らの席に座った。木枠の額がところどころに飾られていて、店名をあらわすように、草花と戯れる妖精たちの絵が納められている。メルヘンめいたものでなく、欧州ふうの写実的な作画であった。

 二人は紅茶を頼んだ。女は最初のように、彼の顔を見つめている。目が合うと、慌てて視線をそらす。

 紅茶が運ばれてきても、女は黙ったままだった。

「お話しというのはなんでしょう。それに、さきほどから僕の顔ばかり見られていますけど」

「すみません」

 女は恐縮するように、華奢な肩をすぼめてうつむいた。

 こちらのほうが、なにか悪いことをしたような気になってくる。

「いや、そんなに謝らないでください。ただそんなに見つめられたんでは、僕としても面映ゆいくて……」

 唐突に、彼の言葉を遮って女が言った。

「突然声をかけたりして驚かれたと思います。ただあなたが、あまりに似ていらっしゃっるもので」

「似ている?」

 女の両目が、不躾ぶしつけといっていいほど、まじまじと彼の顔を見つめてきた。

「わたしが以前おつき合いしていた方です。あなたを見た瞬間、彼が目の前に現れたみたいで、どうしていいかわからなくなってしまって、そんなことがあるはずがないのに、それで……それで声をかけずにはいられなかったんです」

 女は彼に微笑んだ。消え入りそうな、当惑した微笑みだった。

 アイルランドの民話に、妖精に魅入られた若者の話がある。妖精の食べ物を口にした若者は、二度と元の世界に戻れなくなってしまう。

 女が言った。

「彼は、もう、死んでしまった人なんです」


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